第13話 カワゾエという亡霊
午後7時
イルミネーションの輝く駅前の広場で、僕はぼんやりと往来を眺めていた。
両手を組み歩く男女、話しながら手を繋ぐ親子、ベビーカーを押しながら笑い合う夫婦。
彼らに僕はどう映っているのだろうか?
一人佇む青年?寂しそうな男?彼女を待つ彼氏?あるいは、路頭に迷った学生か。
その時、見慣れた顔が僕を見つけて手を振り駆け寄ってくる。僕は思わずサッと顔を伏せて前髪に手をやった。
「待たせたな、ハルト」
顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべたカズヤがいた。
僕とカズヤは、大学でも、その外でも今までと変わらずに過ごしていた。
僕は彼の浮気を追求することはなかったし、彼もそれを気にする素振りはしなかった。
努めて変わらずに、少なくとも表面上は……
そして、今日は久々に2人で外食する約束をしていたのだった。カズヤは「店を予約したから」と楽しそうに笑っていた。
僕らがその店に予約の時間通りに入ると、個室の席に通された。
「だからさ、6話までは我慢してみて欲しいんだよ」とカズヤが楽しそうに話している。
「6話?長くないか」と僕が返す。
「確かに少し長い。でもそこからなんだよ。コギト・エルゴ・スムなんて、それで覚えたからな」
「深いね」
「そうだろう?俺もそう思うね。自己を定義するのは……」
「デカルトだろ」
「知らないはずないか」
そう言うとカズヤは、フフッと小さく笑ってサラダを口に含んだ。
「ドレッシング、美味いな」
「少し酸っぱくない?」
「そうかな?俺は好きだけど」
「カズヤはもう少し甘いのが好きだと思ってた。マヨネーズとかの」
「マヨネーズは甘くないだろ」
「そうかな」
僕は、ほぐされた焼き鳥に箸を伸ばして口に放り込んだ。そして、ビールを煽った。いつもは苦く感じるビールも、どこかぼやけたような味がする。
「ピッチ早くないか?大丈夫?」
「そうでもないよ。いつも通り」
僕は頭がふわふわするのを感じながらそう答えた。
「言わないと」
心の声が響く。
「言えるのか」
鼓膜を揺らさない声が頭に反響する。
僕は意を決してカズヤの目を見た。彼は視線に気付くと僕に微笑みかける。
これだ。この目にいつも騙されてきた。僕はずっと、この瞳に吸い込まれてきた。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
僕は思わず言葉を呑み込む。そしてまた、ビールを煽った。今度は、苦い香りと味が口の中に広がった。
僕らはひとしきり呑み食いすると店を出た。勘定は二人で割るつもりだったが、カズヤが「いいよいいよ」と言って僕に財布を出させなかった。
彼は僕を家まで送ると言って、右手を差し出した。僕はそれを左手で握って歩き始める。
繁華街を抜けて信号待ちをしていると、不意に僕の身体から力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。
視点が定まらない。
カズヤは僕を支えて立ち上がらせると、近くの植え込みに座らせた。
「ハルト、大丈夫か?」
「ちょっと、酔ったかも」
「帰れそうか」
「分からない」
カズヤは少し困った顔をしてから、僕に肩を貸して歩き始めた。
そして、僕らが付き合い始めた頃によく歩いたホテル街に向かった。
僕は彼に下心がないことを知っていたし、ただ黙って彼に連れられるままホテルに入った。
この街では、男2人を受け入れてくれるホテルは珍しく必然的にいつものホテルに落ち着く。
彼は僕をベッドに寝かせた。僕はグルグルと渦巻く天井を見上げていた。ざらついた安物のリネンとは不釣り合いに煌びやかなシーリングライトが空気に溶け出していく。
カズヤがソファに腰掛ける音が聞こえる。そして、緩やかに流れていた音楽が消える。きっと、彼がテレビを消したのだろう。
僕はゆっくりと目を閉じた。呼吸が大きく響く。そして肺にタバコの匂いが染みてくる。
嗅ぎ慣れたハイライトの香り。カズヤのキスの香り。
僕が再び目を開けた時、そこにはカズヤの心配そうな顔があった。いつのまにシャワーを浴びたのだろうか?髪から雫が滴り僕の頬を濡らした。
カズヤが小さく呟き「大丈夫か?」と僕に声をかけた。
僕は「大丈夫」と言ったつもりだったのだが、カズヤは僕の口に耳を近付け「大丈夫か?」ともう一度聞いた。
僕は微笑んで「心配ないよ」と答えた。
彼はそれを聞いて少し安心そうな顔をすると、僕にキスをした。歯磨き粉の爽やかな香りが鼻をくすぐった。そして彼は僕の身体を抱き寄せた。
僕は黙ってそれを受け入れた。彼は、ゆっくりと僕の服を脱がせると、もう一度キスをした。
僕は目を瞑り、身体は汚くないかな、歯も磨いてないな、今の僕には何もできないな、などと考えていた。
しかし、僕の想像とは裏腹に、彼は僕にバスローブを着せると、もう一度僕を寝かせた。
予想外の出来事に僕が目を開くと、彼は僕のその汚い想像を察したように
「身動き取れない相手をどうこうするほど、終わってないよ」
と笑った。
僕はそこにほんの少しだけ、カズヤと過ごした時間の理由を思い出した。
そうか、彼はそういう人だったな。
僕の視界は歪んで、頬にゆっくりと涙がつたった。彼はそれに気付かない様子で、ソファに座りタバコを吸い始めた。
僕はまた目を瞑り、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「さよならは?」
僕の頭に声が響いた。
「カズヤにさよならは?」
「もう声も出ないよ」
「ふーん。まあ、それで良かったんだよね」
「本当にこれが良かったのかな」
「そのために来たんでしょう?」
「さよならのためにね」
すると、頭の声は大声で笑い始めた。腹を捩って床に倒れ込む影が浮かんだ。そして、その影はゆっくりと輪郭を得て僕に近づいてきた。
その顔は僕にそっくりで……いや、僕そのもので、ケタケタといやらしく笑いながら僕の顔を覗き込む。
「さよならのためじゃないよね。君は本当に
「違う、僕は。彼に最後の別れを告げるために」
「ならどうして、別れてからにしなかった?あんなにたくさん飲んで、往来を見つめて悦に入って」
「僕は……」
「そう、君は最低だよ。君は今、浮気されたことに腹を立てて、裏切られたと恨みを募らせ、一時の感情に取り返しのつかない方法で彼を罰しようとしている」
「そんな、僕は彼を赦せない自分を許せなくて」
「赦す!彼は本当に不義理を働いていたのか?彼は本当に君を傷つけたのか?」
「僕は」
「君は、彼と対峙することから逃げた」
「逃げてない」
「逃げた!そして、君は、彼を罰する。目覚めた時、彼は君だったものを見つけて自分を責めるだろうね。そして途方に暮れるだろうね。上手くいけば、彼は逮捕されるかもね」
「そんなことは望んでいない!」
「いいや、望んでいるさ。君はそう言う最低なニンゲンだよ。カワゾエハルト」
そして、彼は、僕は、アイツは、君は、高らかな笑い声と共にぐちゃぐちゃに溶けて消えた。
次の更新予定
愛だとか恋だとか 千ヶ瀬 悠 @chigase
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。愛だとか恋だとかの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます