ep.5募る不安
「先生‥‥?」
先生は下を向いたまま、私の手を掴んでいた。
突然のことすぎて、理解するのに時間を要した。
「あ、あの。」
私が声をかけた時、先生は少し顔を上げた。先生から見て、右手で私の左手を掴んでいた。
先生は左手の手の甲で、自分の顔を隠していた。私から見ると、先生の目元だけが写っていた。
「先生、顔が。」
先生の頬がほのかに赤く染められていた。
うわ。
先生でも、照れることがあるんだなと思う。
この状況すら理解できていないのに、まともに先生と会話ができるはずがない。うまく会話ができずに言葉が詰まりそうになる。
立ち上がる時の不可抗力とかでもなく、先生は意図的に手を繋いでいるのだ。
そして、先生は小さな声で言った。
「もう少し、話さないか。」
その一言を言った瞬間、そっと空気が揺らいだ。窓は開いていないのに風を感じた。
先生は私の手を握ったまま、何も言わない。少し前を向いて頬を赤らめているだけだった。
先生の声は、ものすごく優しかった。
でも、悲しい声だった。
何かを押さえ込んでいるような、我慢しているような。そんな声がした気がした。
「‥‥。」
私は再びソファに腰掛けた。先生は私の手を握ったまま何も言わない。無言を貫いていた。
「‥‥先生は、余命宣告をされている人を好きになれますか?」
「なぜ、そんなことを聞くんだ?」
「だって、私は、わたしは‥‥」
先生のことが好き。
思いもよらぬ答えが頭の中に浮かんだ。
私が、先生のことを好き‥‥?
バカ言わないでよ。
私はただの患者で先生は医者。こんなくだらない想いに、先生は何も思わない。
こんなの、ただの戯言だ。私のいきすぎた空想に過ぎない。
「わたしは?」
先生は私の顔を覗き込んできた。肩と肩が触れて互いの距離が一気に縮まる。先生の顔はもうすぐそこにあった。てか、なんで先生は人とこんなにも顔の距離が近いのに澄まし顔をしているの?私は今にも心臓がはち切れそうなのに。
「ち、近いです。」
「あ、ごめんごめん。」
先生はそう言いながら体を前に向けた。それと同時に、握っていた私の手を離した。離したと思えば、私の手の上に先生の手がのってきた。
私は全身の体温が上がっていくのを感じた。反対の手で自分の頬を撫でれば熱が籠っていた。
「好きになってしまったものは、変わらない。」
「え?」
一言、先生が呟いた。私は先生の方を見た。
そこには、クシャッと砕けた笑顔があった。
「私もです。」
そう言いながら、私は少し先生に身体を寄せた。
「今日は、ありがとうございました。」
私は先生の肩に寄りかかり、さらに身体を近づけた。
先生は一瞬驚いたように息を呑んだ。
余命のことも、未来のことも、今だけは考えるのをやめよう。今はただ、先生の温もりを感じていたかった。
コンコンコン
「空音ちゃーんおはよう〜。あれ?今日は起きてないの?」
「あ、おはようございます。」
私は、佐野さんが部屋に入ってくる音と彼女の声で目が覚めた。
あれ?私、さっきまで先生とソファで話していたはずなのに。花火を見て、先生にまさかの手を握られての展開だったはず。なのに今は朝になっており私は病室で寝ていた。
「先生が検診しに来てくれてるよ。」
佐野さんはいつもの優しい笑顔を浮かべていた。
「あ、あの‥‥!」
「おはよう。」
「あ、おはようございます。」
先生が、白衣を着ていつもと同様に首に巻いてある聴診器を外して耳につけた。
「心音聞くね。」
そう言いながら近くのパイプ椅子に座って私の身体に近づけた。
トクン、トクン、トクン
私はとにかく昨日から今までの時系列を聞きたかった。しかし、心音を聞いている間は口から出そうな言葉をグッと抑えた。
「うん、大丈夫だね。ゴホッ、ゴホッ。」
先生は十八番のセリフを言って聴診器を外した。いつもと変わらない。
「先生?」
「今日この後、お父さんとお話があるんだけど、白夜さんにも来てほしくて。」
また、阻まれた。
私が何かを言おうとするたびに、重ねて先生が何かを言ってくる。
「あ、大丈夫です。」
「ありがと。それじゃ、また呼ぶね。」
先生はパイプ椅子を立ち上がり元の位置に戻した。
「朝ごはん持ってくるね!」
佐野さんは、キャスター付きの大きな医療重機を運びながら私に向かって言った。
「分かりました。」
ガチャン
扉が勢いよく閉められた。なんだか、無視?されているような。先生からは不穏な空気が漂ってきていた。これ以上何か言ったら起こりそうな雰囲気。
あそこで私は、何も言わないのが正解だったのだろうか?もしかして、佐野さんに好意がバレたくないとか?バレたらまずいとか?
