浴室にて

芹沢

浴室にて

 暗いアパートの一室、玄関扉を開けて向かって右側に脱衣所がある。その先にある浴室内で田口たぐち文雄ふみおはじっと息を潜めていた。背中がじわじわと汗ばむ。暗闇の中、ただ耳をすましていると、何が外界の音で何が頭の中の音かわからなくなってくる。ふいに遠くでサイレンの音がしたとき、文雄の四肢が無意識に力んだ。サイレンは少し近づき、すぐまた遠ざかっていった。先の大通りを曲がったのかもしれない。静寂が戻ったが、文雄の耳にはまだサイレンの残響が鳴っていた。それも次第に消え入り、静けさに耐えかねた鼓膜が耳鳴りを起こす。


 30分前、文雄が空き巣に入れそうなアパートを探していると、一室だけ鍵のかかっていない部屋を見つけた。このご時世にオートロックもないアパートで不用心にも鍵をかけずに出かけるということは、自らの防犯意識の無さを露呈することに他ならない。ピッキングすら必要としない部屋を前に文雄は「入ってくれと言ってるようなもんだ」とほくそえみ、堂々とドアを開け中に入った。

 部屋は殺風景だった。家具らしい家具はなく、小さなタンスがあるだけだった。タンスの引き出しを開けると女物の服しかなかったのでどうやら女の一人暮らしらしい。文雄はあらかた部屋を物色し終わったが、金目のものはほとんどなかった。

 チッと舌打ちをして部屋を出ようと思ったそのとき、カンカンと外階段を上ってくる音がした。どきりとした。運悪く家主が帰ってきたのかそれとも他の部屋の住民か。耳を澄ませていると、足音が近づいてきて部屋の前で止まった。金属が軽く触れ合う音がする。慌てて隠れるところがないか考えを巡らせるが、押入れには布団が仕舞われ、入る隙間はない。居間には身を隠せる家具もない。鍵穴に鍵が差し込まれる。咄嗟に浴室へのすりガラスの引き戸を小さく開け、浴室の中へ体を滑り込ませるのとほぼ同じタイミングでガチャリとドアが開いた。

 玄関で靴を脱ぐ音と男女の声が聞こえる。声色から親しげな様子だ。文雄は焦る。一人暮らしではなかったのか。いざとなれば携帯しているナイフで脅せば静かになると高を括っていたのに、男がいるのでは分が悪い。しかし今出ていくわけにも行かない。しばらくしたらコンビニにでも行くだろうか。

 居間に移動した二人はしばらく談笑しているようだった。狭いワンルームのはずなのにやけに声が遠い。しばらくして次第に声が低くなり、やがて女の悩ましい声が漏れ聞こえ始めた。心の中でまた舌打ちをする。今日はついていると思っていたのはとんだ勘違いだった。さっさと終われと念じながら耳をすませていると、それは次第に嬌声へと変化していく。昼間から旺盛なこったと文雄は下卑げびた笑いを口元に浮かべる。悲鳴にも似た声になった次の瞬間、プツリと途絶えた。

 文雄が訝しげに居間側の壁のタイルに耳を押し付ける。何も聞こえない。果てたのだろうか⋯⋯?

 ——ドン、と壁が鳴った。続いて家具が激しく軋む音。獣が喉を鳴らすような音、そして空気が細い管を抜ける音。

 文雄は汗が止まらなかった。壁を隔てた向こうの部屋で何が起こっているのか、何故か手に取るようにわかってしまう。

 不穏な音の連鎖が三分は続いたが、次第に音は小さくなっていき、とうとう全くの無音になった。ろうそくがふっと吹き消されたような静けさが壁を伝って文雄のもとまで這い寄ってきた。


 そして今に至る。

 遠くのサイレンの音さえ耳をつんざくほどの静寂が永遠に続くかと思われたそのとき、壁の向こう側で気配がした。

 なにかを引きずる音がする。重い、質量のあるものが硬い床を擦る。それがだんだんと浴室へのドアに近づいてくるとわかり、文雄はすくみ上がった。どうすればいい?ここは浴室、他に隠れるところなど――

 脱衣所の先に何者かの息遣いがする。もう迷ってはいられない。文雄は風呂蓋をできるだけ音をたてずに開け、浴槽の中へ身を隠した。すりガラスの引き戸の前まで重い何かが引きずられた。引き戸が開けられる。パチっとスイッチが点けられる音とともに、蓋の隙間から光が漏れた。

