マリカの杭

真花

マリカの杭

 車窓から見える景色は既に夜のもので、紺色に伏せられた街に深海魚のように光がまばらに照っていて、それらが一方向に流れ続けるけど、それを見ている僕達が立つ車内は煌々と白くて、日曜日が終わりに向かうことに胸の中でため息を溜めている人間達がずらりと並んでいる。今日のデートに意味があるのか、あったのか、今後意味を持つことがあるのか景色と人間を見比べながら、僕自身の中にもため息の種があることを鑑みると、意味はないのかなぁ、そんなことより小説を読みたいのにカバンの中から出すことも叶わない。

「ねえ、聞いてるの?」

 ミヨの声に振り向く。確かにミヨは何かを言っていた。吊り革をそれぞれに掴んで横並びに立って身長差が十センチあってもミヨの声が届かなくなる程の距離ではない。僕は、「うーん」と言いながら言い訳を考えて、すぐに諦めた。

「聞いてなかった」

「だよね」

 ミヨは怒ったりはせずに「あのね」と話を再び始める。ミヨは僕がときに話を聞かないのがミヨへの興味の問題ではなく僕の特徴、特性のようなものと捉えている。特性。都合のいい言葉だ。そうラベルをしてしまえば明らかにおかしなことだって許容の内側に入り込む。問題はそれが存在する理由ではなくて、引き起こすことの方なのに。でもそうやって許容に入れることでミヨは怒らないで済み、僕は面倒臭い時間を過ごさずに済む。だけど、それはいつか累積してひずみになって、僕達の間を地割れのように引き剥がすことになる。問題に目を瞑るだけでは解決することは決してないのだから。それでも僕達はやり過ごす。恋の擦り切れた後のカップルが時間を共にしているのなら、あちこちに綻びがあって当然だ。最初は一つだった綻びを無視して、二つ目も無視して、と増やす内に、僕達は僕達の二人のことをほとんど無視して一緒にいるようになった。それでも別れないのは多分、別れるエネルギーの方が現状維持をするエネルギーよりも大きいからなだけだろう。あとは、特に嫌いではないから。でも小説を読みたい気持ちの方が勝つようになってからずいぶん経つ。日曜日は毎週来る。七分の一の時間を浪費していると捉えるなら、ミヨはいない方がいい。だから最近は、一方的に去ってくれないかな、とか、突然死してくれないかな、とか考えるようになっている。でもそんなことは言えない。言えなかった言葉が腹の中で渦になり、ため息の種になる。

「エビハラさんって人が新しく入職したんだけどね、その人が変わってて……」

 エビハラ。僕の脳裏にマリカの顔がポンと花のように咲く。高校卒業してちょっとしてからはもう会っていない、元恋人。マリカは病気があって、それを聞いた途端に僕は医者になることに決めた。マリカは「その決断は私には重い」と反対したが医学部に行った。元々浮気ばかりする女だった。その癖は変わらずで、大学に行き始めてすぐに深刻な浮気が原因で別れた。僕は人生の目標をマリカから得ていたから、すっかりなくなって根無し草のようになってしまった。なかなか腐った。それぐらいに僕はマリカを好きだった。全身全霊で恋をしていた。酷いことを繰り返しされた。何度も叩かれたし、暴言を吐かれたし、何でもありだった。僕はマリカの話を蔑ろに聞いたことは一度もなかった。浮気が原因で別れたのではなく、本当は浮気の方が恋人に格上げされて僕が捨てられただけだった。今だって打たれた頬の痛みが残っている。エビハラマリカ。でも別れてから先は二度と関わらなかった。それは最初は僕の意地だった。次第にその状態から引っ込みがつかなくなった。マリカは僕の胸の中に太い杭として存在し続けたけど、僕はそれに一切触れなかった。完全に無視をして進んだ。それは嘘だ。僕は杭の気配にことあるごとに反応しながらそれに触れないように努力をして日々を過ごした。忘れているときも多くあるし、その時間はどんどん増えていった。いつしかほとんどの時間、マリカの杭を思い出さないし気配も感じなくなった。それなのにミヨがマリカを咲かした。

