第4話

 僕は、閉まった玄関のドアに背中を預けたまま、その場に立ち尽くしていた。


​「じゃあ、また」


​ 最後に聞いたタクミさんの声が、耳の奥にこびりついている。いつも通りの、穏やかで丁寧な挨拶だった。だが僕を「君」と呼ぶ時の親密さも、僕の目を見て笑いかける時の熱も、そこにはなかった。よそよそしく、薄い壁一枚を隔てたような、そんな声だった。


​ オートロックの閉まる、重たい音が階下から響いてくる。彼がこの建物を去ったことを確認し、僕は、今日一日で一番深いため息を吐き出した。


​ ──疲れた。


​ ただ、彼が家に来て、コーヒーを飲み、少し話しただけ。それなのに、まるでフルマラソンでも走りきったかのような疲労感が、全身を鈍く叩いていた。


​ リビングに戻ると、音がしたのか、アスカが自室のドアを少しだけ開けて、顔を覗かせた。


​「……帰った?」


​ 彼女は、まるで嵐が過ぎ去ったかどうかを確かめるかのように、小声で尋ねた。その様子が、なぜか僕の神経を逆撫でした。


​「うん。帰ったよ」


​ 僕は、必要以上にぶっきらぼうな声で答え、キッチンカウンターに寄りかかった。タクミさんが出した、まだ飲みかけのコーヒーカップが、テーブルの上に置き去りにされている。それを見ると、僕の胸は、まるで冷たい水を流し込まれたように冷えていった。


​「……なんか、ごめん。気まずい思いさせて」


​ 僕は、カウンターの天板を指でなぞりながら、低い声で言った。


​ なぜ僕が謝っているんだろう。

​ 謝る必要なんて、どこにもないはずだ。僕はアスカと、いつも通りの会話をしただけ。アスカも、いつも通り、僕の言葉に返しただけ。僕たちは何も悪くない。


​ 悪いのは、あの「答え合わせ」の瞬間に、僕がタクミさんの存在を忘れていたことだ。僕が、完璧に分離させているはずだった「30点の僕」の顔を、彼に見せてしまったことだ。


​ タクミさんの、あの戸惑った顔。僕の知らない言語を聞くかのような、疎外された瞳。あの顔が、僕の「失敗」を、明確に告げていた。

​ 僕が守ろうとしていた「100点の恋人」としての仮面は、たった十数秒の油断で、あっけなく剥がれ落ちてしまった。


​ 僕が自分の失態に落ち込んでいると、アスカはリビングに完全に出てきた。彼女は僕の向かい側に立ち、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出している。


​「別に。私は気まずいとかないけど」


​ 彼女は、グラスに麦茶を注ぎながら、平坦な声で言った。


​「ただ……」

​「ただ、なに?」

​「あんたの彼氏、なんかすごい『普通』の人だね」


​ アスカは、そう言ってグラスを傾けた。彼女の口調には、何の悪意も、嘲笑もなかった。ただ、事実を、観測したまま述べた、という響きだけがあった。


​ それなのに。

​ その「普通」という言葉が、今の僕には、鋭い棘のように突き刺さった。


​「……『普通』って、どういう意味だよ」


​ 僕の声は、自分でも驚くほど冷たく尖っていた。

​ アスカは、僕のその反応に少し驚いたように目を瞬かせた。


​「どういう意味って……そのままの意味だけど。誠実そうで、真面目そうで、ちゃんとしてて。世間一般で言うところの『優良物件』って感じ」

​「……」

​「あんたがああいう、分かりやすい『幸せ』みたいなタイプを選ぶの、ちょっと意外だったかなって」


​ 彼女は、別にタクミさんを馬鹿にしているわけではない。それは分かっていた。アスカは、僕たちがいつもB級映画を批評するように、タクミさんという存在を、ただ「批評」しただけだ。

​ だが僕は、その批評を許すことができなかった。


​ ──お前に、タクミさんの何が分かるんだ。


​ そう喉まで出かかった言葉を、僕は寸前で飲み込んだ。

​ アスカは、タクミさんの「誠実さ」を、本当の意味で理解していない。彼女は、僕がどれだけ「性愛」のパートナー探しに疲れ果て、彼のあの「誠実さ」と「肉体的な魅力」に救われたかを知らない。彼女は、僕があの聖域の外で、どれだけ飢餓感を抱えていたかを知らない。


