君を想うとき 世界が揺らぐ

Osam

第1話 はじまりは一つの言葉から

入院して何日が過ぎたんだろうか。

ベッドに横になったまま見上げると、そこには白い天井、無機質な蛍光灯、規則的に落ちる点滴の音に病院特有の消毒液の匂いが鼻の奥を刺す。

白いシーツとカーテンがいやに明るく目に痛いなと思いながら、慧は小さくため息をついた。


遠野慧とおのけい──二十五歳。

元々体の弱い父との二人暮らしで過ごしていたが、突然父が大きく身体を壊して介護が必須になった。

それから慧の日常は朝起きて朝食と仕事に行く準備、父の薬を確認して会社へ行く。変わらず続く毎日だと思っていたはずだった。


──ひとつ違うのは、身体の方がもう限界だったということ。

医師からは「しっかり休息をとれば大丈夫」と言っていたけれど、慧にはその”休む”

ということがどうにも難しかった。何もする気になれず、ただ時間を溶かすようにベッドに沈みぼんやりと窓の外を眺めては一日が終わる。

そんな毎日を繰り返していた。


今日も窓の外に目を向けると、冬がもうそこまで来ていると教えてくれるかのように枯れ葉がひとひら風に舞っていた。

空気はどこかひんやりとしていて、まるで自分の心のようにも思う。

「はぁ……」

また一つため息をついたとき、コンコンとドアをノックする音が響く。

静かにドアが開くとそこには一人の男性看護師が顔をのぞかせる。

小さな顔にすらりとした長い手足、落ち着いた声に似合わず少し幼さの残る顔をしている姿が妙に印象に残った。


慧が体を起こそうとすると、失礼しますと言ってそのままベッドの横に来て背中に手を回す。

「ゆっくりで良いですよ」

と、優しく声をかけて支える。

見上げた目線のその先に佐久間悠一さくまゆういちと書かれていた名札が揺れていた。

「検温に来ました。調子はどうですか? 少しは食欲出てきましたか?」

「……あまりありません」

倒れてからというもの、なぜか空腹とは縁遠いものになり食欲が出てこない。

「そうでしたか」

しっかり食べてください──

そんな言葉が続くのだろう、と慧は目を伏せて思った。──が降ってきた声はその想像と違っていた。

「遠野さん、少しずつでいいんですよ。食べる”練習”をしていきましょう。ほんの

一口でもかまいませんから」

俯いていた瞳が僅かに見開かれる、けれど視線はまだ下を向いたまま。

慧の胸に無意識の罪悪感がじわりと湧く。

「……努力、してみます」

「努力なんてしてなくて良いんです」

その言葉に思わず顔を上げた。

「遠野さんは努力して感張りすぎて今ここに居るんですよ。だからもう頑張らなくて良いんです」


短い沈黙──柔らかく微笑んでいる悠一。

慧の胸には先ほど言われた言葉が心の奥に静かに落ちていった。

「体温計、ありがとうございます。また来ますね」

そう言って悠一は静かに部屋を後にする。彼が去ったあと慧は閉じられたドアを見つめていた。

……あんな人、病棟に居たかな

そんな事を思いながらベッドに横になるとゆっくり目を閉じる。

先ほど胸に落ちてきた言葉だけは、そのまま静寂と共に沈まず水面の上に浮かんでいるようだった。


それから数日は相変わらず白い天井を眺めて過ごしていたが、不思議なことにあの日の声だけは耳に残っている。

努力なんてしなくて良いんです──

その響きを思い出す度に胸に浮かんでいた言葉がほんの少しだけ揺れる。


少しだけ変わった事といえば食事の時間があまり苦痛ではなくなり、進まなかった箸が少しずつ進むようになってきた。

まだ美味しいとは感じにくいけれど、食べてみようという気持ちがほんの僅かに生まれてきていたのだ。


ある日、病室のテーブルにはいつもより少しだけ減ったおかずのお皿が並んでいたのを見た悠一は

「遠野さん凄いじゃないですか! あ、でも無理はしないでくださいね?」

まるで自分の事のように嬉しそうに笑った。

慧は少し戸惑いながらも頷いた。「凄い」なんて言葉をいつから向けてもらっていなかっただろう。

その笑顔を見て胸の中に温かさが滲む。

「……ありがとう、ございます」

あの時出てこなかった言葉が、するりとこぼれた。

どうしてこの人はここまで喜んでくれるんだろう?そう疑問に思うが、悠一の嘘も偽りも感じない素直な言葉に、こんな人もいるんだと思うと少しだけ目を細めた。

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