「ねえ、聞いてる?」

「聞いてなかった。ごめん」

「まあ、いいわ。大した話でもないし」

 ミヨは笑って見せる。ミヨはどうして僕と一緒にいるのだろう。僕と同じで慣性で惰性で人生を費やしているだけなのだろうか。何か目論見があるのだろうか。結婚したいとか。でも、こんな隙間風ばかりが間に吹くような相手と結婚したいと思うだろうか? もし別れたら僕はミヨのことはキレイさっぱり忘れそうだ。ミヨにとってもそうなのではないのか? ますます若さを共に浪費する理由が分からない。

 電車が目的の駅に着いて僕達はのっそりと降りる。ミヨと僕はそれぞれの電車に乗らなくてはならない。面倒臭い習慣として僕はミヨの改札まで送る。まるでそう言う一つ一つの儀式が関係性を閉じ込めるために存在していて、それは骨のようなもので、儀式をすることをやめたらすぐに僕達はダメになるのではないだろうか。それを僕は望み始めているのに、毎週毎週このくだらない儀式を繰り返している。

「じゃあ、またね」

「バイバイ」

 ミヨが改札を潜って、人の波に溶けた。僕はずっと溜めに溜めていたため息を周囲のことなんか全く構わずに地面に向かって魔神のように吐き出す。吐き出された息はぐんぐん広がって改札の中にまで侵入して、ミヨにまで届きそうだ。でもミヨはこの息の主が僕だと言うことに決して気が付かないだろう。ミヨに見せたことのある色を一切していないから。

 マリカ。

 僕の胸の中に深々と刺さっているマリカの杭がずっと潜んでいた気配をビカビカに発していて、僕はもう無視することが出来ない。触れてみると熱くて、眩しくて、まるで溶鉱炉から出て来たばかりの鉄のようだった。多分、ミヨが呼び覚ますまでは冷えて暗かったはずだ。

 マリカ。今は何をしているのだろう。あの無茶苦茶な性格と行動からしたら、不幸になっているのかな。それともどこかで是正されてまともになっているのだろうか。僕は自分の電車に向かう。どうであったとしてもまた付き合うことはない。だけど、どうしても気になる。

 電車に乗り、イヤホンをスマホに挿してインターネットで「エビハラマリカ」を検索する。どうせインスタとかフェイスブックとかしか出て来ないだろうと思ったら、youtubeで動画が一つあった。それは「がんサバイバー」の講演の動画だった。がんサバイバー? マリカはがんになったのだろうか。そしてサバイヴした? 動画を再生する。

「私は」

 甘い声。あの頃と変わらないマリカの声だった。胸が締め付けられて、杭に胸郭が近くなって熱い。

「がんになって、いろいろな人に支えられました。本当に感謝しています。友達とたくさん旅行に行きました。ピラミッドを見上げて、スフィンクスに挨拶して、万里の長城を歩いて、ベニスで舟に揺られました。かけがえのない思い出です。私は今こうやって生き残っています。やれることはやりました。ですが、運もあると思います。もし私と同じようにがんになった方がいたら、最後まで諦めないで欲しいです。……ありがとうございます」

 マリカの顔を声を使って別の誰かが喋っているようだった。そんなまともなことを言う奴じゃない。でも、何で旅行の話をしたんだ? もうすぐ死ぬかも知れないから思い出作りをした話をここでする必要はないんじゃないのか? それとも、思い出がちゃんと思い出になって私はラッキー、少なくとも命の神様には愛されているぜ、ってことなのか? そう考えるとその後の言葉も、死ななかった私は偉いとしか聞こえない。お前らもせいぜいがんばってみろよ、私みたいに生き残れるかは別だけどな、って言っている。まともを装って酷い内容を講演しているってことか。正味、周囲への感謝くらいしか実のない話だ。中身はそんなに変わっていないのだろう。……死ななくてよかった。生き残ってよかった。きっと失ったものもいっぱいあるだろう。でも、無事でよかった。胸が熱い。

