勇気はここに

幸まる

神様の居場所

「クマ雄太〜、クマもイモムシ食べるのかよ」


くすんだ空色のランドセルを、後ろから二本の傘の先で突付かれている男子を見つけて、初美はつみは大声を出して駆け寄った。

「ちょっと、あんた達、やめなさーい!」

「ヤベッ、初美だ!」

傘を持っていた男子二人が、急いで逃げて行く。


四年生の初美は、走り去る二人を睨み付けた後、道路の端で小さくなっている子の側に寄って、顔をのぞき込んだ。


雄太ゆうた、大丈夫?」

「はっちゃん、うん、大丈夫だよ。ありがとう」


雄太はそろりと顔を上げて、初美に笑顔を見せた。


小さくなっていた雄太は、実は小学三年生にしてはとても大柄で、むちっと肉のついた足や腕は太い。

丸めていた背中をほんの少し伸ばして頭を上げると、それだけで初美より背が高かった。

背筋を伸ばして胸を張れば、大抵の同級生は見下される形になるのだが、いかせん彼はいつも大きな身体を丸めるように猫背気味で、その様子がクマのようだと、“クマ”と呼んでからわれることも多かった。

名前が「熊田 雄太」だから、というのも理由ではあるが。



「今日は何でからかわれてたの?」

「この子、見つけたんだ」


ランドセルを払いながら初美が尋ねれば、雄太は何かを包むように丸めていた両手の平を開いて見せた。

そこにいたのは黒いイモムシ。

尻尾にアンテナみたいなものが立っていて、ピコピコ動かしている。


「かわいいでしょ? 放っておいたら車道に出て踏まれちゃうと思って、移動させてあげるんだ」

「そしたら、からかわれちゃったの?」

「うん。でも、この子が踏まれなくて良かった」


雄太は、道路脇の雑草がたくさん生えている所にイモムシをそっと降ろした。

からかわれたことも、傘の先で突付かれたことも、ちっとも気にしてないみたいにニコニコして。   

初美はぐっと唇を噛んだ。


雄太はいつだって、誰にだって優しい。

優しすぎて、からかわれても怒らないし、突付かれても黙って我慢している。


だけど、そんなのはひどいと思う。

本当の雄太は、とっても強いのに。  

優しいだけじゃなくて、とっても強い男の子だって、初美は知っている。




雄太が初美の住むマンションの隣に越してきたのは、三年前の三月。

新年度から初美は二年生になる時で、雄太は一歳下で、同じ小学校に入学することになっていた。

二年生になってお姉さんになる気分だった初美は、雄太が入学式を終えて初登校する日から、色々と世話を焼いた。

雄太も初美を「はっちゃん」と呼んで懐き、二人は幼馴染さながらに仲良くなった。



それから二年半経ったある日のこと、初美は短いスカートで登校した。

初美達の学校に制服はなく、露出の少ない動きやすい服装という指導しかない。

その為、普段はズボンで登校していたのだが、買ってもらったばかりのスカートが嬉しくて、履いて行ったのだ。

そして、いつも通り昼休みに校庭で遊んでいる時、遊具に引っ掛けて裾を破いてしまった。


その日の午後は、散々だった。

同級生の男子から、「初美のパンツは黒!」と散々からかわれたのだ。

丈の短いスカートは、破けた所から中が見えてしまった。

下着が見えないように、スカートの下にはちゃんと一分丈のインナーパンツを履いていたが、それが見えたことで“黒いパンツ”と言われたのだ。

「あれは下着じゃない」と主張しても、恥ずかしいことに変わりはなかった。

スカートが捲れても大丈夫なように心構えしていても、実際見られてからかわれると嫌な気持ちになる。


体操服のズボンに着替えての下校中、同じクラスの男子に再びからかわれた初美は、唇を噛んだ。

普段は気の強い方なのに、何も言い返す気になれなかった。

お気に入りのスカートが破れて悲しいのと、見られた恥ずかしさ、からかわれる悔しさも混じり、気持ちはぐちゃぐちゃで、涙が滲む。


そんな時、大きな声が響いた。


「はっちゃんをいじめるな!!」


声の主は雄太だった。