​ アセクシュアルである彼女は、「性愛」を求めない。だから、タクミさんという存在が、僕にとってどれほどの価値を持つのか、理解できるはずがないのだ。


​ 僕は初めて、アスカに対して「分かってくれない」という明確な壁を感じていた。


​ 僕たちの間には、性愛も恋愛も存在しないからこそ、完璧な共鳴が可能だった。だが、今、僕が外の世界で手に入れた「性愛」が、その共鳴を、鈍く妨害し始めている。


​「……彼は、いい人だよ」


​ 僕は、それだけを絞り出すのが精一杯だった。


​「ふーん。まあ、あんたがそう言うなら、そうなんでしょ」


​ アスカは、僕の苛立ちを正確に読み取ったようだった。彼女は、それ以上何も言わず、肩をすくめると、麦茶の入ったグラスを持って自室に戻ろうとした。


​「……あのさ」


​ 僕は、彼女の背中に声をかけた。


​「うん?」

​「いや……なんでもない。おやすみ」

​「おやすみ」


​ 彼女の部屋のドアが、静かに閉まる。

​ 一人残されたリビングで、僕は、テーブルの上に置き去りにされた、二つのコーヒーカップを見つめていた。僕が入れた、熱いコーヒー。そして、タクミさんが残した冷めきったコーヒーだけがあった。



◇◇◇◇◇



 あの一件以来、僕とアスカの間には、目に見えない薄い膜が張られたようになっていた。リビングで顔を合わせても、交わす言葉は最小限だ。映画の「答え合わせ」も、あの日以来一度も行われていない。アスカは僕の苛立ちを敏感に察知し、意図的に僕を避けているようだったし、僕もまた、彼女の「普通」という言葉が胸に刺さったままで、どう接していいか分からなくなっていた。


​ 完璧だった僕たちの聖域は、ひどく居心地の悪い空間に変貌していた。

​ その息苦しさから逃れるように、僕は週の大半をタクミさんのマンションで過ごすようになっていた。


​ 火曜日の夜。僕は、タクミさんの部屋で、彼の作った生姜焼きを食べていた。


​「美味しいです。この味付け、最高ですね」


​ 僕は、あの日の失態を取り戻そうと、いつも以上に明るい声を出した。大げさなくらいに彼の料理を褒め、彼が話し出す職場の人間関係の続報にも、前のめりに相槌を打った。


​「それで、そのリーダーは、結局どうなったんですか?」


​ 「100点の恋人」を、僕は必死に演じていた。アスカとの間に生まれた亀裂を、タクミさんとの完璧な関係で埋め合わせるように。僕の居場所は、もうここしかないのだと、自分に言い聞かせるように。

​ だが、タクミさんは、どこか上の空だった。


​「ああ、うん。……結局、何もなかったみたいだよ」


​ 彼はそう言うと、箸を置き、テレビのリモコンで、流れていたバラエティ番組の音量を下げた。

​ 部屋に、ジャズの音色と、換気扇の低い駆動音だけが響く。僕は、彼のその行動に、嫌な予感を覚えていた。


​「……あのさ」


​ 彼が切り出した。僕は、生姜焼きを乗せた箸を、皿の上で止めた。


​「この前のことなんだけど」


​ 来た。

​ 僕は、心臓が冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。平静を装い、彼を見つめ返す。


​「……はい」

​「あの時、アスカさんと話してた時の君、覚えてる?」


​ 僕は何も答えられなかった。


​「君、俺といる時の顔と、アスカさんと話してる時の顔、全然違うよね」


​ 彼の声は、穏やかだった。責めているのではない。ただ、彼が観測したどうしようもない事実を、僕に突きつけているだけだった。

​ だからこそ、僕は何も言い返せなかった。否定できない。それは、僕自身が一番よく分かっていることだったからだ。

​ 僕は、ただ黙って、テーブルの木目を見つめていた。


​「あの時、分かっちゃったよ」


​ タクミさんは、悲しそうにそう続けた。


​「君が一番楽しいのは、あの子と話してる時なんだって。俺には、絶対に見せないような顔で、すごく……生き生きしてたから」


​ ──違う!


​ そう叫びそうになるのを、必死でこらえた。

​ 違うんだ。楽しいの種類が、根本から違うんだ。

​ アスカといる時の楽しさは、精神が共鳴する楽しさだ。パズルのピースが完璧に組み合わさるような、知的な快感だ。

​ あなたといる時の楽しさは、性愛が満たされる楽しさだ。空っぽだった器に、温かいものが注がれるような、肉体的な幸福感だ。


​ どちらも、僕にとっては必要不可欠で、どちらが上で、どちらが下かなんて、比べられるものじゃない。


​ でも、そんなことをどう説明すればいい?

​ 「すみません、彼女は僕の精神的パートナーで、あなたは僕の肉体的パートナーなんです」

​ そんな、人間をモノのように役割分担する、残酷な分析結果を、目の前の誠実な恋人に叩きつけろとでも言うのか。


​ そんなことをすれば、僕は彼を、彼の「誠実さ」そのものを深く傷つけることになるだろう。


​「それは……」


​ 僕は、しどろもどろに言い訳の言葉を探した。


​「それは、ただ……僕とアスカは、その、趣味がマニアックなだけで。オタク仲間みたいなものだから、ああいう話になると、つい早口になっちゃうだけで……」

​「趣味の話、か」


​ タクミさんは、僕の言葉を静かに反芻した。


​「俺とも、映画の話、するよね」

​「……はい」

​「でも、あんな顔してくれない」


​ 彼の言葉は、ナイフのように僕の胸を抉った。その通りだった。

​ 彼との映画の会話は、いつだって「面接」だ。彼に受け入れられるか、彼を不快にさせないか、そればかりを気にしている。アスカと交わすような、魂の「答え合わせ」なんかじゃない。


​「俺、君のこと本当に好きなんだ」


​ タクミさんはテーブル越しに、僕の手に自分の手を重ねてきた。僕は、びくりと肩を揺らした。彼の大きくて温かい手。僕の飢餓感を、いつも満たしてくれる、大好きな手だ。


​「だから、君のことも全部知りたい。君が一番楽しいと思うことも、一番夢中になれることも、全部俺と共有してほしい」


​ 彼の言葉は、あまりにも「普通」で、誠実で、そしてどうしようもなく残酷だった。

​ 彼が求める「恋愛」は、一対一の、完全な結合だ。精神も、肉体も、すべてを分かち合うこと。

​ 僕が、一番できそうにないことだった。


​「君がアスカさんを大事にしてるのも、仲が良いのも、分かった。……でも、俺は、やっぱり嫌だ」


​ 彼の指に、わずかに力がこもる。


​「恋人である俺が知らない顔を、俺以外の……それも、女の・・友達・・が知ってるなんて」


​ ──ああ。タクミさんは今そう思っているのか。


 僕が「男」でアスカは「女」だから、絶対に恋愛関係にはならないと、そう説明した僕の言葉を、彼は信じてくれてはいた。

​ だがあの日、僕とアスカの間に流れた、あの短くて、でも濃密な「共鳴」は、彼が恋人である自分とすら共有できていない「精神的な繋がり」だった。

​ 彼にとって、それは肉体的な浮気よりも、もっと深刻な「裏切り」に見えたのかもしれない。


​「……ごめんなさい」


 僕が絞り出した、か細い「ごめんなさい」という言葉は、静かになったリビングルームで、何の効力も持たずに消えた。

​ タクミさんは、僕の手を握ったまま、静かに首を振った。


​「謝ってほしいわけじゃないんだ」


​ 彼の声は、あくまでも穏やかだった。だが、その穏やかさこそが、彼の揺るがない「誠実さ」の証明であり、今の僕には何よりも重い圧力として感じられた。


​「俺は、ただ……」


​ 彼は、言葉を選びながらゆっくりと続けた。


​「俺は、恋人とは、全部共有したいんだ。君が何に怒って、何に笑って、何に夢中になるのか。その一番を、俺が知っていたい。一番近くにいたい。……でも、君の一番は今、俺じゃない」


​ 僕は顔を上げることができなかった。

​ 彼は正しい。

​ 彼の言っていることは、恋人同士として、あまりにも「普通」で、真っ当で、誠実な望みだ。

​ 恋人が、自分以外の誰かと、自分以上に深い精神的な繋がりを持っている。その事実を、笑って許容できる人間が、どれだけいるだろう。


​ 僕が求めていた、この「誠実」な人が、今、その「誠実さ」ゆえに、僕にナイフを突きつけている。

​ 僕は、彼が求める「普通」の恋愛のルールを根本から破っていたのだ。


​ アスカが、タクミさんのことを「普通の人だね」と評した、あの夜の会話が蘇る。あの時、僕は彼女の言葉に苛立った。お前に彼の何が分かるんだ、と。

​ だが今、僕を追い詰めているのは、まさにその、彼の「普通」さだった。


​「俺、君のことが、本当に好きなんだ」


​ タクミさんは、もう一度、そう言った。重ねられた彼の手のひらに、力がこもる。僕の肉体が、あれほど求めてやまなかった、確かな熱。


​「俺たちがゲイで男同士だってことも、関係ない。俺は君という人間と、ちゃんと向き合いたい。一対一で、誰にも邪魔されずに」


​ 僕は、息を飲んだ。彼が次に何を言おうとしているのか、その重たい覚悟が、握られた手を通して伝わってくるようだった。


​「だから、お願いだ」


​ 彼は僕の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、もう戸惑いの色はない。悲しみを押し殺した、強い決意の色だけがあった。


​「もう、あの子とのルームシェアを解消してほしい」


​ 時間が止まった。

​ いや、僕の心臓だけが大きく跳ねて、一時的に機能を停止したのかもしれない。


​ ──何を言われた?


​ ──ルームシェアを、解消? アスカとの、あの家をなくせと?


​ ──僕の聖域を、僕が唯一「30点の僕」のままで呼吸することを許された、あの場所を、捨てろと?


​ 僕が、彼の言葉の意味を咀嚼できずにいると、彼はさらに言葉を続けた。それは彼の誠実さが導き出した、彼にとっての唯一の「解決策」であり、僕にとっての最終通告だった。


​「そして、俺と一緒に住まない?」


​ 頭が真っ白になった。

​ 一緒に住む。

​ 彼と? この僕が求めていた「誠実」で「肉体的に魅力的」な、完璧な恋人と?


​ それは僕にとって、一つの「ゴール」のはずだった。安定したパートナーシップ。誰にも邪魔されない、二人だけの生活。僕の「性愛」を満たしてくれる相手との、穏やかな日常。僕が、アスカとの生活に「足りない」と感じ、アプリに手を伸ばしてまで求めた、まさにそのものだ。


​ 彼は、僕の「性愛」のすべてを、受け入れ、満たし、そして「一緒に暮らす」という、これ以上ない「普通」の幸福を差し出してくれている。


​ "アスカ"を捨てること。

​ そして"タクミさん"を選ぶこと。


​ どちらか一つだけを選べ、と。

​ 僕が「完璧だ」と信じていた、あの美しい二重生活。精神のソウルメイトと、肉体のパートナー。その両方を手に入れたという万能感は、この「普通」で「誠実」な一言によって、音を立てて崩れ落ちた。


​ 両立なんて、できるはずがなかったんだ。

​ タクミさんの誠実な恋愛観が、僕の歪(いびつ)な幸福の形を、許さなかった。


​ ──僕はどう答えればいい?


​ 彼の手を振り払えば、僕は、この温かい肉体と、僕を「恋人」として愛してくれる唯一の存在を失う。僕はまた、あの満たされない「飢餓感」を抱えたまま、アスカとの聖域に逃げ戻ることになる。


​ だが、頷けば。

​ 彼の手を取れば、僕はアスカを失う。僕の精神の半分を、僕が「僕」であるための「答え合わせ」を永遠に失う。僕の「呼吸」の仕方を、僕は忘れてしまう。


​ タクミさんとの、知的共鳴のない、息苦しい「100点の恋人」としての生活が、永遠に続く。

​ どちらを選んでも、僕は、僕の半分を失う。


​「……」


​ 僕は、何も答えられなかった。

​ 僕の肉体が確かに求めている、その温かい手に握られたまま、僕は、まるで冷たい水の中に突き落とされたかのように、指先からゆっくりと感覚を失っていった。

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