狂人の住まう街

第1話 なくなった日

轟音が空を裂いた。

 土砂降りの雨が世界を叩きつける。

 その夜、僕は傘も差さず、庭の一点を見つめていた。


 視線の先には、胸を貫かれた父と、その父を串刺しにしている異形の怪物。

 人の形をしているようで、どこか人ではない。黒い体表はぬめり、瞳のようなものがいくつも瞬いている。

 その足元には、頭のない母の死体。

 雨に打たれてもなお、母の髪は地面に広がり、血と泥にまみれていた。


 父は何かを叫んでいた。

 雷鳴と雨音にかき消され、言葉は届かない。

 けれど、その表情だけは理解できた。

 ――逃げろ。


 次の瞬間、僕は駆け出していた。

 雨が顔を叩き、涙が頬を伝う。

 どちらがどちらか、もう分からなかった。


 どうしてあんなバケモノが家にいた?

 父と母は本当に死んだのか?

 次は僕の番なのか?


 思考がぐちゃぐちゃになり、頭の中で嵐が吹き荒れる。

 背後から、水音が近づいてくる。

 ズルリ、ズルリ――。あの化け物の足音だ。


 振り返るな。止まるな。走れ。


 心臓が爆発しそうなほど脈打つ。

 肺が焼けるように痛い。

 それでも、ただ必死に足を前へと出した。


 どれほど走っただろう。

 ふいに身体が軽くなった。

 次の瞬間、背中に鋭い痛みが走る。


 「――ッ!」


 息が詰まり、地面に崩れ落ちた。

 視界がぼやけ、冷たい雨が頬を打つ。

 背中に何かが刺さっている。

 身体が動かない。


 バケモノの息遣いが、すぐ頭上で聞こえた。

 濡れた土の匂いに混じって、腐臭のような臭いが鼻を刺す。


 終わった――。


 父と母を殺したあいつが、今度は僕を殺す。

 どうして僕なんだ。なぜ僕たち家族なんだ。


 やだ。死にたくない。

 まだ生きたい。

 心の中で、無様に命乞いを繰り返す。


 ――ドカンッ。


 轟音とともに、何かが爆ぜた。

 熱風が頬をなでる。


 「もう大丈夫だ、少年。安心するがいい」


 低く、しかし穏やかな声が降ってきた。


 ……誰だ?

 助けてくれたのか? あのバケモノは?


