海を越えるブルー

理宇

海を越えるブルー


ウルトラマリンブルー。


昔、この青はアフガニスタンから地中海を越えてヨーロッパに運ばれてきた。

今は、合成された安価な絵の具が主流だ。

でも、名前だけは残っている。

海を越える青。



1 罪



女が台所で筆を洗っている。

筆を、丁寧に洗っている。

油絵において、

筆をしっかり洗うことは重要な行為である。

もう、絵を描くのはやめようと思う。

筆たちに一本一本、ありがとうと言う。

それは感謝というより別れの挨拶である。

今日でもう描くのはやめる。

最後にせめてこの筆たちを綺麗にしてあげて、

それでやめよう。

隣の部屋で父が咳をした。

もうずっと咳が治らない。

女が工場を辞めてから、3か月経っていた。

父の看病のため、と言った。

嘘ではなかった。

でも、本当でもなかった。

工場をやめた日、

女は絵を描いていた。

ゴホ!ゴホ!

父の咳はひどくなるばかりだ。

薬を買わないと。

あの時、買えたかもしれないのに。

配給所でもらった米。

この前、少しだけ袋に分けて、闇市に持って行った。

薬を買おうと思った。

買ったのはウルトラマリンブルーの絵の具。

足りなかったから。

小さなチューブをポケットに隠して帰ってきたとき、

部屋で罪悪感につぶされそうになった。

なぜ父のために闇市で薬を探し、買わないのか。

薄情だ。

人でなしだ。

鬼だ。

もうこんなことはやめたい。

女は手で顔を覆った。

貯金も底をつきかけている。

やめよう。

やめよう。



イエローオーカー。

チタニウムホワイト。

エメラルドグリーン。

カドミウムイエロー。

クリムソンレーキ。

絵の具をカバンに押し込んでいく。

絵の具を全部、闇市で薬と交換する。

それで、おしまいにする。

女はカバンを肩にかけて、帽子をかぶって出かける。

父が咳こみながら言う。

「いってらっしゃい」

「いってきます」



2 海



女は闇市にいた。

監視ドローンが飛んでいる。

帽子をかぶり直す。

人混みをかき分けながら進む。

薬屋は何人かいる。

その前に、美術屋に会いに行かないと。

絵の具を米と交換するのは彼しかいない。

小さな神社の脇の階段を上がったところ。

崩れかけた雑貨店の傍にいつもいる。

シートをひいて色とりどりの絵の具を並べている。

神社のところまで来た。

階段を上がっていく。

数段上がったところで、

ドン

体格のいい男とぶつかる。

転がって、落ちる。

「気ぃ付けろ」

男がボソッと言って去る。

地面に絵の具が散らばっている。

色彩が散っている。

慌てて拾い集める。

スッとウルトラマリンブルーを渡す手が伸びた。

「これ、転がってましたよ」

細い手、その手は絵の具で黄色や青に色づいていた。

少し年上くらいに思える女性だった。

同じ絵描きだと思った。

「あ、ありがとうございます」

女は遠慮気味に聞いた。

「絵、描いてるんですか?」

「ええ、あなたと一緒」

絵描きは少し照れたように笑った。

「ウルトラマリンブルー、新品ですね」

「はい、この前買って」

でも、使わずに手放す。

もう絵をやめるんです。

それが言えなかった。

「良いなぁ。何を描く予定ですか?」

「そうですね……、やっぱり海の絵とか」

「海!良いですね」

女性の目が少し輝いた。

「私も海、描きたいんです。もうずっと見てないなぁ」

「私も、ずっと見てない」

絵描きは微笑んだ。

「でも、だからこそ描きたい、よね?」

「うん」

「一緒だね」

「うん、一緒」

女は心が軽く、

少しずつ軽くなっていくのを感じた。

「海の絵、完成したら一番に見てほしい」

「すっごく楽しみ!そうだ連絡先交換しよう?」

絵描きは電話番号と住所を女のメモ帳に書き込んで渡した。

少し、手についた絵の具がメモ帳の端についた。

女はそれが少し、かすかに、愛おしく思った。

女も絵描きのメモ帳に電話番号と住所を教えた。

「今度、うちに遊びに来てよ」

少し照れながら絵描きは笑った。

その笑い方が女は好きになった。

……楽しかった。



結局、美術屋には会わなかった。

闇市では何も交換せずに帰ってきた。

「おかえり」

父が咳こみながら言う。

「ただいま……」

「どうした、元気がないね」

絵の具をすべて薬に交換するはずだったのに、

絵の具はすべて持って帰ってきた。

それどころか、今、絵が描きたくて仕方がない。

ウルトラマリンブルーで描いた海の絵を絵描きに見せたい。

どんな海を描こう。

そればかり考えていた。

……申し訳ない。

あまりにも自分勝手だと思った。

絵はやめるべきだ。

でも、一枚、海の絵を描いてからにしたい。



3 波



キャンバスを前にして女は思う。

このキャンバスは海に向いていない。

海を描くには寸詰まりで不格好だ。

出来れば横に長いキャンバスが良い。

描きたい構図で描けない。

美術屋に会って、探してもらうか?

でも……。

ゴホ!ゴホ!

父が咳こんでいる。

もう、ずっと咳こんでいる。

ひどくなるばかりだ。

それはそうだ。

薬がない。

病院に行っても何ももらえない。

病院には何もない。

海上封鎖が、もう3年も続いている。

海の向こうからは何も入ってこなくなった。

戦争が嫌いだ。

ゼェーゼェー

父の苦しそうな息。

まるで、波のようだと思った。

海……。

海の絵、どんな絵を描こう。

キャンバスを指でなぞって構図を考える。

やっぱりこのキャンバスじゃダメだ。

ゴホ!ゴホ!

