触れてはいけない
河村 恵
朝、巨大な柱が現れた
それは静かすぎる朝だった。
鳥のさえずりも、車の行き交う音も、どこかへ消えていた。
ただ、空のどこかから低い音だけが響いていた。
郵便局の角を曲がると、人だかりができていた。
「お姉ちゃん、なにあれ?」
かずとが指差した先には、巨大な柱がそびえ立っている。
大通りが盛り上がり、岩肌をあらわにした柱となり、空高くまで続いていた。
寛香は、昨日の塾の帰りにもこの道を通ったが、その時は柱などなかった。
「かずとくん、聞いてなかった?」
振り返ると同じクラスのまーくんのママがいた。
「今日、学校休みだって。あれの調査をするからって。校庭にのひびが入って危険だから学校入れないって」
まーくんのママは、柱のことを忌まわしいもののように一瞥して目を背けた。
「あれ、なんですか?」
「かずと、聞かなくていいから」
まーくんのママは「じゃあ、気をつけて帰ってね。寛香ちゃんと一緒だから大丈夫ね」といって、駆け足で帰って行った。
何人かの男子が地面の裂け目のそばに立って、下をのぞいていた。
「あったかい風、吹いてこないか」
遠目に見ると男子たちがうっすらと歪んで見えた。
パトカーが集まり始め、警官が街に配備され始めていた。
「柱から離れてください」
黄色いテープで柱の周辺をくるりと囲んだ。
上空にヘリコプターが旋回していた。
「おい、テレビで中継してるってよ」
子どもたちが走って帰っていく。
「かずと、帰ろう」
「うん」
そう言いながら二人はその場に立ち尽くしていた。
警官の笛の音が、聞こえなくなり、生ぬるい風がぴたりと止んだ。ヘリの音も遠ざかり、人々のざわめきも一枚のベールで覆われたように聞こえなくなった。
「え…」
警官の目を盗んで黒いジャージ姿の男が、柱に近寄り手をかけた。
警官が駆け寄るよりも早く、隣にいた若い男が同じように手をかけてするすると登り始めた。二人のペースは同じで、まるで見えない糸にひかれるように。
寛香は弟の手を強く握った。
「かずと、見ないで。帰るよ」
そう言いながら、柱から目が離せない。
背後から人々が波のように押し寄せてくる。
誰かが柱に触れた。
また一人、また一人と登り始める。
制服姿の高校生も、通勤途中のサラリーマンも、老女も。
同じ動きで無言のまま柱を登っていく。
「やめなさい、危ないから降りなさい!」
警官が叫んだ。叫びながら、一歩、二歩と近づき、柱に触れた。
警官の口から、笛が落ちた。
柱の根元から、低い唸りが聞こえ始めた。
そのリズムに合わせるように人々の動きが加速する。
登る、登る、登る。
「お姉ちゃん…あの人、楽しそう」
気がつくと、柱に登る人々の表情がわかるほど、近くにいた。
寛香には、人々の表情が苦しんでいるようにも、笑っているようにも見えた。
どの人も、目の焦点が合っていないようだった。
柱に張り付いた無数の手足が蠢いている。
生暖かい風が吹くたびに、波打つ。
寛香は、かずとを抱き寄せた。
「行こう、ここにいたら…だめ」
だが、足が動かない。地面の下から伝わるわずかな振動に足首をつかまれているようだった。
寛香の耳の奥で、また声が聞こえた。
―おいで。
―登っておいで。
「お姉ちゃん?」
かずとの声が遠い。
目の前が歪み、かずとの表情も読み取れない。
「かずと!」
かずとの体が前のめりになり、寛香の手から離れた。
手をつかもうとしても、視界が歪んで空をかいた。
弟はふらふらと歩き出していた。
まるで夢を見ているようなおぼつかない足取りだった。
柱の根元げと近づき、手を伸ばすと、あっさりと柱に触れていた。
その瞬間、かずとの体がぐにゃりとおかしな動きをして柱に吸い付いた。
「かずと!」
寛香の声はどこかにすいこまれ、かずとまで届かない。
「やめて、やめて…」
寛香は地面に座り込んだ。
かずとの帽子が足元に落ちていた。
拾い上げようとしたその瞬間、風が吹き上がり、帽子は宙に舞った。そして、柱の表面に張り付いた。
やがて、街の音が消えた。
ヘリの音も、サイレンも。
ときおり、地面の奥から低い鼓動が響くだけだった。
また、生ぬるい風が吹いた。
寛香の耳の奥で、また声がした。
―おいで。
―登っておいで。
寛香の目の前に柱の岩肌があった。
手が勝手に動き、その岩肌が寛香の手を包んだ。
そこには、懐かしいぬくもりがあった。
もう会えないと思った、弟の手のぬくもりを感じながら、寛香は柱に足をかけた。
触れてはいけない 河村 恵 @megumi-kawamura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます