第5話

 僕の肉体を確かに捉えていたこの温かい手が、僕の沈黙をどう受け取ったのか。僕は、タクミさんの顔をまともに見ることができなかった。ただ、テーブルの木目を睨みつけるように俯いたまま、かろうじて、握られた自分の手を、ゆっくりと引き抜いた。

​ 熱が急速に奪われていく。


​「……少し、時間をください」


​ 声が、自分でも驚くほどかすれていた。何か大きな音を立てて崩れ落ちた、僕の完璧だった世界の瓦礫の下から、ようやく這い出させたような、そんな声だった。

​ 沈黙。ジャズの音色も、換気扇の音も、何もかもが遠くに聞こえる。


​「……分かった」


​ 数秒とも、数分とも思える時間が過ぎた後、タクミさんがそう答えた。


​「待ってる」


​ その声は、まだ僕の恋人の声だった。僕が、彼の誠実さを、まだ裏切りきっていない証拠だった。それなのに、その優しさが、僕の首を絞めるロープのように感じられた。


​ どうやって彼のマンションを出たのか、よく覚えていない。「お邪魔しました」と、僕はちゃんと言えただろうか。エレベーターが閉まる瞬間、彼はどんな顔をしていた? いつものように、僕を心配そうに見送ってくれていたのだろうか。


​ 僕は、確かめることができなかった。

​ 冷たい夜風が、火照った顔を突き刺す。僕はコートの襟を立てたが、寒さは体の内側から湧き上がってくるようだった。


​ 重い足取りで、アパートへの道を帰る。

​ タクミさんの提案が、コンクリートの塊のように、僕の頭にのしかかっていた。


​ ──俺と一緒に住まない?


​ その言葉は、僕が「性愛」のパートナーに求める、最終的な幸福の形のはずだった。彼と共に暮らす。彼の肉体が、彼の誠実さが、毎日、当たり前のようにそこにある生活。

​ それを手に入れるために、僕はアスカを捨てなければならない。


​ もし、僕が「普通」の人間だったなら。ただ、誠実な恋人だけを求める、真っ当な人間だったなら。今頃僕は彼の提案に泣いて喜んで、その場で彼を抱きしめていたはずだ。


​ ──でも僕は違う。


​ 僕は、アスカとの「答え合わせ」なしに、呼吸ができない歪な人間だった。


​ オートロックを抜け、アパートの階段を上がる。自分の部屋のドアを開けると、リビングは真っ暗だった。

​ アスカは、もう寝たのだろうか。それとも、僕が帰ってくるまで、あえてリビングに出てこなかったのだろうか。あの日、彼女に「彼は、いい人だよ」と、冷たく言い放って以来、僕たちの聖域は、ただの「同居人が寝に帰る場所」になっていた。


​ アスカの部屋のドアは、固く閉ざされている。磨りガラスの向こう側からは、何の光も漏れてこない。彼女の生活音が、今はひどく遠いものに感じられた。


​ 僕は、電気もつけず、リビングを横切り、自室のドアノブを回した。

​ 鍵もかけず、コートも脱がず、そのままベッドに倒れ込む。スプリングが、僕の重みに軋む音を立てた。

​ 暗闇の中で、天井を見つめる。

​ タクミさんの言葉が、何度でも蘇る。


 ──俺と一緒に住まない?


​ それは、僕が求めた「性愛」と「安定」と「幸福」の、甘い誘い。彼の温かい手。彼の部屋のジャズの音色。僕の飢餓感を満たしてくれる、唯一の存在。

​ その言葉を打ち消すように、あの日、アスカが僕に投げかけた言葉が、頭の中で響いた。


​ ──あんたの彼氏、なんかすごい『普通』の人だね


​ それは、僕の「精神」と「共鳴」と「呼吸」の、象徴。彼女と笑い転げた、あの評価の低い映画。僕の「30点の顔」を、唯一知る存在。


​ ──僕は、どうすればいい?


​ タクミさんの誠実さを、これ以上裏切り続けることなどできない。彼が求める「普通」の恋人として、僕は彼にすべてを捧げるべきだ。それが、彼の「本当に好きだ」という言葉に報いる、唯一の方法だ。


​ でも、アスカのいない生活が、僕に想像できるだろうか。

​ あの「答え合わせ」のない日常。僕の言葉の裏側を、僕以上に的確に読み取ってくれる相手のいない世界。タクミさんとの「100点の恋人」としての、息苦しい生活だけが、永遠に続く。