ていうかその前に、私たちは患者と担当医という関係性だ。先生はその観点から、佐野さんに悟られたくなかったのか。
「はぁ〜。」
私は身体をベッドに預けて寝転がった。考えても分からない。先生が何を考えてて、なぜ私の口を阻むのか。埒が開かない。
でも、分かることが一つだけある。それは、昨日の夜はとっても幸せだったってこと‥‥。
コンコンコン
「はーい。」
私は瞬間的に起き上がり、扉の方を見た。
ガチャ
「朝ごはん持ってきたよ〜。」
それは、色とりどりの食材を並べたおぼんを持った佐野さんだった。
「はいどうぞ。」
「ありがとうございます。」
佐野さんはベッドの簡易机が出てないことに気付いたのか、テレビの前にある机に食事を置いた。
私はスリッパを履いてそちらの方にテクテクと歩いて向かった。
「で、昨日はどうだったの?楽しかった?!」
私がソファに腰掛ける時には、黒目をぱっちりとさせてこちらを見つめている佐野さんが目の前に座っていた。
ちょっとどころじゃない鬱陶しさはあったが、私は躊躇することなくソファに座った。
「いただきます。」
今日の朝食のメモを手に取り見てみると、野菜と豚の生姜炒めメニューと書かれてあった。
白飯に野菜と豚の生姜炒めにひじきスープが添えられてあった。今日も今日とて、美味しそうだった。
私はチラッと佐野さんの方を見た。
ウキウキ!ウキウキ!と、効果音が鳴りそうな顔でこちらを見つめていた。
私は食事に集中しようと、ひじきスープに全神経を注いだが、彼女は決して折れなかった。
「‥‥昨日は!」
私はひじきスープを力強く置いた。
佐野さんは驚くどころか、黒目を更に大きくしていた。
「昨日は!」
私に続いて同じフレーズを言った。頼むから食事に集中させてくれ。
「先生と射的をやって楽しかったですっ!」
シーーーーーーーーーン
「え、それだけ?」
「そんなに見つめといて何ですかその態度はー!」
私は目を血走らせて牙をむいた。
「分かった分かった!よかったね!楽しめたんだね!よかったよかった!」
佐野さんは立ち上がった私を落ち着かせようと必死だった。その姿は不甲斐にも笑えてくる。もっと困らせてやろうと思ったが、グゥ〜っとお腹の音が鳴り止まないため、断念した。
私は座って再び箸を持った。
「射的か〜!私もやりたかった!」
「宮古島祭なら、しばらくやってるので佐野さんも行ってみたらいかがですか?」
「そうだね〜。行ってみようかな〜。」
「佐野さんは、彼氏とかいないんですか?」
「なっ!それは、いませよ〜。」
「好きな人とか!」
「好きな人‥‥」
本調子だった佐野さんは、膝と膝をくっつけて内股になり恥ずかしそうに下を向いていた。
私はその間に佐野さんに心当たりがないか思い返した。佐野さんとの会話や、佐野さんの反応で何か読み取れることはないか。
『白夜さん準備できましたよ‥‥って、悠仁くん?』
え?
私はいきなり、記憶がある日にフラッシュバックされた。
心音に雑音が混ざっていたとき、検査待ちをしている時に出会った耳鼻咽喉科の小林悠仁!彼のセリフがなぜか今フラッシュバックされたのだ。
えまってまって!やっぱりいきなりフラッシュバックっておかしいよね?佐野さんの好きな人って‥‥
「今はそんな人いないかな〜。仕事も忙しいし!」
佐野さんは、私の思っていた反応とは違う反応をした。
佐野さんは、小林悠仁が好きではないのか?!
「そうなんですね〜。」
これは、私の過度な思い違いだったようだ。
「そ、それじゃ!ゆっくりご飯食べてね!食べ終わったらそのままでいいから!じゃ、また!」
佐野さんは光の如く立ち上がり扉に向かって行った。
ガチャン!
今までにない勢いと強さで扉を閉めた。
あの反応、やっぱり‥‥いや、バカな考えはよそう。
私は止めていた箸の動きをやっとこそ動かした。
「ごちそうさまでした。」
朝食を食べ終え、私は歯を磨きに洗面所に行った。昨日父親に新しく買ってきてもらった緑色の歯ブラシを手にとって歯磨き粉をつけた。
シュカシュカシュカ
私は歯を磨きながら窓際に立った。蝉の鳴き声が鼓膜の細部まで届いてくる。
生きる日数が少ないとはいえ、もう少し黙ってほしい。
コンコンコン
「ふぁーい!だれでふかー。」
歯磨き最中に扉が叩かれ、まともに返事をできなかった。
「先生でーす。朝ごはん食べ終わった?」
やってきたのは、部屋の外から白衣のポケットに両手を突っ込みながら先生だった。
「いま歯磨いてふので、ちょっと。」
私は立ち上がって洗面所に向かった。
うがいをして口の中をスッキリさせた。この瞬間がたまらなく気持ちいいのだ。
「なんでしょうか。」
「もうお父さん来てるから行くよ。」
先生は点滴を持ってベッドの前で待ち構えていた。
私は慌てて部屋用のスリッパから外出用のサンダルに履き替えた。
このサンダルは厚底仕様になっており、全ての穴が埋まるほどのキャラクターものがついていた。これは葉那とお揃いで買ったものだ。佐野さんはいつもこれを可愛いと言ってくれる。
「あ、点滴。ありがとうございます。」
私は先生が持っていた点滴を貰い左手で握りしめた。
「体調は大丈夫?ゴホッ、ゴホッ。」
「私は大丈夫ですけど、先生の方こそ、最近咳が出ていません?」
先生はここ最近、定期的に風邪の症状に近い咳をしている。私はそれが気になって仕方がなかった。