 日付を見ると四年前だった。だとしたらもうマリカは死んでいるのかも知れない。胸の中がチリチリと焦げる。僕は電話アプリを起動して、電話帳を検索する。マリカの番号は残っていた。何度も何度も消そうとしては消せなかったその電話番号が杭と同じくらいの圧力を持って僕に迫って来る。番号が変わっているかも知れないし、もう使われていないかも知れない。でも、確かめなくてはいけない。心臓が早駆けになる。鼻血が出そうなくらい脳の底がつんと熱を持っている。きっと目だって充血している。後ふた駅、走り出しそうな自分を抑え込んでマリカの番号を睨みながら電車よ早く進め、待つ。

 逸る気持ちのままに駆け出し降車して、一気に改札を抜けて外に出る。

 マリカに電話をかける。呼び出し音が鳴る。

「もしもし」

 甘い声。マリカに違いない。

「あ、久し振り。リュウタだけど、覚えてる? マリカだよね?」

「ああ、覚えてるよ。久し振り」

「元気?」

「んまあ、いろいろあったけど、元気だよ。リュウタは?」

「元気。普通に働いてる」

「私も働いてるよ。で、どうしたの?」

「いや、なんか思い出したから、かけてみた。最近どう?」

「ん、特別なことはないよ。リュウタは?」

「僕も、敢えて報告することはないかな」

「そっか」

「うん。……じゃあ、切るね」

「うん。じゃあね」

 僕は電話を切って。切った電話の画面を凝視する。電話に出たのは間違いなくマリカだった。でも、僕の中で杭になって長年成長したマリカとは違った。心臓が水をかけられたみたいに静かになっている。頭の底も熱くない。それどころか胸の中にあった杭が急激に萎んでいく。マリカは、幻想のマリカ、思い出のマリカの僕を狂わせる魅力は全くなかった。それが時間のせいなのか病気のせいなのか他の人との関係のせいなのか、それとも僕との距離が果てしなく遠くなったせいなのか、分けることが出来ない。でも結果は明らかだ。もう僕のマリカはいない。だから僕はマリカに囚われる必要がないし、囚われ続けることがもうこの瞬間に不可能になった。胸の杭が抜ける。胸は驚異的な回復力で杭の刺さっていた穴を埋めて、胸郭の中に杭がころんと横たわっている。

 僕は杭をペッと吐き出す。道の側溝にある穴のボコボコ空いているところに杭が転がって穴から落ちた。ぽちゃんと言う音は聞こえなかった。僕はマリカの電話番号を消した。ミヨのことをちゃんと愛するか、離別するかを決めよう。吸い込んだ空気が胸いっぱいになって、これまでがどれだけ胸のスペースが奪われていたのかが分かる。歩みも軽い。

 部屋に戻ったら部屋中を探して、マリカに関係するもの、ノート、ボールペン、マフラーくらいしかなかったが、をゴミ袋に入れる。すぐに集合ゴミ捨て場に出す。シャワーを浴びて身を清めて、ベッドに座って自分の中身を改めて検索する。そこにはマリカの杭はなかった。杭の刺さっていた痕すらもう分からなくなっていた。ベランダに出て、遠くのどこかにいるマリカに向かって「さよなら」と言う。きっとこれからはもうエビハラと聞いたとしてもマリカのことに囚われることはないだろう。

 ミヨから「家に着いた」とラインが入った。「了解、僕も着いた」この儀式も続けるかやめるか、ミヨごともうすぐ決める。今日の残った時間は小説を読む。


(了)

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