後日譚

あれから十数年が経った。

私は、普通の生活を送っている。少なくとも、そう思っていた。大学六年生として講義を受け、目の前に迫る国家試験の勉強をし、時折バイトに出る。あの屋敷の記憶は、時々悪夢となって現れる程度だった。思い出すたびに、それが本当にあったのか分からなくなる。


ある日、スマートフォンでニュースを見ていた時だった。 地方版の片隅に、小さな記事。「北部地区の旧施設、解体へ」。添付された写真に、私の指が止まった。

高い塀。鉄格子のような窓。色のない巨大な建物。心臓が、跳ねた。

記事には「詳細不明」「長年放置されていた収容施設」としか書かれていない。場所も曖昧で、解体の理由も明記されていない。でも、この建物は——。


その夜から、私は調べ始めた。

図書館で古い新聞を漁った。断片的な情報だけが見つかる。「収容施設」「管理者不在」「記録の欠落」。ネットで検索しても、妙に情報が少ない。あるはずの記事は削除され、リンクは切れている。

「これ以上調べない方がいい」という直感があった。でも、手を止められなかった。夢だったのか、現実なのか。それを確かめずにはいられなかった。

断片が集まるにつれて、記憶が輪郭を持ち始めた。長い廊下、支配による恐怖、銃声、消えた仲間、逃げる時の息切れ。これは、本当にあったことなのかもしれない。そして、私だけではなかったのかもしれない。 毎日無我夢中で深夜まで調査を続けた。勉強もままならないほどに、キーボードを叩き続けた。


ある日、決定的な資料を見つけた。内部文書のようなもの。震える手で、ファイルを開こうとした瞬間——画面が、真っ暗になった。 慌てて再起動する。だが、調査関連のファイルが、全て消えていた。保存していたメモも、スクリーンショットも、ブックマークも。何もかも。 背筋が、凍った。誰かが見ていた。ずっと。


⭐︎

 

冷静になって考えた。なぜ私は無事なのか。

他の逃亡者は消された形跡がある。なのに私は、脅されもしない。むしろ、調べれば調べるほど「ちょうどいい情報」が見つかっていた。まるで、誘導されているように。


ふと、自分の歩みを振り返った。高校三年生の受験期、たまたま家のポストに入っていた大学のパンフレット。入試成績が異常に良く、奨学生として学費が免除になったこと。経済的な足枷を巧みに利用されていた。そして、スムーズに進んだ就職活動。様々な企業からの異様な勧誘。中には、しつこすぎる勧誘もあった。

全てがあまりにも都合が良い。


自宅の書類を漁った。奨学金の契約書。銀行口座の履歴。知らない間に振り込まれていた少額の「調整手当」。就職先の契約書の細かい条項。健康診断の記録にある、不自然な項目。


私の大学生活、行動パターン、交友関係、そして将来の医療従事者としての役割に至るまで、全て「管理」されていた。私たちは単に収容されていたのではない。選抜され、記憶を保持したまま社会に戻された、高順位の「実験体」だった。気付いた時には、もう何年も「彼ら」のために、優秀な人材として働くレールに乗せられていた。

逃げ出したあの日から、ずっと——。


膝から、崩れ落ちた。部屋の壁が、迫ってくるような感覚。嗚咽するような吐き気。 でも、気付けたということは、まだ終わりじゃない。「彼ら」は私が気付くことを想定していなかったのかもしれない。あるいは、気付いても何もできないと思っている。


震える手で、ペンを取った。データは消された。証拠もない。でも、記憶は消えない。そして、「彼ら」に追跡されない方法がある。


フィクションとして書けばいい。


小説投稿サイトに新規アカウントを作成した。タイトルは「灰色の繭」。ジャンル:ホラー、ディストピア。私は、あの日々を綴り始めた。


⭐︎


最初は誰も読まなかった。でも数日後、じわじわと閲覧数やコメントが増え始めた。「雰囲気がリアルですね」「怖い」「続きが気になります」という言葉が並ぶ。誰も、これが実話だとは思っていない。それでいい。それがいい。


数週間後、SNSで話題になった。「このweb小説、怖い…」「描写が生々しすぎる」。

有名になればなるほど、「これはフィクション」という認識が固まる。「彼ら」も手を出せない。下手に消せば、かえって注目される。


真実は、創作という形で保護される。


これが、私の見つけた「本当の脱出」だった。


⭐︎


ある日、カフェで誰かが「灰色の繭」を読んでいるのを見かけた。その人は、かつての仲間に似ていた。目が合う。にこりと明るい笑顔を向けた彼女は微かに頷いて、立ち去る。


私は、新しい章を書き始めた。

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灰色の繭 オトサカ @Shinkawa_usa

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