第12話 ナガセという狂気

午前6時


海岸の階段に横になり僕は眠っていた。徐々にサーファーたちが集まり波乗りに興じている。波が寄せては返す音と話し声、トンビの鳴き声や散歩するイヌの息遣い。そのすべてに僕を生前に引き戻そうとするような温かみがあった。

昨日集まっていた集団は、夜中のうちに去ってしまったのだろうか。目を覚ました僕は、おそらくこの海岸で一人だけの死者となった。


僕が立ち上がり、身体から砂を払って歩き出すとイヌが一匹、僕に向かって吠えた。飼い主はリードを強く引いて引きはがそうとするが、僕を見つめて遊んでくれとばかりに舌を出して目を輝かせている。

ついには飼い主は、そのイヌを抱え上げて「どうしたのかしら」と呟きながら歩いて行った。


僕は昔飼っていたペットのネコを思い出した。それは父がまだ東京で働いていた頃で僕ら家族は都内の小さなマンションで暮らしていた。

ある雨の日に、段ボールに捨てられた子猫を僕が拾って帰ったのが始まりだ。


母は僕が抱えた子猫を見て「お父さんが許したらね」と優しく言い、父はその話を聞いて「お決まりのストーリーだな」と笑ってネコを飼うのを許してくれた。

父も母もネコを飼うのは初めてで、僕は図書館で図鑑を借りてきて「ネコ砂がいる」とか「爪とぎが必要だ」とか、飼育のための計画を立ててはしゃいだ。

ネコはニャンタと名付けられ家族全員からの愛情を受けて、3年かそこらは病気もなく元気に過ごした。

しかし、ある夏の日、僕が家に帰るとニャンタの姿はなく、母も父もただ「どこかに行ってしまった。きっと元気にやっているだろう」と言っていた。しかし、僕はそれが嘘できっとニャンタは死んでしまっているだろうな、ということに気が付いていた。

それが僕にとって最初の喪失であり、その時の両親のは、いつまでも僕の心に影を落としていた。


僕が物思いにふけりながら立ちすくんでいると、前から浮浪者のような風体の男がふらふらと歩いてきた。海岸を走るランナーが彼の身体をすり抜けたので「ああ、彼も死んでいるんだな」とすぐに分かった。


僕は彼を無視してすれ違おうとしたが、彼は僕の腕をつかみ「おい!」と大声で怒鳴った。


「なんですか」と僕が手を振り払おうとすると

「お前、無視しただろ」と彼はさらに声を荒げた。


「何のことですか」

「とぼけなくていい。誰も俺を見ない。見ようとしない。見えない」

「それは、あなたが僕のように死んでいて」

「そうじゃない!お前も俺を見なかった。いいや、見えていたのに見ようとしない」


この人は正気を失ってしまっている。下手に刺激したら殺されてしまうのではないか、と僕の脳裏によぎったが、すぐにすでに死んでいることを思い出した。


「分かりました。とにかく今は腕を離してください」

そう言うと彼は案外素直に手を離した。

「名前は」

彼はぶっきらぼうに言った。


「カワゾエです」

「カワゾエ。俺はナガセだ。手荒なことをしてすまなかったな」


そう謝罪する彼に僕はなんだか拍子抜けしてしまった。


「ナガセさんは、僕に何か用があるんですか」

「あるわけないだろう」

「じゃあ、なんで」

「なんでも何も、お前が無視するからだ」


話にならない。僕は途方に暮れてしまった。


「いいか。お前は無視した。俺は、それを無視できなかった。だから、お前の腕をひっとらえて、掴んで、引きずってやろうと思った」

「すみませんでした」

「でも今は違う。こうやって話している。ヒトには口がある。言葉がある。だから、話さないといけない」

「はあ」


全く何を言っているのか理解が出来ない。人は死ぬと偏屈になってしまうのだろうか。


「俺は悲しい。そして怒ってさえいる。死者は自分のことしか考えない。周りを見ない。そして誰のためにもならない。生きていたことさえ忘れてしまっている者までいる」

「でも、僕は優しい人にも出会いましたよ。この世界のルールを教えてもらったり、どこで何が飲めるとか、食べれるとか……」


彼は僕の目をじっと見て、おびえたような眼をした。


「お前……カワゾエだな」


急に雰囲気を変えたナガセに僕は狼狽えた。


「やりなおしたな、お前。絶対に許さない。殺してやる」


そして彼は、僕に向かって拳を振り上げた。僕は逃げないとまずいことになる、と直感して駆け出した。

死してなお死の恐怖に駆り立てられるとは思わなかった。


僕が振り返るとナガセは大きな声をあげて「この野郎!殺してやる!」と喚いたが、追いかけてくることはなかった。むしろその場でへたり込んで、動けない様子だった。


ホッと胸を撫で下ろして前に向き直ると、目の前にナガセの顔があった。

驚いて振り返ると、そこにはナガセの姿はない。


ナガセは「お前!逃がさねえぞ!」と拳を振り上げる。

僕は思わず目を瞑ってで頭を庇った。


何も起こらない。ナガセの声も消えた。

そして代わりにイヌの鳴き声が僕の鼓膜を揺らす。


目を上げるとそこには僕に向かって吠えるイヌが居た。

そして、そのイヌを飼い主が抱き上げる。


僕の右隣をランナーが走り抜けて、向こうからナガセが歩いてくる。


ナガセはこちらをジッと見つめている。

僕は踵を返して彼から逃げようとした。


すると目の前にはナガセの顔があり「お前!」と怒鳴り始める。

僕が驚いているとナガセは右手を振りかぶり、僕はまた左手で頭を庇う。


そして目の前にはイヌが吠えており、飼い主がそれを抱き上げて、ランナーが右隣を走り抜けていく。


その先にはナガセがいて、彼は僕を見つめている。


3回目だ。


僕は昨夜の海岸での出来事を思い返した。左手に乗せた貝殻が濡れていく感触。

そして僕は左手首をゆっくり捻った。


すると音は止まり、ランナーが僕の右横をですり抜けていく。

イヌの飼い主が僕の前でイヌを、イヌが僕に向かって口を開ける。


次の瞬間、僕の身体からが抜け出て、後ろ向きに歩き始めて砂を払った。そして、階段で寝転ぶ。


僕が左手を戻した瞬間、視界が真っ暗になった。目を開けると、そこには青空が広がっている。そして、身体を起こして振り向くと、見覚えのあるイヌと飼い主が歩いてきて……


時間が巻き戻った。


僕はそう確信した。そして、これこそがであると理解した。


僕はゆっくりと立ち上がると、先ほどまでとは逆向きに歩き始めた。


ナガセには出会うことはなかったし、僕がイヌに吠えられることもなかった。そして見覚えのあるランナーが僕の左隣を走り抜けていく。


僕は自分のの実態を知り、ほんの少しだけ恐ろしいような、そんな気分になった。

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