 荒い呼吸のまま、声の方を見上げる。

 夜と雨に覆われ、顔はよく見えない。

 だが、スーツを着た大柄な男が立っていた。

 雷光が一瞬、その姿を照らす。

 サングラスのレンズが光を弾いた。


 「さっきの化け物は私が退治した。もう安心していい」


 その言葉に、胸が一気に熱くなった。

 助かった――。

 安堵と、あの化け物への憎しみ、そして両親を思う痛みが一気に溢れ出す。


 「さっきのバケモノは何なんですか?! あいつが……父と母を!」


 泣きながら男の足にしがみつく僕。

 男は一瞬だけ沈黙し、静かに言った。


 「バケモノのことは後で話す。今はとにかく来い。このままだと、君も死ぬ」


 その言葉を聞いた途端、背中の痛みが再び襲ってきた。

 アドレナリンが切れ、激痛が身体を貫く。

 視界が歪み、意識が遠のく。


 「成家さんと久美さんのことは……残念だった。でも、君だけでも生きていてくれてよかった」


 その声を最後に、僕の世界は闇に沈んだ。


 ―――


 目を覚ますと、知らない天井があった。

 金属のような匂いと、低く唸る機械音。

 身体を起こそうとしたが、背中の激痛に耐えきれず、再び倒れ込む。


 右腕には点滴。

 薄いシーツ。

 ここは病室だ。


 辺りを見回していると、扉が開いた。


 「お、目を覚ましたか、少年」


 あの声だ。

 雨の夜、僕を救った男。


 「あなたは……助けてくれた人ですよね?」


 「そうだ。東郷とうごうまことという。君のお父さんとお母さんの友人だ」


 “父と母”という言葉が耳に届いた瞬間、

 あの光景が頭の中に蘇る。

 黒い異形。

 血に染まった庭。

 母の首のない身体。


 嘔吐感が込み上げ、僕はそのままベッドの上で吐き出した。


 「おい! 大丈夫か?! 誰か、ナースを呼んでくれ!」


 誠さんは慌てて駆け寄り、近くにあったタオルで僕の口元を拭った。

 自分のスーツが汚れているのも気にせずに。


 「す、すみません……。あの時のことを思い出してしまって……」


 「いや、私こそ軽率だったな」


 東郷さんは苦い顔をして、ゆっくりと問いかけた。


 「君は……ご両親の死を、目の当たりにしたのか?」


 僕は小さく頷く。

 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。


 言葉にならない嗚咽が漏れる。

 東郷さんは黙って僕の手を握り

 ただ一言、静かに言った。


 「全て君には話そう。だが、今はとりあえず体と心を休めなさい」


 ナースが駆けつけてくると東郷さんは僕の吐瀉物の掃除を頼み、また顔を出すと言って去っていた。




 ̄ ̄ ̄ ̄



病院の窓の向こうで、町はいつもの色を取り戻していた。

 朝が来れば配達トラックの音が路地に流れ、誰かの笑い声が裏庭の方から聞こえる。だが僕の世界だけは、まだ雨の夜のままだった。


 包帯のない背中が窮屈だ。眠れば夢の中であの黒い塊が蘇り、胸の奥が押し潰される。目を閉じても、体が休まることはなかった。点滴のリズムだけが、白い天井との距離を測る合図になる。


 昼間は時間がゆっくりだった。看護師が何度も体温を図りに来る。食事は半分も喉を通らず、テレビの雑多な情報が耳に入るだけだ。面会時間には何人かが来て、花だの書類だのを置いていった。だが、両親の友人だと名乗った東郷さんは、頻繁には現れなかった。来るのは決まって夕方か、夜に向かう薄暗い時間帯だ。


 「まだ痛むかい?」

 東郷さんはいつも簡潔に、だけど必要以上に優しく訊く。スーツの襟に僅かな泥が残り、袖は濡れている。彼が来るときには必ず、雨が降っているように感じられた。だがそれ以外のことは、聞いても教えてくれない。


 「父さんと母さんは……どうして?」

 何度訊ねても、東郷さんは視線を逸らし、短く言葉を濁すだけだった。


 「理由は後で説明しよう。今はまだ、君の体が第一だ」


 そのさじ加減が、子供の僕には苛立たしかった。怒りと感謝が混ざり合い、言葉はつっかえて出てこない。夜になると、僕は枕を掴んで泣いた。東郷さんはベッドの端に座り、黙って手を握ってくれた。だがその手の温度は、どこか冷たかった。


 夜は長かった。白昼とは別の時間軸がそこにはあった。眠りに落ちるたびに、あの夜の断片が再生される。父の叫び声、母の髪、地面に広がった血、そして――刺された背中の焼けるような痛み。夢の中で逃げても、足が重く、視界は粘るように濁る。目が覚めると喉が渇き、枕には汗が吸い込まれている。


 最も恐ろしいのは、音だった。低い、振動するような唸りが。


 最初は雷の余韻だと思っていた。だがある夜、僕ははっきりと聞いた。名前を呼ぶ、柔らかい声を。自分の名でもなく、何か古い言葉のようで――僕の中の薄い膜を叩き割るような、懐かしい響き。


 「――来い」


 声は夢と現の境目に滑り込み、眠りを攫う。目を開けると病室は静まり返り、廊下の灯が細く伸びるだけだ。だが鳴り続けるその声の余韻が耳の奥に残り、鼓膜の裏で何かが動いているのが分かる。叫んでも誰も来ない。看護師の足音は遠く、機械のランプだけが淡く点滅している。