「ただの風邪だよ。大丈夫大丈夫。」
本当に大丈夫かな?心配になる。
「ゴホッゴホッ、ゴホッ!」
「せ、先生?大丈夫ですか?!」
「あ、あぁ。すまない。」
私は先生の背中をさすろうとしたが、躊躇ってしまいその手を止めた。
これ以上、踏み込んではダメだ。
昨日のことはよく覚えている。おそらく先生は嫌がることなく私といることを承知してくれた。私は先生との距離が近すぎてすぐにでも意識が飛びそうだった。
「治まりましたか?」
「うん。ごめんね。」
先生は中腰から身体を起こして背伸びをした。ただでさえ身長が高いのに両腕を上げたらさらに背丈が伸びる。私は思わず見上げてしまった。
「行こっか。」
先生は両手を白衣のポケットに突っ込んで出口に向かった。
私はそれに続いて歩き出した。
いつもは軽く感じる点滴がとてつもなく重く感じた。まるで金属物を持ち歩いているようだった。
ガチャン
私は病室の扉を閉めて廊下を歩き出した。
先生の横に立って廊下を歩き出した。
ふと昨日のことを思い出すと、隣に並ぶのも恥ずかしいくらいになる。私は極力、目を合わせないようにしていた。
先生の顔をみるだけで顔から火が出るほど暑くなってしまうから。
そして、不思議なことに先生は昨日のことを何も言わないのだ。私は気づいたら病室にいたから昨日どうゆう流れだったのかが気になってしょうがない。先生に聞こうとしても必ず遮られてしまうので聞けない。
おんぶをされて寝てしまった私を病室まで運んでくれたのかな?寝てしまったことまではギリ覚えているんだけどな〜。
「暑くない?」
「大丈夫です。」
ほら、いつも通り。これといって特別なことはない。いつもと変わらない先生だった。
「おはようございまーす。」
「田中さん体調は大丈夫ですかー?」
ナースカウンター近くになると、必然的に大広場が近づいてくるので同時に患者や看護師の声も大きくなっていく。
「空音ちゃんおはようー!」
お互いに認識している看護師に挨拶を交わされて私はぺこりとお辞儀をした。女子高校生で余命宣告されている患者というのは本当に稀のため、殆どの看護師に知られている。そんな理由で知られるんじゃなくて、もっと別の理由で私を知って欲しかったな。例えば、漫画家とか!
周りから哀れな目で見られてしまう病気なんかじゃなくて、自分の努力が認められて自分の名がみんなに知られて欲しいんだ。
日々、そう思っていた。
ずっと一人で考え事をしていたが、そういえば先生と歩いてるんだった完全に忘れてた。
ピンポーン
「どーぞ。」
「ありがとうございます。」
いつの間にかエレベーター前にいた。
先生はエレベーターの扉を押さえててくれた。私はその隙に乗り込み手すりにつかまった。
『扉が閉まります。ご注意ください』
「あっぶね。」
扉に挟まれそうになる先生を見て、少しの笑みが溢れた。
「ふふっ。」
「ん?どうした?」
「いや、なんでも。」
エレベーターの扉が勢いよく閉まった。
「その言い方は気になるじゃん!」
「いいの!ほんとになんでもないの!」
「ゴッホン!」
「あ、あぁ。」
私と先生は大きな声で話し合っていた。だから、エレベーターの中にいる人なんて気づかなかった。一人のおじさん医者が乗っていたのだ。
私はおじさん医者の様子を察して下を向いて黙り込んだ。
横目で先生を見ると、絶望したような顔をしていた。顔を真っ青に染めており、今にも気絶しそうな表情だった。
その様子から見るに、このおじさん医者はかなりお偉い方なのだろう。
私はその姿に今にも笑い声が溢れそうだった。
(早くつけ!早く一階につけ!)
ピンポーン
「君たちはここで降りるのかい?」
「は、はい!降ります!失礼しまーす!」
先生は私の腕を握って引きちぎれるほどに威力で引っ張った。
「痛い痛い痛い!」
「あの人はここの医院長なんだよぉ!」
先生は焦った顔をしながら走っていた。
「ど、どこまで行くんですか!お父さんはどこにいるんですか〜!」
「やっと着いた。」
「はぁ、はぁ、はぁ!マジで、ふざけんなよ‥‥!」
いきなり走ったせいで息切れがすごい。
あとで、覚えてろよ。
そして、ある部屋の前に着いた。上を見上げると、明朝体で『第二相談室』と書かれていた。
この部屋に入るのは初めてだ。そもそも一階のこんな奥の部屋まで来たことがなかった。新鮮な気分だ。
コンコンコン
「失礼します。」
先生は扉をノックして部屋に入った。
第二相談室には、窓が4つほど設置されていた。少し横長の机にキャスター付きの椅子と一人用ソファが二つ置かれていた。
一人用ソファの一つに、見覚えのある背中がいた。その男はサッとこちらに振り向いた。
私は真っ先に父親の方に駆け寄った。
「空音〜!」
「お父さん。」
私と父親はハイタッチをした。
「はぁ〜先生いつもありがとうございますぅ。」
父親は語尾を高くして先生に話しかけた。先生はニコッと笑いながら頷いた。
うちの父親は陽気な人であり、いつも私を笑わせようと必死な人だった。先生と少し属性は似ているが、その属性の中でも合わない二人のようだ。父親と話す先生の表情を見る限りそう推測できる。
「今日は暑い中来てくださってありがとうございます。どうぞお座りください。あと、こちら、お水です。」
「わざわざすみません。」
私と父親は隣に座り、先生は向かいにある椅子に座った。
先生は机の上に置いてあったペットボトルを父親に渡した。父親は喜んで蓋を開けて勢いよく飲んだ。
「ぷはぁ!夏の水は美味しいですね!」
「ははっ、そうですね。」
先生は愛想笑いを繰り返した。私は父親の滑りネタに反応したくなくて無表情でいた。
「それでは、今日の本題に入りますね。」
私は何の要件も伝えられずにここに連れてこられた。父親と話すとだけ教えられていたため、少し緊張していた。
先生は何を話すんだろう。いつもより眉を寄せて険しい表情になっている先生を見て、さらに緊張感が高まった。
私は膝の上で両拳を握りしめた。
「まず、白夜空音さんの病状は心疾患というものです。心疾患の中でも心不全というものです。この病気は、5年生存率が約50%となっています。」
「はい。」
「現在は薬物療法を行い様子観察としていますが、いずれは手術をした方がいいかと思われます。」
「手術というのは、具体的にどのようなものなんでしょうか。」
父親は先生を真っ直ぐ見て何度も頷いていた。
「空音さんの場合は心不全なので、開胸手術になると思われます。これから重症化した場合、開胸手術によって補助人工心臓を植え込むことになると。」
私は医療用語が多くてよく分からなかった。しかし、父親は看護師というだけあり、熱心に話を聞いていた。
「そうですか。手術をするとなればリスクも伴いますよね?」
「そうですね。リスクも高まりますが、空音さんへの負担が大きいかと思います。ですが、ここ最近では手術をすることによって寿命が伸びるとも研究結果が出ています。」
私は、咄嗟に自分の耳を塞いだ。
なぜかって、怖いからだ。怖くて怖くてたまらなかったからだ。
このアホチンタラの私が聞いてても分かる。
私はただ風邪で入院している人たちとは訳が違う。心臓病といって、完治することがない病気なのだ。
別になりたくてなったわけじゃないのに、なってしまったのだ。
私は耳を塞いだまま下を俯いた。自分の肩が小刻みに揺れているのが分かる。
すると、父親の手が私の肩に触れた。
「もう一度この子と話してもいいですか?後日、連絡しますから。」
「分かりました。」
二人の声に、私は思わず涙目を浮かべた。優しい声が
こんなにも安心できるなんて。
もうすぐ死ぬっていうのに、死ぬことが確約されている人間を優しく扱ってくれる。
勝手ながらの意見だが、父親は私の立場を思ってこの発言をしてくれたんだと思う。
「それじゃ、私はこれで。今後とも空音をよろしくお願いします。」
父親はその場でスッと立ち上がり先生にお辞儀をした。
先生は何も言わずに軽くお辞儀をし返すだけだった。
「先生の言うことちゃんと聞くんだぞ!」
「分かってるよ。」
いきなり父親面されたらムカつく。うざったしい。
先生を見ると姿は消えており、出入り口の扉の前で扉を押さえていた。
「あーすみませんね!ありがとうございます。」
私も父親に続いて部屋を後にした。
「ありがとうございます。」
ガチャン
「そういえば、白夜さんは何科で働かれているんですか?」
前に歩いている二人が世間話を始めた。
「心臓血管です。」
「そうだったんですね。」
「空音のことは、ある程度把握しています。なので、知った時は余計に辛かったです。」
いやいや、こうゆう話は本人のいる前で普通話さないでしょ。別に私は人の言った言葉にいちいち傷つかないからいいけど。
「それじゃ、私はこれで失礼します。またね!」
二人が雑談を交わしている間に出口に着いていた。
父親は片手を上げた私に手を振った。私もその手に合わせて同じように振り返した。
「昨日花火の時、伝えようとしていたことってこれですか?」
先生は少し間をおいて返事をした。“ちがう“と。
「え?」
「そんな困った顔するな。」
先生はそう言いながら私の頭を掻き回した。
「ちょ、ちょっと!」
「戻るぞ。」
先生が言おうとしてたこと、別に今知らなくてもいいと思えた。
「心臓血管と先生の科は何が違うんですか?」
「おぉ〜!いい質問だな!それはな‥‥」
エレベーターに向かって扉が開いて4階に着くまでの時間が、こんなにも愛おしいだなんて。映画とかで言っている『この時間が一生続けばいいのに』は今になってよく分かる。
いつ死ぬかが明確な私にとって、更にそう思う。
一生だなんて私には存在しないのに。そんなこと思うだけ無駄なことだって分かってる。
けど、けどね、無意識に先生のことを考えてしまう。
これは罪なのか?ダメなことなのか?いつ自問自答してもパッと答えが浮かばなかった。
『4階、4階です』
私たちはエレベーターを降りた。
「今日は随分と人が多いな〜。」
「そうですね。やっと涼しくなってきましたから。」
先生の見立て通り、4階の中央広場にはたくさんの患者と看護師で溢れていた。また、患者の家族である見舞いの人も沢山いた。
私は点滴スタンドを押しながら先生と廊下を歩いた。
先生はもはや当たり前のように病室まで一緒に来てくれる。これが私にとってどんなに心強いか。私は先生に対してただ恋心を抱いているわけではない。先生は先生として、余命宣告されている私を何度も何度も励ましてくれるのだ。怖くて泣きたくなる夜なんて毎晩のようにある。その度に先生を呼べばわざわざ足を運んだこちらに来てくれる。
『空音は大丈夫。怖くない怖くない。』
と、背中をさすってくれる。
先生がいるから私は生きる希望を見出すことができるのだ。
すると、同じ病棟に入院している山おじちゃんの病室前を通りかかったタイミングで部屋から山おじちゃんが出てきた。
「おぉ〜空音ちゃん!元気してた?」
「あ、はい。こんにちわ。」
私は素っ気なく返事をした。今日の山おじちゃんはいつもより口角が上がっていた。
山本さんは二つ隣の病室で入院している心疾患のおじいちゃんだ。本人からの依頼で山おじちゃんと呼んでいる。
ある日突然このおじさんは私に話しかけてきた。そして言い方が悪いが馴れ馴れしく接してきて、少し抵抗があった。
「もうごはんは食べたかい?体調は大丈夫かい?」
「あーはい、大丈夫です。」
「ほれほれもっと明るい顔せんと!そういえば、部屋に金平糖があるから食べるか?」
本当に今日はテンションが高めでめんどくさい。
私は隣にいる先生の方を見ると、先生は腕を組んで中央広場を見つめていた。こちらには興味がないようだ。きっと、私が話終わるのを待っているんだ。
早くここから撤退しないと。
「大丈夫です。あなたもお元気でお過ごしください。では、失礼します。行きましょ先生!」
私は先生の腕を引っ張ってその場から離れた。
「おおー痛い痛い。」
先生はそう言いながら私に腕を引っ張られながら歩いてきた。
「空ちゃーん!」
すると、私の名前を呼ぶ声がした。
「白夜さん、あの子。」
先生が肩を叩いてその声の主を教えてくれた。私は先生の腕を離してその子を見た。
「久しぶりっ!」
私が古都波ちゃんを見る頃には、彼女はすでに私を抱擁していた。
「うわっ!近い近い!」
「今度そっち遊びに行くね!」
「分かった分かったありがとう。」
米澤古都波ちゃん。私より四つ上のお姉さん。一週間前に入院してきたばかりの大学生だ。
彼女は大学のテニスサークルの練習中にアキレス腱を派手に切って完治四ヶ月の大怪我で入院している。特にきっかけはなかったものの、彼女とエレベーターで二人きりになった時に話かけられて以降、仲良くしている。古都波ちゃんは人と話すことが好きらしく、私のことも初めて見た時から話してみたかったと言ってくる。ありがた迷惑だけどいざ話してみればかなりいい子だし話が面白かった。入院している階は違うけれど、なぜかかなりの頻度でここの階にいるのでよく会う。
「じゃ、またね!」
古都波ちゃんは松葉杖をつきながら窓際の方に行ってしまった。よくよく見ると、誰かと親しげに話していた。
「あれは彼女のおばあちゃんだね。」
「うんうん‥‥ってえ?!」
私は目を見開いて先生を見た。先生は大きく口を開けて笑った。
「知らなくて仲良くしてたの?」
「はい。」
「やばすぎ(笑)」
私はうるさい、と言って病室に向かった。
「まぁまぁ怒んないでって。」
「別に怒ってません。」
「ほんとに〜?」
先生は中腰になって私の顔をのぞいた。
「ちょっと何するんですか!」
「別に〜。」
「あぁーもう!ここまでありがとうございました!さようなら!」
私は先生の背中を押し出して点滴を握った。そして、病室に向かって猛ダッシュした。
ドタドタドタ!バン!
「もうなんなのよ‥‥!」
私は扉に寄りかかりながら意味不明な独り言を何度も呟いた。自分の頬を撫でてみると熱が篭っていた。先生のせいで私の体温平均が上がっていく。私は先生との関係が嫌ではなかった。むしろもっと一緒にいたいと思うし話もしたいと思う。
私はしばらく体温が下がるまでドアに寄りかかっていた。
時計の針は4時を過ぎようとしていた。
私はあの後、12時にお昼ご飯を食べてそれからベッドに寝転がって昼寝をした。多分、3時間くらいは寝てしまったと思う。
私は起き上がって外出用のスリッパを履いた。テレビを見ながらご飯を食べてからそのまま寝落ちしてしまったのでテレビがつけっぱなしになっていた。
『最近、若者の間で流行っている‥‥』
私はテレビの画面を消した。特に興味がなかったからだ。
そして出口付近に置いてある点滴に手を伸ばした。
ガラガラガラ
私は外に出て扉を閉めた。
少しずつ歩き出して一番遠くにあるエレベーターに向かった。角部屋ってのはいい面もあればよくない面もある。でも私は嫌いじゃなかった。唯一の欠点といえばエレベーターが遠いくらいだ。
寝起きのため上手く歩く方法が分からなかった。ゆっくりと歩いて徐々に足に力を入れて歩く速度を早めた。
どこかを歩いているとつくづく思う。最近は気分がいい。嘔吐の回数も圧倒的に減ったのだ。まだ手術はしていなくて変な大量の薬を飲んでいるけれど、ついにその効果が出たのかもしれない。
淡い期待を抱きながら私の身体はエレベーターの前に立っていた。
ナースカウンターには複数人の看護師がいて各自作業をしていた。いつもいつも大変だなーって思う。いつ寝てるんだろうとも思う。
私は一応患者の身であるからあまり思っていることは言えないが、心の中では彼女たちの生態をよく考えている。性格悪な奴だな私。
ピンポーン
エレベーターに乗り込み、閉ボタン押した。
3階、2階、1階と体を揺らしながらエレベーターは目的地の場所に着いた。
『1階、1階です。』
私は点滴を押しながらエレベーターを降りた。
