第11話 ハヤカワという亀裂
午後5時
僕はカズヤの帰りを待っていた。僕は彼に部屋の合鍵を渡していたが、彼は僕に渡すことを渋っていた。息も白くなるような寒空の下、外階段の前に立っている僕を住人たちは怪しいものを見るように避けて歩いていく。そのたびにカツカツとなる階段の冷たい音は、僕の鼓膜を刺すように揺らした。
冷え切った手をポケットから出して息を吹きかける。冷たさで指は痛々しい赤色に染まっていた。
数十分待っただろうか?遠くから見覚えのある背格好の男性が歩いてきた。僕は思わず手を挙げて声を掛けようとしたが、隣に楽しげに話しかける女性がいることに気が付いて僕は拳を握った。
どうして?
僕の視界がゆっくりと揺れた。
あの日見た、彼と彼女が手をつないで歩く光景が頭の中に鮮明に浮かんで弾けて消えた。
知っていた。気付いていた。
だけど、分かりたくなかった。
暖かい涙が頬を伝って冷たさを残していった。
ああ、そうか。僕はこれほどまでに。
カズヤは近づくにつれて露骨に困ったような顔をして、歩調を速めた。それはまるで、女が自分の連れ合いであることをほんの少しでも薄めようとする言い訳のように見えた。
僕は黙って彼に向って歩いて行った。
彼は申し訳なさそうに俯き、僕は前を向いて歩いた。
そして声を掛けることもなくすれ違った。
すれ違う瞬間、カズヤは小さくかすれた声で「ハルト」と僕の名前を読んだような気がした。
角を曲がると僕は静かに涙を流した。堪えようとしていた気持ちが濁流のように溢れて僕の感情を飲み込む。それでも僕は、流れに負けじと努めて静かに声を押し殺した。
分かっていた。僕の幸せが続かないことは。
朝、目が覚めると彼からのメッセージが入っていた。
「顔を見て話したい」
たった一言。謝罪も言い訳もなく、カズヤらしい連絡だった。
僕はスマホを枕の下に隠して起き上がった。きっと、次に枕から取り出したとき、そんな連絡はなくなって、僕の幸せは元通りに戻っている、そんな期待を込めて。
大学へ向かう準備をして、僕はカバンを肩にかけた。そして、意図的に忘れようとしていたスマホの存在を無理に思い出して、枕元から手に取った。
その静かな冷たさと手のひらにかかる小さな重みが僕の心には、燃えるような憎悪と重たいドロッとした感情を沸き立たせた。
僕は静かにメッセージを開くと彼からの連絡が来ないようにした。
二度と会いたくないし、顔も見たくない。
その日の大学は午前中で終わりだったので、昼過ぎには部屋に戻っていた。
僕は静かに膝を抱えて涙を流した。
カチャッと鍵の鳴る音がして、ゆっくり扉が開いた。
しかし、すぐにチャンと音がしてチェーンで扉が止まる。
僕は顔を上げるまでもなく、その光景を鮮明に想像することができたし、その音の主がカズヤであることも知っていた。
二度ほど、チェーンを鳴らす音と「ハルト」と呼ぶ声が聞こえたがその音も止み、再び部屋を静寂が包んだ。
僕が顔を上げたとき、時計は3時を指しており窓から入る光も少なくなっていた。
部屋を見渡して僕はゆっくりと立ち上がろうとした。
けれど、力も入らずにまた布団に倒れこんでしまう。
その様子に僕は静かに笑った。
ほんの数年連れ添った男が女と歩いていたくらいで……
分かっていたことじゃないか、いずれ壊れる運命だったと
僕がもう一度目を開いたとき、時計は相変わらず3時を指している。
しかし、窓から見える景色は闇に包まれていてまるで僕の心の中のようだった。
今度こそは、とゆっくり起き上がり空いたままのカギに手を掛けた。
そしてそこには一枚の手紙があった。
「明日の17時、駅の裏手のファミレスで待ってる」
明日……それはつまりすでに今日になっていて、夕方に呼び出されているわけだ。
僕は黙って手紙を引き裂き、灰皿で燃やした。
燃えていくさなか、彼のタバコのにおいがふんわりと鼻の中を抜けた。
それからまた少し眠り、僕は朝日と共に目覚めた。
寝不足と言う雰囲気もなく、まるで眠気もなかったのだが、何となく吐き気を催していたので大学へ行くのはあきらめた。そしてその日は何も食べないまま、スマホで矢継ぎ早に流れ続ける動画を見ていた。内容に意味はなく、ただ鼓膜が揺れて網膜に何かが映ることだけが心地よかった。
眺めているスマホが急に音を立ててアラームを鳴らした。設定した覚えのないアラームに僕は驚いたが、表示された文字を見てまた涙が流れた。
記念日 17時に駅
僕はゆっくり起き上がると、上着を羽織り財布をつかんで家を出た。幸い、寝間着に着替えることなく眠っていたので、服はそのままでよかった。
駅に向かう道中、「やはり帰ろうか」「許せはしない」「顔も見たくない」など、いくつもの暗い感情が僕の心に浮かんでは消えてを繰り返した。
「さよならを告げよう」
その一言が浮かんだ瞬間に、僕は何か晴れ晴れとした気持ちになってどこか歩調が速く軽くなった。
そして僕は、ファミレスのドアを押し開けた。
店内の奥のボックス席にカズヤが座っていた。僕が席に近づくと、そこにはあの女も居た。二人で僕に会うとは、どういう了見だろうか?
僕が黙ってテーブルに着くとカズヤは静かに頭を下げた。
「ごめん」
ただ一言、そう言った。それから、カバンから何やら箱を取り出すと「ハルトに。記念日だから」と呟いた。
僕がテーブルに置かれたその箱を黙って見つめていると、女が口を開いた。
「記念日のプレゼント、何が良いかなってカズヤくんに相談されていて」
僕は重たい口を開いて「君は?」と聞いた。
女は慌てたような口調で「ハヤカワです」と答えた。
ハヤカワ。カズヤからは聞いたことのない名前だな。
そしてカズヤも「ごめん。ただ相談してただけなんだ。だから許してほしい」と言った。
僕は、二人が手をつないでいたところを見ていたし、二人でカズヤの家に向かっている姿も見ていた。
しかし、僕の口から出た言葉は「なんだ、浮気じゃなかったのか」という一言だった。
こうして信じがたい嘘を僕は飲み込み、テーブルにぽたぽたと涙を落としながら嗚咽を堪えた。
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