 蓋を少し浮かせて外を見る勇気がなかった。狭い浴室内は音がよく響く。見えないのに文雄はなぜか浴槽の外の光景がはっきりと脳内に流れ込んできた。

 男は片手に髪の束を、もう片方の手に大きななたのような刃物を持っている。男が片手で浴室に引きずってきたものを無造作に浴室のタイルの上に転がした。それはここに住む女であろう。女は裸で目を見開いて浴槽の方を凝視している。だがその瞳からは完全に光が失われていた。

 男は女の死体の上に仁王立ちになり、大きく息をつく。そして手にした鉈を振り上げた。鮮血が飛び散る。

 血なまぐさい匂いが浴室に立ち込め、文雄のところにも這い寄ってきた。文雄はえずきそうになるのを必死に抑えようとする。

 ヴッと小さく喉が鳴った。その瞬間、再度振り下ろされかけた鉈が一瞬ピクリと止まった。しかしそれ以上の間を空けず鉈はまた振り下ろされ、そのたびにタイルは鮮血に染められていった。

 何度目かでようやく鉈の動きが止まった。何かの肉塊を携え、男は浴室を後にする。

 早く出て行ってくれと文雄は願った。男が疲弊している今、鉈を奪い応戦するか。しかし他に武器を持っていないとも限らない。なにより狂った男と真正面から渡り合う勇気など、文雄は持ち合わせていなかった。

 犯人がこの部屋を出たらすぐに自分も逃げよう。

 居間で慌てた様子で身支度を整えている音がする。男が扉を開けてバタンと閉める音がした。外階段を急いで駆け下りる残響が消えるころに文雄も浴槽から出た。

 そこは案の定血の海だった。女の下腹部から大量の血が排水溝へと絶え間なく流れていた。

 足をもつれさせながらなるべく血を踏まないように開け放たれたすりガラスの引き戸の方へと進む。肩越しに女の姿を盗み見た。陰部が切り取られ真っ黒な穴から臓物が溢れ出ていた。文雄は後ろ手で引き戸を閉め、急いで脱衣所から廊下へ続く扉に手をかけた。

 開かない。そんなはずはない、と思いながらもう一度押すがびくともしない。浴室のドアに外から鍵がかかるはずがない。パニックになりかけたそのとき――

 ひたりと背後から音がした。気がした。後ろには浴室があるだけだ。そして浴室の中には女の死体。文雄は閉まったすりガラスの向こうに佇む青白い人影を想像して、振り向けなかった。文雄は震える手でスマホをポケットから取り出し、電源を入れた。住居侵入罪で捕まってもいい、凶器はここにないんだし自分が一番に疑れたとしてもすぐ容疑は晴れるだろう。それよりこの密室で惨殺死体と過ごすのは耐え難かった。

 110番にかける。果てしなく続くかのようなコール音の後、応答があった。

「はいこちら警察です。どう⋯⋯したか?」

「い、今〇〇アパートの三階の部屋にいて、そこで殺人事件を目撃して⋯⋯」

「え?⋯⋯ません⋯⋯んですか?ノイズが⋯⋯よく聞こえ⋯⋯です。もう一度ゆっ⋯⋯ねが⋯⋯ますか?」

 イライラしながら文雄は叫ぶ。

「だから⋯⋯人が殺されたんだよ!」

 ——ザシュッ。

 浴室から音がした。文雄は恐る恐るそちらを振り返る。先程の惨劇がまるで始めから再生されているかのようだった。モザイクがかった黒いシルエットが仕切りに鉈を振り下ろし、その度にすりガラスに同じくモザイクがかった血が飛び散った。文雄の手からスマホが落ちた。スピーカーからはまだ職員の声が途切れ途切れに聞こえるが、だんだんと大きくなる浴室の怪音が、それをかき消していく。文雄にはそれが最早奥の浴室で鳴っている音なのか自分の頭の中で鳴っている音なのかわからなくなっていた。


 数日後、新聞の片隅に小さく田口文雄の名前が載っていた。


 〇〇県〇〇市のアパートの空き部屋に男性遺体、心臓発作か

 10日午後5時頃、〇〇県〇〇市のアパートの一室で男性の遺体が発見された。男性は数日前から行方不明になっていた田口文雄さん(57)とみられている。田口さんの発見された部屋は半年ほど空き家で、普段は施錠されている。こじ開けられた形跡はないことから、なんらかの理由で鍵が開いていたとみられる。9日に田口さんの携帯電話から警察に着信があったが、オペレーターによるとノイズが激しく、聞き取り不能だったという。県警は田口さんがアパートに入った詳しい経緯を調べている。また、同部屋では15年前に女性が惨殺される事件があったが、関連は薄いとみられている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

浴室にて 芹沢 @serizaa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