猟犬

二ノ前はじめ@ninomaehajime

猟犬

 妻とのあいだには子をさずからなかった。

 不妊治療の甲斐かいもなく、夫婦の仲は冷め切っていった。やがて彼女とは別居を選んだ。離婚に至るのもそう遠くはないだろう。

 どうすれば良かったのだろう。もっと別の未来があっただろうか。

 仕事帰りに駅のホームを下りたところで、鼻の先を白い蝶がかすめた。紋白もんしろ蝶だろうか。羽根に模様はなく、蝶の形に切り抜いた紙にも見えた。

 その羽ばたきに一瞬目を奪われ、他の降車する客に背中を押された。人の波に押し流される形で振り仰ぐと、夕空に蝶の形をした空白が飛翔していた。



 駅を出て帰路にく。黒革の鞄を手にげて歩いていると、ごみ捨て場のネットの下に何かが潜りこんでいた。どうやら野良犬らしく、明日が可燃ごみの収集日だからか、日付を守らない不届き者のごみ袋をあさっているらしい。

 破れたごみ袋の腐臭か、ひどえた臭いがした。

 思わず顔をしかめていると、盛り上がった緑色のネットの下で野良犬が振り返る。細かな網目の向こうでよどんだ眼光に射竦いすくめられ、思わずたじろいだ。ネット越しにこちらを映す瞳に光はなく、如何いかなる感情もうかがい知れない。

 不意に、野良犬は上目遣いで夕焼け空を仰ぐ。そのあいだにこの場から離れることにした。どうにも得体が知れない。早足で革靴を鳴らす。背中にあの濁った眼差しが張りついている気がした。

 あかね色の空には、小さな蝶が羽ばたいている。

 ごみ捨て場から離れて、足を緩めた。たかが野良犬一匹に何をあたふたとしているのだろう。小さい子供が噛みつかれては大変だ。保健所に連絡するべきかもしれない。

 思案していると、生け垣の向こうで更紗さらさ灯台どうだんの連なる花に蝶が止まっていた。風鈴にも似た可憐な花冠かかんから飛び立つ。その姿を目で追った。先ほど目撃した白い蝶が群れを作り、焼けた空に大きな空白を描いた。

 その中に妻の笑顔を垣間かいま見た。もう何年も自分には向けたことのない表情だ。呆然とする。飛び去っていく白い群れを、気づけば追いかけていた。

 今にして思えば、ありもしない夢に魅入みいられていたのだろう。良いとしをした大人が蝶を追いかけて息を切らすなど、実に滑稽こっけいだ。

 自宅がある道から外れて、山の方角へと向かった。そのあいだにも白い蝶は数を増し、幻影の中で妻の声がうそぶく。

『もうすぐ五か月、この子の名前を決めるのは、まだ気が早いかしら』

 膨らみが目立ち始めたお腹を撫でて、彼女は言った。まだ希望を抱いていた頃は、男の子にしろ女の子にしろ、どういう名前にしようかと妻と冗談交じりに話し合った。

 住宅街の外れまで来ると、家並みが途絶えていた。黒い山稜さんりょう黄昏たそがれを切り取り、その前には雑木林ぞうきばやしがあった。広がった野原におびただしい蝶が集まり、輝く人の輪郭りんかくを形成していく。子供ほどの背丈だ。その内側で、病室のベッドで我が子を抱いた妻の姿があった。患者衣を着て憔悴しょうすいしながらも、幸せそうな笑顔を向けた。

『あなたの子よ』

 白い蝶が形作かたちづくった人影が手を差し伸べる。夢遊病に近い足取りで、足を踏み出した。あそこにあるのは、自分たち夫婦が望んだ形だ。あれは蝶ではなく、裂け目なのだろう。あの中は、きっと輝かしい未来へとつながっている。愚かしい幻想を抱いて、一歩ずつ引き寄せられた。

 不意に硫黄いおうを思わせる臭いがした。自分のすぐ横を、禍々まがまがしい影がよぎっていった。

 その獣の形をした影は、眼前の白い子供に飛びかかっていた。細い首筋に牙を突き立てて、喉を噛み千切る。人の形を成していた輪郭は散り散りとなり、空白の蝶が一斉に夕空へと飛び立った。

 夢から覚めた心地で、黒い影を凝視ぎょうししていた。鼻が曲がりそうな悪臭から、ごみ捨て場にいた野良犬を想起した。どこかいびつに瘦せ細った体躯たいくで、尻尾を垂れたままこちらを振り向く。

 あの濁った瞳に立ち尽くす自分の姿を映し、一切の関心をなくした様子で立ち去った。

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