 翌朝、看護師にそれを話してみた。淡い笑みで取り合ってくれたが、眼差しの奥に小さな遠慮があった。


 「外傷のショックで、夢がひどくなることはありますよ。ストレス、トラウマってやつね」


 言葉は優しいが、どこかで僕を突き放すようだった。そうだろう、彼らは専門家だ。けれど、夢の声には説明のつかない冷たさがあった。あの声はただの夢ではない。胸の奥に小さな針が刺さって、じわじわと毒が廻る感覚だ。


 日が経つにつれ、奇妙なことが増えていった。食堂に置かれた新聞の切れ端に、見覚えのある模様がこっそり印刷されているのを見つけたり、廊下の消火器の赤い塗装に、あのバケモノの黒い体表と同じ光沢が反射しているように見えたりした。偶然だと自分に言い聞かせるが、不意に背筋が冷たくなる。


 ある夕方、窓の外に人影が見えた。二階の窓から、薄いシルエットがこちらを覗いている。姿はぼやけていて、誰か判別できない。僕は声を出して呼んだが、影はすぐに消えた。ほどなくして東郷さんが来た。


 「気のせいかもしれない」

 彼はそう言って、カーテンを引いた。だがその表情は硬かった。雨粒がガラスに叩きつけられ、外の世界が滲む。東郷さんは、何かを考え込むように窓の外を見つめたまま、ふっとため息を吐いた。


 「君には、しばらく安静が必要だ。ここで体力を戻すんだ」


 言葉はまたしても具体性に欠けていた。僕は退屈と苛立ちで胸が張り裂けそうだった。


 ある夜、眠りそうになったときに、はっきりとした匂いがした。あの夜と同じ、湿った土と血の匂い。僕は慌てて目を開けた。窓の外は暗く、廊下の灯りだけがまばらに点いている。だがベッドの足元、カーテンの影の中に、黒い塊が揺れているのを見た気がした。息が止まりそうになり、全身が硬直する。


 ――来い、という声が、また聞こえた。


 今度は夢の中のそれと違い、明確だった。耳の内側でどんどん音が膨らみ、世界の輪郭が白濁していく。必死に目を閉じ、頭を振って声を振り払おうとするが、声は僕の名前を呼び、もっと近くへ、もっと深い場所へ引き込もうとする。


 そのとき、扉が静かに開いた。白衣の影が入ってきて、看護師が優しくランプを点けた。東郷さんが立っている。彼は僕を見ると、疲れたように眉を寄せた。


 「聞こえたか」


 彼の声は低く、真剣だった。問いというよりは確認だった。


 「うん……」


 言葉は震え、恥ずかしさと恐怖で声が細くなる。東郷はしばらく黙り込み、窓の方へ歩み寄った。外には何も見えない。ただ、雨が降っているだけだ。


 「君の耳には、普通のものは届かない。だが、それ以外のものが届くことがある」


 その一言に、胸の中で何かが弾けた。具体的な説明はない。だが東郷さんの言葉は、僕の恐怖に意味を与えた。僕はただの被害者ではない。何かが、僕に触れようとしている――その直感は否定できなかった。


 「いつかは話そう。だが、それは君が自分を取り戻してからだ」


 彼は僕の手をもう一度握った。手の甲から伝わる温度は、昼間よりも確かに温かかった。しかし同時に、どこか遠くを見ている目の奥に、執拗な計算の光が瞬いた。言葉にしない約束がそこに含まれているのを、僕は感じた。


 その夜、眠りに落ちると、また声が来た。だが今は、以前よりも近かった。まるで僕の胸に指をかけ、鼓動を確かめるように。恐怖は変形し、何か別のものに変わっていく。憎悪や悲しみが、理由を求めてうずまき始めた。僕はいつか、この声の正体を突き止めると、心のどこかで誓った。


 そして、眠れない夜が一つ、増えた。



 


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