降りた瞬間に結構な人がいて私とすれ違いながら乗り込もうとした。私は会釈をしながら人の合間を抜けていった。
私の入院している病院には小さなコンビニがある。そこにはお菓子の品が豪華で私の庭と化している。
私はコンビニに足を運んだ。
「空音ちゃんいらっしゃーい!」
「こんにちわ。」
「体調大丈夫?」
「大丈夫です。」
店内に入った瞬間にレジにいるおばあさんに話しかけられた。
このおばさんは私が入院するずっと前からここで働いているらしい。
長期入院をしている人の名前と顔はだいたい覚えているらしい。
私はお菓子コーナーに行った。今日は何を買おっかなー。グミもいいけどしょっぱい系のスナック菓子でもいいな。結局甘い系が食べたくなって苺味のポッキーをレジに持って行った。
「お願いします。」
「はいよー。」
彼女は慣れた手つきでレジ打ちを始めた。
「160円です。」
「お願いします。」
「ちょうどお預かりしまーす。」
私は商品を受け取って小さくお辞儀をした。
「またねー!」
おばさんの声は聞こえていたのにも関わらず私は無視をしてしまった。いつもそうだ。聞こえないふりをして店を出て行く。挨拶もろくに交わさない最低なやつだった。
「あっ、すみません。」
店内に入ってきた人と肩がぶつかってしまった。私は咄嗟に謝りその場から離れようとした。
さっさと帰って漫画でも描こう。
「まって!」
突然肩を叩かれた。
私は驚きとともに後ろを振り返った。
「え?!葉那!」
そこには制服姿の葉那がいたのだ。
「えー!すっごい偶然!いまそっちに行こうとしてたんだよ!」
「すごいね!ほんとにやばすきるわ〜。」
私と葉那は店内の入り口に留まっていた。葉那は私の腕を思いっきり引っ張って外に引き連れた。
「もうお菓子なんていいや!早く病室行こ!」
「はいこれ。いる?」
「サンキュー。」
「っておい!」
葉那はポッキーを3本一気に奪った。
「ごめんごめん〜。」
「マジでふざけんなよ〜!」
私と彼女はお互いの腕を掴みながら近い距離を保ったままエレベーターに向かった。
「今日の時間割は何だったの?」
「んっとね今日はマジで最悪な日で確か、言語文化、論表、英コミュ、数A、現代の国語、生物、数1。」
「終わってんな。よく生きて帰って来れたね。」
「このうち3つテストあって普通にキレた。」
私は可哀想〜と煽りながらエレベータのボタンを押した。
ピンポーン
運良く明日瞬間にエレベータがやってきた。
「それでさ〜‥‥」
私が葉那の顔を見ながら相槌をしていると、まさかの出来事が再び起こった。
「せんせい?」
「ん?なに先生って。」
「あ、どーも。」
エレベーターの中に、たまったま先生が乗っていたのだ。私は驚きを隠せず咄嗟に葉那の後ろに隠れた。
「えちょマジで何?!」
「‥‥。」
「はぁ〜?」
葉那は納得いっていない様子で先生を睨みつけていた。そんな顔しないで!と言いたかったが、先生とバレるのが嫌だった。
葉那にはかなり前から先生のことを話していたが、直接顔と顔を見合わせたことはなかった。
葉那の想像の中で終わらせたかったのだ。
先生というと、無言のまま私たちを見ていた。私たちというか、葉那に睨まれているから睨み返しているようにしか見えない。
まさかこんな奇跡が同時に起こるなんて。正直驚くばかりだった。
ピンポーン
葉那の背後に隠れていると、エレベーターの着く音がした。私は葉那の腕を鷲掴みして飛び出た。
「ありがとうございまーす!」
「ちょ!いたいいたい!」
どうせ先生も同じ階に来るのに。私は後悔した。
私は右手で点滴スタンドを引きながら、葉那の腕を組んで病室に向かった。
「急にどうしたのさ?!」
「いいからいいから!」
私もなぜこんなに焦っているのか分からない。ただエレベーターで先生に会っただけなのに。
私は病室の扉を勢いよく開けて閉めた。
ガチャン!
「すっごい速さだね。ってそんなことどうでもいいから。なんでこんなに急いでるの?」
「今、エレベーターにいた人が私がいつも言ってる″先生“」
「えー!!!!!そうなの?!え?マジかよ!」
葉那はリアクションを大きくして叫んだ。私は宥めるようにしたがもはや無駄な行動だった。
「あああああれがあの″先生”?近くで見たけど結構イケメンじゃーん!」
葉那は病室のキャスター付きの椅子に座った。ほんとは私が座りたかったのだが。代わりにベッドの上に腰掛けた。
私が座ると、葉那は目を丸くしてこちらを見つめた。
「でしょ?イケメンなんだよ〜。」
「ほんと空音って面食いだよな。あと身長高い人も好きでしょ?!」
私は頷いた。というか、頷くことしか出来なかった。
ベッドに座った瞬間、とてつもない疲労感に襲われたからだ。走ったせいもあるが、今朝の父親を含めた面談が脳裏に焼きついていた。
「そういえば空音のこと好きって言ってた奴がさ‥‥って、どうしたのさ?!」
「え?あ‥‥ごめん。」
葉那はスマホを置いて私の頬を触った。急な彼女の行動に驚いてしまった。
しかし、その驚きも霧のように消えていった。
私の頬はすでにびっしょりと、濡れていたのだ。
「どうしたのどうしたの?」
葉那はそう言いながら私のことをハグした。彼女の腕に包まれた瞬間、さらに涙が溢れ出た。
「ひっく、ひっく、ご、ごめんね。ひっく。」
涙が止まらなかった。なんでかな?なんでこんなにも泣いてしまうのかな?