​ ──耐えられない。


​ タクミさんを失うことも、耐えられない。アスカを失うことも、耐えられない。

​ どちらも、失いたくない。

​ 僕は、なんて欲張りで、なんて卑怯な人間なんだろう。

​ 二つの完璧な世界を手に入れたと、本気で信じていた。精神と肉体。アスカとタクミさん。その二つを、僕は、まるで自分の手足のように、完璧にコントロールできると本気で思っていた。


​ ──馬鹿だった。


​ 二つの世界は、僕というたった一つの不安定な点を介して、繋がってしまっていた。そして、タクミさんという「誠実」な重りが、その均衡をあっけなく破壊した。


​ 僕は、どちらの世界にももう戻れないのかもしれない。

​ タクミさんの「恋人」としての資格も、アスカの「ソウルメイト」としての資格も、僕は、もう失ってしまったのではないか。


​ 答えが出ないまま、息苦しい夜が、ただただ更けていった。



◇◇◇◇◇



 あれから何日が経っただろう。三日か、四日か。時間の感覚がひどく曖昧だった。

​ 僕は、タクミさんに連絡できずにいた。「時間をください」と引き伸ばした猶予は、何の解決にもならず、ただ重たい沈黙として僕にのしかかっている。


​ なにより今のアパートの空気は、最悪だった。

​ あの日、僕が苛立ちをぶつけて以来、僕とアスカの間の薄い膜は、今や分厚い壁になっていた。リビングで顔を合わせても、会釈すらしない。彼女は僕の存在を意図的に無視し、僕もまた、彼女に話しかける気力を失っていた。


​ 聖域は、完全に死んでいた。


​ その夜も僕は、タクミさんのところへは行かず、かといってアスカのいる家に安らぎもなく、ただ疲弊してリビングのソファに座っていた。タクミさんにもらった猶予の期限は、もうとっくに過ぎている。

​ 無意識に、深いため息が漏れた。自分でも驚くほど乾いたため息だった。

​ その時だった。


​「……あんたさ」


​ 声がして僕は、びくりと肩を揺らした。

​ アスカだった。いつからそこにいたのか。彼女は、自室のドアの前に、腕を組んで立っていた。その顔には、いつもの気の抜けた表情はなく、あからさまな苛立ちが浮かんでいる。


​「いい加減にしなよ。見てらんない」


​ その声は、冷たく、突き放すようだった。同情じゃない。軽蔑に近い、苛立ちだ。


​「なんかウジウジして。あんた、ここ数日生きてるのに死人みたい。」


​ 彼女の容赦のない的確な言葉が、僕がこの数日間、必死に保っていた理性の糸を、ぷつりと切った。


​「……言われたんだ」


​ 僕は、ソファに座ったまま、顔も上げずに呟いた。


​「は?」

​「タクミさんに……ルームシェア、解消してほしいって」


​ アスカは、一瞬目を丸くしたが、次の瞬間、心底うんざりしたという顔で鼻を鳴らした。


​「……はあ? 何それ。ウケる。独占欲の塊じゃん。……マジで『普通』の男だね、あんたの彼氏」


​ その言葉。

​ 僕がこの数日間、心のどこかでずっと反響し恐れていたその言葉。

​ 僕の頭の中で、何かが焼き切れた。


​「そうだよ!!」


​ 僕は、ソファから弾かれたように立ち上がり、叫んでいた。


​「彼は『普通』だ!『普通』の恋愛観を持ってて、誠実で、真面目だ! だから、恋人が、自分以外の誰かと精神的に繋がってるなんて、異常な状況が、許せないんだ! 当たり前だろ!」


​ アスカは、僕の剣幕に、一歩後ずさった。だが、僕は止まらなかった。僕が、彼女に対してずっと抱えていた、後ろめたさと、苛立ち。


​「僕は、その『普通』の彼がくれる『性愛』が必要なんだ!」


​ 僕は、自分の指で自分の胸元を強く握る。


​「君といたら、精神は満たされる! でも、それだけじゃダメなんだ! 僕の体は、飢えてるんだよ!……君には、分からないだろうけど!」


​ ──言ってしまった。


 でも僕は止まれなかった。

​ 静まり返ったリビングに、僕の荒い呼吸だけが響く。

​ 僕は、最悪の形で、彼女を傷つけた。アセクシュアルである彼女のその根幹を、僕の「性愛」というナイフで否定した。あの日、彼女が僕を「分かってくれない」と苛立った、あの夜の、最低の仕返しみたいに。


​「……ごめん」


​ 絞り出した声が、情けなく震えた。

​ だがアスカは、僕が予想していた反応をしなかった。

​ 彼女は、怒るでもなく、悲しむでもなく、泣き出すでもなく。ただ、僕が立っている場所から数歩離れた、いつものソファに深く腰を下ろした。

​ そして、この世の終わりみたいな、深いため息をついた。


​「……分かってるよ」


​ 彼女の声は、ひどく、疲れていた。


​「え?」

​「あんたが『それ』を求めてたことくらい、一緒に住んでて、分かんないわけないじゃん」


​ 彼女は、乱暴に頭をかきながら、僕を見上げた。その目には、もう苛立ちはなく、呆れと、それから、ほんの少しの同情のような色が浮かんでいた。


​「だから、あんたが『彼氏できた』って言った時、私、本気で喜んだんだよ」

​「……え?」

​「ああ、これでやっと、あんたの『欠けてる部分』が埋まるんだなって。やっと、あんたも、面倒くさい飢餓感から解放されて『完璧』になれるんだなって。……そう思ってた」


​ 彼女は、そこで言葉を切り、僕を、まっすぐに見つめた。


​「でもさ」

​ アスカは、ソファの背もたれに、だるそうに寄りかかった。


​「あんたは、『それ』を手に入れるために、あんた自身を殺す気?」


​ 僕は、息を飲んだ。


​「あの人の前で、あんた、息できてないじゃん」

​「……」

​「『目が死んでる』って、私、言ったよね?」


​ 彼女の言葉が、僕の記憶を、容赦なく抉り出す。


​「あの時、あんたは『疲れてるだけ』って言ったけど、違う。あんたは、あの人の前で『100点の彼氏』を演じるために、自分の呼吸、止めてるんだよ」


​ アスカは、立ち上がった。そして、僕の目の前まで来て、僕の胸を、人差し指で、軽く突いた。


​「私は『性愛』ってやつが、どういうもんなのか、正直全然分かんないよ。でも、分かることもある」

​「……」

​「あんたが、自分の精神を殺してまで手に入れる『幸せ』が、本当の幸せなのかって、聞いてんの」


​ 彼女の言葉は、僕がこの数週間、必死で目をそらし続け、タクミさんの「誠実さ」という麻酔で誤魔化してきた、僕自身の「本心」そのものだった。

​ 僕は、ただ、彼女の顔を見つめ返すことしかできなかった。


 アスカの言葉が、僕が必死に組み上げていた「100点の恋人」という仮面を、粉々に打ち砕いた。


​ ──あんた自身を殺す気?


​ そうだ。僕は、殺そうとしていた。

​ タクミさんの「誠実さ」に応えるために。彼がくれる「普通」の幸福を手放さないために。

​ アスカと「答え合わせ」をする、あのどうしようもなくマニアックで、ひねくれていて、面倒くさい「30点の僕」を。


​ 僕は、この聖域でしか呼吸ができない、本当の自分を窒息させようとしていたんだ。

​ タクミさんの家のあの清潔で、穏やかで、ジャズが流れる完璧な部屋。あそこは、僕にとって、居心地の良い場所であると同時に、息を止めていなければならない、水の中だった。


​ アスカの言う通りだ。

​ 僕は、どれだけ飢餓感が満たされても、呼吸のできない場所で、生きていくことはできない。


​「……行かなきゃ」


​ 僕は、誰に言うでもなく呟いた。


​「うん」


​ アスカは、短く、それだけを言った。


​「行ってきなよ」


​ 僕は、コートを掴みアパートを飛び出した。


 ──伝えなきゃいけない


 この想いを胸に抱いて



◇◇◇◇◇



​ タクミさんのマンションの前に立った時、僕の心は、不思議と静かだった。もう迷いはなかった。インターホンを押し、彼が「……はい」と、戸惑ったような声で応じるのを聞く。


​「……僕です。話があります」


​ オートロックが解除される音が、重たく響いた。

​ 彼の部屋は、いつも通り、清潔で、静かだった。彼は、あの日の生姜焼きの時と同じ、ラフなTシャツ姿で、僕を待っていた。その顔には、緊張とほんのかすかな期待が浮かんでいる。


​「……座って」


​ 促されるまま、僕は、彼の部屋のソファに浅く腰掛けた。


​「あの……」


​ 彼が何かを言い出す前に、僕は、息を吸い込んだ。


​「タクミさん……一緒に住むことは、できません」


​ 彼の瞳から、かすかな期待の色が、静かに消えていくのを、僕はただ見ているしかなかった。


​「……そっか」


​ 彼は、怒るでもなく、ただ深く、深く息を吐いた。


​「理由を、聞いてもいいかな」

​「……ごめんなさい。僕、タクミさんに、嘘をついていました」


​ 僕は、前に言えなかった、僕のどうしようもない本質を、不器用な言葉で説明し始めた。


​「あなたのことは、人として、本当に誠実で、素敵だと思っています。それは嘘じゃない。……そして、そのあなたの体に肉体にどうしようもなく惹かれてるのも、本当です」


​ こんな生々しい告白を、彼にするなんて、最低だ。でも僕はもう「100点の僕」を演じるのをやめなければならなかった。


​「でも僕は、多分壊れてるんです」

​「……」

​「僕の『精神』と『肉体』は、同じ場所にはない。僕の精神の半分は……どうしても、アスカとの繋がりを必要としてるんです。あいつと交わす、あのくだらない『答え合わせ』がないと……僕は多分、呼吸ができない」


​ 僕は、自分の言葉がどれほど彼を傷つけているかを、分かっていた。

​ 僕は、彼に「あなたは、僕の『肉体』だけを満たす、半分の存在でしかない」と、宣告しているのと同じだった。


​ タクミさんは、僕のその残酷で、利己的な告白を、ただ黙って聞いていた。


​ 長い沈黙が落ちる。

​ やがて、彼は顔を上げた。その目は、悲しそうだったが、不思議なほど澄んでいた。


​「……分かったよ」


​ 彼はそう言った。


​「君が、そういう人だってことは分かった。……君が俺に『性愛』を、アスカさんに『精神』を求めてるってことも」


​ 彼は、僕の拙い説明の本質を、正確に「理解」してくれた。

​ でも彼は、誠実な人間だった。


​「でも俺は、やっぱりそれを受け入れることはできない」

​「……」

​「俺は、恋人の『半分』だけを愛することはできない。君の精神が、他の誰かのものなのに、君の体だけを、抱きしめることはできないよ」


​ 彼は僕を拒絶した。

​ それは、彼の誠実さが導き出した、当然の、そして、真っ当な答えだった。


​「ごめん」


​ 彼はそう言って、泣きそうな顔で笑った。


​「……ううん」


​ 僕の目から、涙が勝手にこぼれた。


​「僕の方こそ、ごめんなさい。……あなたの誠実さを、裏切って、ごめんなさい」


​ 僕たちは、静かに別れた。


​ アパートへの帰り道。僕はもう走らなかった。

​ 僕はタクミさんを失った。僕の「性愛」は、また、ぽっかりと空席に戻った。あの温かい手も、僕を「恋人」として愛してくれた誠実さも、もう僕のものではない。


​ また、あの「飢餓感」が、僕を苦しめるだろう。明日も、明後日も、僕は、その空っぽの器を抱えて、生きていかなければならない。


​ でも僕はそれを選んだのだ。


​ 飢えながらも「呼吸」をして生きる道を。満たされながら「窒息」して死ぬ道ではなく。


​ アパートのドアを開ける。

​ リビングには灯りがついていた。

​ ソファの、いつもの指定席。アスカがスウェット姿でスマホをいじっていた。


​「……ただいま」


​ 僕は、そう言うのが精一杯だった。

​ 僕は、僕の「性愛」の世界の半分を、今失ってきた。

​ アスカは、スマートフォンから顔を上げ、僕の顔を、じっと見た。


​「おかえり」


​ 彼女は、短く、そう言った。


​「……別れてきた」

​「……そう」


​ 彼女は、それ以上何も聞かなかった。「残念だったね」とも、「それが正解だよ」とも言わなかった。

​ ただ、いつもの気の抜けた平坦な声でこう言った。


​「あ、そうそう。やばい新作ホラー見つけた。タイのやつ。レビュー、驚異の1.0点。傑作の予感」


​ 彼女は、スマートフォンを僕に向けた。そこには、血まみれの、見るからに低予算なサムネイルが映っている。


​「……観る?」


​ そのあまりにも変わらない日常。

​ 僕の「30点の顔」を、当たり前のように受け入れる、そのゼロ距離の視線。


​ 僕が失わずに済んだ、僕の「呼吸」。

​ 張り詰めていたものが切れた。

​ 僕はその場に、泣き崩れそうになるのを、必死でこらえた。顔はきっと、涙と安堵と後悔とで、ぐちゃぐちゃだったと思う。

​ 僕は、そのぐちゃぐちゃの顔のまま笑った。


​「……観る」


​ 僕は、カバンを床に放り出し、彼女の隣、ソファの、僕の指定席に倒れ込むように座った。


​ 僕は「普通」の幸せを手に入れることは、できなかった。誠実な恋人を、僕の歪さで、傷つけ失った。


​ ──でも。


​ 僕の「呼吸」は、ここにある。

​ 僕と彼女の、奇妙で、最高で、そしてどうしようもない「日常」はこれからも続いていく。

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ゲイセクシュアルな僕とアセクシュアルな彼女 成海。 @Naru3ta

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