父が咳こんでいる。

ダメだ、絵のことを考えるのはよくない。

「お父さん、大丈夫?」

そうだ、背中をさすろう。

今すべきはそういうことだ。



海の絵を描いて、それで終わりにする。

終わったら絵の具は薬に変える。

本当だ。

だからお父さんもう少し我慢して。



4 涙



結局、薬を手に入れる前に父は死んだ。

最後の家族が死んだ。

悲しさの前に自分の馬鹿さに目の前が暗くなった。

悲しいというより動揺した。

葬式と呼ぶか否か、という程度のささやかな儀式をして父の死体を燃やした。

僅かな貯金も、これで尽きた。

女は実際のところ呆然としているだけで近所の人がほぼ全て行った。

同情されるのがきつかった。

なんて顔をしていれば良いかわからなかった。

ほとんど自分が殺したようなもんじゃないか。

泣くというか笑えた。

父がかわいそうだ。

一生懸命育ててこれか。

自分が生まれない方が父は幸せだったのでは?

いや、やめよう。

こんなこと言ったところで父は生き返らない。

というか生き返ったとしても、

結局また報われずに死ぬだろう。

自分という娘がいる限り不幸になる。

ダメだ、何考えてんだ。

親が死んだんだぞ。

悲しめ。

泣け。

いつもお前は、

なぜ泣かない。

「ねぇ」

近所のおばさんが女に声をかける。

「辛いだろうけど、部屋を綺麗にしないと」

「はい」

やるべきことをやろう。

今はそれが最善だ。



おばさんがあらかた片付けた。

最後に残ったのは、空っぽのベッドとシーツ。

おばさんと女でシーツをはがす。

真っ白くて大きくて、横長の布。

女は言った。

「これ画布になるな」

「え?」

申し訳ない。

その気持ちが強い。

いや、もっと強いのは喜びだった。

真っ白くて大きくて、横長の布。

この布は海の絵にぴったりだ。

馬鹿だ。何を喜んでいるんだ。

申し訳ない。あまりにも。

でも、描きたい。

海が描きたい。

ひどい。

今思うことではない。

なのに。

二つの気持ちが押し寄せて混乱した。

涙が出てきた。

とっさに抑えようとして俯く。

無理だった。

涙が一滴、零れてシーツに落ちた。

そして、

シーツを抱えたまま号泣した。

涙がボロボロと零れ、嗚咽と鼻水が止まらない。

気持ちが爆発していた。

自分でも驚くほど叫ぶように泣いた。

女はここ10年は泣くという行為をしなかったので、

ひどく不器用で汚い泣き方をした。

「ごめんなさい」

と謝り続ける女におばさんは優しく付き添った。

落ち着いてきた頃には日が暮れかけていた。

それでもおばさんはずっと背中を撫でながら気遣った。

「困ったらいつでも頼りなさい」

おばさんは女の手をギュッと握って帰っていった。



一人残された。

申し訳ないがやっと一人になったと思った。

いやいや、馬鹿かお前は、

おばさん心配してくれたのに。

でも、日が完全に落ちてしまった。

計画停電で真っ暗になる夜はまともに絵が描けない。

ろうそくをいくつか灯した。

空っぽになった部屋の壁にシーツを打ち付けた。

女は薄暗い部屋でシーツを見つめながらウロウロと歩き回った。

腕を後ろに組んだり、前に組んだり。

目だけが白く光っていた。

獣のようだった。

そうやって一晩中真っ白い布を見つめ続けた。

父の寝ていたシーツを。



5 朝



朝が来た。

青く、世界が照らされ始めた。

女は思った。

描こう。

パレットを取り出して絵の具を出す。

ウルトラマリンブルー。

惜しみなく使おう。

筆に取る。

シーツに近づく。

父の匂いがまだ残っている。

真っ白い画面に筆を置く瞬間は、

いつだって罪悪感が伴う。

最初の一筆は謝罪から始まる。

ごめんなさい。

描きます。

筆を、のせた。

横にスーッと引く。

紫を帯びた、深い青。

美しい。

ため息が出た。

この瞬間が好きだ。

さっきまでの罪悪感が消えていく。

描きはじめて良かったと思う。

もう一度筆に絵の具をとる。

今度はもっとたっぷりと。

筆をのせる。

そうして海が少しずつ形になっていく。

父の眠っていたシーツ。

何度も洗って、薄くなったシーツ。

きっと長くもたない。

いずれボロボロになって崩れるだろう。

でも、この布の上に海を描きたい。

ひたすら筆をおいていく。

惜しみなくウルトラマリンブルーを使う。

描いているうちに、

日が完全に昇ってきた。

風が吹いて、布が揺れる。

波の音が聞こえる。

遠いはずの海の匂いがする。

足元に砂浜を感じる。

海を感じる。

女は目を閉じた。

一面の海が広がっていた。

一隻の船が浮いていた。

海を越えていく船。



6 海を越えるブルー



瓦礫と化した灰色の港。

一人の少女が歩いている。

漂着したコンテナを見つけた。

荒らされた後だった。

中のものを引っ張り出す。

やぶれたノート、折れた写真、しわしわになった本。

そして巻かれたシーツ。

少女はシーツを広げた。

海だった。

深い青だった。

少女はしばらくそれを見つめ、

それから丁寧に巻いて抱えた。

瓦礫の道を、少女は再び歩き出した。











終わり

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海を越えるブルー 理宇 @riuriuriu

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