『でしょ?イケメンなんだよ〜。』
本当は、苦しかった。
いつもの私を演じようとしても、葉那を目の前にすると目元がじわっと滲んでしまうんだ。
泣くのを我慢しようとしても、溢れ出ちゃうんだ。
今朝から手術のことで頭がいっぱいいっぱいだった。
葉那は何も言わずに、ただ私の背中を撫で続けた。私は何度も謝ったが、その度に葉那が大丈夫だよ、と呟いてくれた。
この言葉にどれだけ救われたか。
徐々に私の心の不安はかき消されていった。
「あのね、私ね、今日ね、先生から病気のことについて言われたの。」
涙が溢れ出た。やっぱり抑え切れなかった。
「うん、ゆっくりで大丈夫だよ。落ち着いて落ち着いて。」
優しい手が私を包み込んだ。
「う‥う‥うわぁぁぁぁぁぁん!!!!」
過去最大の量の涙が一度に溢れ出てきた。
「こめんね。」
「空音は謝らなくていいの。誰も悪くないの。」
彼女の腕の中で、私は泣き続けた。
「少しは落ち着いた?」
「うん。」
私は、しばらく大きな声で泣いてしまっていた。その間もずっと葉那が慰めてくれた。
理由も言わずにいきなり泣きつかれて、彼女自身戸惑っている部分もあるだろう。
私はこんなに泣いてしまった理由を葉那に話した。
「今日の朝、先生とお父さんと手術の話をしたのね。もし手術したら少しは長く生きられるみたい。」
葉那は何度も泣きそうな顔をしていた。その度に私も涙が溢れ出そうになった。
けど、そんな気持ちをグッと堪えた。
「だけど、心臓移植っていって負担が大きい手術なの。」
「心臓移植?」
「私もこれからお父さんと話すからそこまで詳しくないけど。」
「そうだったんだ。私は医者でもなんでもないから何も言えない。だけど、最終的にはあんたが決めたほうがいいよ。」
「うん。ありがと。」
葉那は目線を変えることなく私の方を見つめた。彼女は私の立場を思って意見を言ってくれた。これはちゃんと受け止めよう。
「あ、時間だ。」
葉那はスマホの画面で時間を確認した。
「今日も来てくれてありがと。」
私は笑顔のつもりで彼女を送ろうとした。
「‥‥そんな顔すんじゃない!」
葉那は私の頬をつねった。痛い痛い!と言うとその手は離された。荷物をたくさん詰めた革バックを持って彼女は部屋を出て行った。私は最後まで手を振った。
彼女の姿が完全に見えなくなり、私は一人取り残された。孤独感が支配する病室は、悲しくてたまらなかった。この葉那が部屋を出て行った後の空気感が本当に嫌だった。
特にすることも見つからず、ベッドから降りてとりあえず机の上にあるリモコンに手を伸ばしてテレビをつけた。
『明日から来週にかけて、雷雨が続くでしょう。』
雨は嫌いだ。中庭に出ていつものベンチで漫画が描けなくなるからだ。あそこに座ればスゥーッとアイデアが思い浮かぶ。それに辿って漫画を描けばいい作品が出来上がる。そんな気がした。
「よしっ!」
自分の頬を優しく叩いた。葉那に触られたところだ。病室にはほんのり葉那の香りが残っていた。
私はテレビをつけたままにして引き出しから紙とペンを取り出した。
この引き出しは、誰一人として見られてはいけないものだ。取手にはメモ用紙に『絶対開けるな』と書いて貼ってある。
中には途中まで描いた自作漫画が入っていた。それを手に取りベッドに付属している机にペンとともに置いた。
ふかふかのシーツの上に座るのはもったいない感じもするが、私はお構いなくベッドの上に座った。
そして、ペンを持って漫画を描き始めた。
描き始めた瞬間はこれからしばらくこの瞬間が続くのかと思う。アイデアを頭に浮かべてそれを実際に描くなんて大変な作業だし何より時間が食う。それなのに描き終わった後は、まだ描きたいと思うのだ。きっとこれが漫画の沼というものなんだろう。
今描いている内容は、私と葉那で北海道旅行に行くという回だ。
宮古島という狭い世界から抜け出して遥か遠くの北海道に葉那と二人で行く。
これが、夢だった。
もし健康に生きられていたら、病気なんかになっていなかったら、どんな素晴らしい未来が待っていただろう。そんなことをよく思っていた。
コンコンコン
「は、は〜い!」
私は漫画を隠した。とりあえずどこかに隠さないと。そう思って棚の中に勢いよくしまった。
立ち上がって裸足のまま扉に向かった。
ガチャ!
「はい!うわっ!」
勢いよく扉を開けたせいで、その拍子に誰かとぶつかってしまった。
「すみません!」
「あ、こっちこそごめんね。空音大丈夫?」
そこには、黒Tシャツに白衣被せて着た先生がいた。いつもと変わらず首に聴診器を巻いていた。手には何も持っていなかった。
私は思わず後ろに下がった。
「だ、大丈夫です。」
あーだめだ。先生を目の前にするとまともに話せない。いつの日からか先生の顔を見るだけで自分の顔から火が出そうになる。
「失礼しますね〜。」
考え事をしている間に、先生はズカズカと部屋の中に入ってきた。
漫画を隠しておいて本当に良かったと思った。
私も先生の後ろに続いた。
そして、先生は近くのパイプ椅子に座った。
「空音に聞きたいことがあってさ。」
「聞きたいこと?」
先生は顔を緩めて優しく微笑んだ。
私は先生と向かい合うような形でベッドに座った。
「あの、なんでしょうか。」
「手術のことなんだけど‥‥」
「手術、ですか。」
今日は感情の起伏が激しい日だ。
先生から手術の話を持ちかけられた時、とてつもない絶望感に襲われた。
「一旦、本人の意見も聞かせて欲しい。」
先生の視線はブレることなく、私を見据えていた。その目力に耐えるのに精一杯だった。
でも、今思っていることは言わなくちゃ。
「えっと、手術は‥‥受けたくないです。」
「‥‥うん。分かった。どうして受けたくないとか理由ある?」
次から次にくる先生の質問は、私にとって大きな鉛のように継続して背中にのしかかってきた。
「今はあんまり、考えたくないです。怖くって。」
私は笑いながらその場を流した。目にはたくさんの涙が溜まっているのが分かる。
すると、先生の手がこちらに伸びてきた。私の頬に伝った涙を拭ってくれた。
「ごめんね。」
なんで謝るの?先生は、謝る必要ないのに。
「ごめんなさい。すぐ、止めますから。」
私は急いで袖で涙を拭いた。
「君は、素敵な涙を流すね。」
「え?」
「女性らしくてとっても綺麗ってこと。」
「なんですかそれ。」
「俺の感想。」
私は鼻を啜りながら笑った。先生は眉を寄せて笑った。それも素敵な笑顔だった。
「話聞いてくれてありがとう。ゴホッゴホッ。」
先生は軽い咳をしながら椅子から立ち上がった。
「咳、大丈夫ですか?」
「あーうん。最近体調があまりよくなくて。」
「そうなんですね。」
「それじゃ!俺は仕事が残ってるんでね。」
「お疲れ様です。」
先生は立ち上がると同時に私の頭を撫でた。
いつまで経ってもこの動作に慣れることはなかった。
「ごちそうさまでした。」
「空音ちゃんはいつも綺麗に食べてくれるねー!」
佐野さんが晩御飯を回収しにきてくれた。佐野さんと会うのはなんだか久しぶりに感じた。
「体調大丈夫?」
「大丈夫です。」
「それじゃあまた何かあったら呼んでね。」
佐野さんはおぼんの上にのった食器を待って部屋を出た。
「はぁ〜。」
私はため息をついてベッドに寝転がった。真っ白な天井には汚れ一つもついていなかった。
今日はよく食べた。夜ご飯にすき焼きだなんて、前の私だったら太ると言って避けていた。でも今は食べないと体力が持たない。たくさん食べろと先生からも言われていた。
私はスッと立ち上がり、辺りを見回した。枕元にある点滴スタンドと一緒に部屋の入り口に向かった。満腹に食べた後は少しでも運動しないと。そう思って廊下に出た。
「ふわぁ〜!」
大きなあくびを浮かべながら廊下を歩いた。
「あら空音ちゃんどうしたの?」
「お菓子買ってきます。」
看護師さんに話しかけられたから、適当な理由をつけてその場を後にした。
エレベーターまでの距離はかなりあったため、食後にちょうどいい運動時間だった。
ピンポーン
エレベーターに乗り込み扉が閉まるのを待った。扉が閉まると一瞬で別世界に連れて行かれたような気持ちになる。人々の声が消えて静寂に包まれる。まるでマイワールドに吸い込まれたようだった。
「よいしょっと。」
一階に着き、点滴スタンドを少し持ち上げて降りた。やはり館内は真っ暗になっており、コンビニだけの光が派手に目立っていた。
私はコンビニに向かって歩き出そうとした。
しかし、遠くから人の話し声が聞こえた。こんな時間に、誰が話しているんだ?
誰がいるのか気になり、足先の向きをコンビニから話し声のする方に向けた。
少し歩いたところに、一つの部屋の明かりがついていることに気がついた。そこは、『耳鼻咽喉科』
なぜ耳鼻咽喉科の診察室の電気がついているんだ?私はよく暗い時間帯にコンビニに行く。そのため、自動的に一階を通って行かなくてはならない。そこではいつも静寂かつ暗闇に包まれていた。
絶対に物音を立てずに点滴スタンドを引きずりながら耳鼻咽喉科に向かった。
すると、中から誰かの声がした。
『‥‥‥‥だよな〜。』
扉一枚挟んだだけなのに声が通らない。私はさらに部屋に近づいて耳を傾けて聞いてみた。
『大変だなー。手術いつだっけ?』
どこかで聞いたことのある声がした。
『確か12月くらいかな。』
ん?
この声って。
『マジかよ。そしたら声帯ダメになって話せなくなるんだよな。』
『うん。』
透き通るような声なのに、力がこもっている声。これは、先生だった。
『はぁ〜!疲れた。見回り行ってくるわ。』
『頑張れ〜。』
声帯がダメになる?どうゆうこと。
「うわっ。びっくりした〜。って、白夜さん?」
「あ。」
私はその場から立ち去ることが出来なかった。グダグダしている間に先生が部屋から出てきてしまった。
「空音、なんでこんなとこにいるんだ。早く病室に戻りなさい。」
「え、あ、あの、すみません。」
「え?」
「じ、実は」
ガチャ
「何話してんの〜?」
部屋の中から、もう一人先生と同じように白衣を着た人が出てきた。その顔に少し見覚えがあった。
「涼ちゃん?え?!待って空音ちゃん?!」
その男性は、私の肩を掴んで近づいてきた。
君のカルテに恋をする 白雪菜胡 @Shirayuki_nako
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