革の痛みが、空に繋がるまで

Tom Eny

革の痛みが、空に繋がるまで

革の痛みが、空に繋がるまで


私は、今でもリードを持つたびに、あの日のことを思い出す。手に残る、革が擦れる「痛み」。それは、私の人生で最も重い**「過去」という名の感触**だ。


過去編:短いリードの現実


小学4年生の夏、弟と私は土下座せんばかりに懇願した。「ごはんも散歩も、全部、全部、自分たちで世話をするから」と。それは、私たちにとって初めて結ぶ、命の重い契約だった。だが、正直なところ、当時の私には、その重さよりも、「犬がいる生活」という自己満足の方が勝っていた。


そうして我が家にきた小さな命に、私たちは**「ソラ」**と名付けた。ソラは、空のように澄んだ瞳で、私が帰るといつも尻尾を振って出迎えてくれた。私は、よく庭の犬小屋の横でソラを抱きしめ、その耳の後ろを掻いてやった。ソラは気持ちよさそうに目を細め、「クゥン」と短く鳴いて甘えた。その震える喉の振動が、私の手のひらに直接伝わってきた。


私たちは、ソラがいつかリードを外しても、どこまでも自由に、広々と駆け回れるようにという願いを込めて、その名を呼んだ。そして、ソラもまた、初めて庭に出た日から、秋の高い空をじっと見つめていることが多かった。まるで、いつかあの境界線のない自由へ行きたいと願うように。


後悔の根本は、すぐに始まった。


父はソラを庭の隅にある犬小屋の横、太陽に焼けてざらついた、洗濯物用の錆びた二本の支柱のうち一本に繋いだ。その短いリードの先にあるのは、ソラの願いである**「空」ではなかった。それは、せいぜい二歩分の、土と、犬の尿の染みがついたコンクリートで終わっていた。家族の無関心という名の鎖で守られた「現実」**だった。


命の契約はあっという間に崩壊した。遊びたい気持ちが勝ると、まだ遊び足りないソラを急かせてばかりだった。ソラを縛っていたのは、物理的な革ではなく、「早く用事を済ませたい」という幼い自己都合だったのだ。


悲劇と永遠の後悔


そんな日々が続いたある日。私はいつものように庭の犬小屋にソラを迎えに行った。ソラはよたよたと小屋から出てきた。元気がなく、歩き方も少しぎこちない。いつもの「早く散歩に行こう!」という甲高い催促の声は、その日だけは、押し殺したような小さな息遣いに変わっていた。不安げに私の顔を見上げていたが、私はその異変にも、ソラの最後の愛にも気づこうとしなかった。


なぜなら、当時の私にとって、友達との遊びの方が、ソラの命より優先されていたからだ。


庭を少し歩いたところで、ソラは突然動かなくなった。私は焦りから少し強くリードを引いた。


その瞬間、手に残ったリードの硬い革が、皮膚を焼き切るように擦れる強い感触と共に、ソラは、まるで糸が切れたかのようにアスファルトに重く、鈍い音を立てて倒れ込んだ。


病院で告げられたのはフィラリア感染。手術も虚しく、ソラは息を引き取った。


短いリードでしか生きられなかったソラは、今、そのリードの先を**「空」**に繋げ、どこまでも自由に旅立ってしまったのだ。


手に残った革の感触は、ソラの死の痛みと、私が犯した無関心という罪を永遠に私に刻みつけた。


現在編:月夜の再会と贖罪の散歩


それから十数年が経った。私はもう、犬を飼うことができない。リードを持つことが、あの日の革の摩擦を思い起こさせ、再び命を危険に晒すのではないかという自己不信に苛まれるからだ。


ある月夜の晩、私は用事があって実家へ戻り、あの庭に出た。月明かりは静かに、当時のまま残された犬小屋と、ソラを縛りつけていた束縛の象徴である錆びた支柱を照らしていた。周囲の草木は、夜露に濡れて、僅かに湿った土の香りが立ち上っていた。


私は、恐る恐る支柱に近づき、そっと手を触れた。後悔の源泉に触れるように。そのとき、私の手には、あの日の短いリードが握られているような、耐えがたいほどの感触が再び蘇った。だが、その感触の先に、異質なものが現れた。


支柱から、月光に照らされた夜空に向かって、冷たい月光そのものが結晶化したように光り輝くリードが無限に伸びているように感じたのだ。それは革の重みではなく、魂の軽さだった。


「ソラ…」


震える声で名前を呼ぶと、リードの先に、あの日の秋の空を見つめていたような、ソラの面影を持つ小さな影が揺らめいた。その幻の影は、私が知っている甘えるときのしぐさで、短く「クゥン」と鳴いた。ソラが、あの悲劇の場所に、私を許すかのように現れたのだ。


私は、涙をこぼしながら、リードを強く握り直した。


「行こう、ソラ。もう誰も、あなたを繋ぎ止めたりしない。このリードは、もう空に続いているんだから」


これは、後悔に囚われた私自身を救済するための儀式だった。


私は、光り輝く幻のリードをしっかりと握りしめ、そのリードが伸びる夜空の先へと、幻のソラと共に静かに登り始めた。過去の束縛の場所から昇りきった先。そこには、月光に満ち、どこまでも境界線がなく、足裏に心地よく、柔らかい弾力で応える芝生が広がる、天国のような公園があった。夜風は、地上の喧騒とは無縁の、清涼で穏やかな香りを運んでいた。


私は、もう誰にも急かされることなく、幻のソラの頭を優しく撫でる。ソラは、かつて願い続けた無限の自由の中で駆け回り、私を見上げて尻尾を振る。過去に果たせなかった散歩を、私は永遠に続くかのようにゆっくりと楽しむ。


これが本当にソラの魂なのか、私の贖罪が生み出した幻想なのかは、もうどうでもよかった。


私は、幻のリードを握りしめたまま、確信した。


短いリードが象徴した「無関心」という名の罪は、


この「空に続くリード」によって、永遠の愛という名の贖罪へと昇華されたのだ。


そのリードは、私の心と、無限の空にいるソラの魂を、今も強く、そして温かい、確信の感触となって繋ぎ止めている。トラウマの硬い痛みは消え、そこにはただ、絆だけが残った。


私は過ちを許されたのではない。私自身が、ソラとの永遠の絆を、この空に探し当てたのだ。


そして、私は知っている。空は、ソラが自由に駆け回る場所であり、このリードの感触は、私たちが永遠に繋がっているという、**確かな「現在」**なのだと。

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