どこで初美の失敗を聞いたのか、後ろから猛ダッシュしてきた雄太は、からかっていた男子に体当りした。

油断して転んだ男子の前に仁王立ちし、拳を振り上げる。

まだ三年生だというのに、雄太のその姿はとても勇ましかった。


その日、雄太が振り上げた拳は何に攻撃を与えることもなかったが、転んだ初美のクラスメイトは地面に手をついた時に手首を捻挫し、病院へ行くことになった。

雄太の母は、翌日雄太を連れてクラスメイトの家に謝罪しに行った。

それを聞いて初美は、雄太は悪くないのだと主張したが、雄太の母は曖昧に微笑んだだけで、受け入れてはくれなかった。



「お母さんは、僕がお父さんみたいになるんじゃないかって、心配なんだ」


雄太は初美にそう明かした。

雄太の両親が離婚したのは、父親のDV暴力が原因で、母親は雄太が他人に手を上げたことに極端に反応したのだ。


思い返せば、雄太は学校の体育の授業でも、いつも小さくなっていた。

身体を動かすことは楽しそうであるのに、自分から前へ前へと出てはいかない。

運動場でその姿を見つけても、隅の方で大きな身体を縮こめるばかりで、のびのびと身体を動かしているところを見たことがない。

それもこれも、大柄な雄太が思い切り身体を動かせば、クラスメイトの男子のように事故でも起きるという懸念からなのだろうか。


球技でボールを思い切り投げるのでさえ気を使わないといけない、そんな生活をどうして優しい雄太が送らなければならないのだろう。

雄太は父親にそっくりなのだと言うが、だからといって雄太が誰かに暴力を振るうようになるなんて、初美には少しも思えない。



しかし、初美には何も出来なかった。

雄太の母と雄太には、母子だけの世界がある。

父も母も揃っていて、三人で笑っていられる家がある自分に、一体何が言えるだろう。


本当の雄太は、優しいだけじゃなくて、大事な時には力を出せる、とても強い男の子だと思う。

だけど、雄太はいつも、身体を小さくしている。

そして、笑っているのだ。


初美はただ、それが切ない。





新年度が始まり、初美は五年生に、雄太は、四年生になった。

初美が学校の連絡通路を歩いている時、ふと掲示板に貼られたがポスターが目に入った。


『子供げんき相撲参加者募集』



「雄太、これ、参加しなよ!」

「ええ?」


帰宅後、学校からもらって帰ったプリントを手に、初美は隣の家に行って雄太に迫った。

“相撲”の文字を見て、雄太は眉を下げる。


「僕、無理だよ」

「無理じゃないよ、雄太は体格がいいし、きっと向いてるよ」

「でも、格闘技なんでしょ?」


やりたくない、とは言わない雄太を見て、初美はこの誘いが間違ってないと感じた。

雄太だって、本当は身体を動かす何かをしたいと思っているのだ。


「それだけじゃないよ。相撲って、神事でもあるんだって」

「神事って?」

「えっと…お祭り? 神様に、捧げるとか、祈るとか……ほら、『五穀豊穣を祈る神事が起源』って書いてるよ」


初美はプリントを指差した。


「神様に祈る為に始まったものなんだもん、ただの力比べなんかじゃないんだよ」

「そうかもしれないけど……」

「やってみようよ、雄太、きっと“まわし”も似合うよ!」


初美の勢いに押されたのか、雄太は結局縦に首を振って、数日後の放課後練習に初参加したのだった。




子供げんき相撲は、小学四年生から参加出来る、日本最大規模の小学生相撲大会だ。

各地域で予選が行われ、勝ち進んだ者達が全国大会に臨み、日本一を決める。


初美達の住む県では、地区予選の時期に合わせて募集がかかり、各小学校で臨時の相撲部が出来上がるようになっていた。

地域の町内会の経験者が指導に来てくれ、子供達に相撲の取組み方などを教えてくれる。



初美の小学校は、昔は相撲部があって年中活動していた為、運動場の隅には今でも土俵がある。

普段はブルーシートで覆われているそこは、今年の子供げんき相撲の為に、今は陽の光に晒されていた。


その日は初めての練習を見に、何人かの児童が土俵周りに集まっていた。

初美はその中に混じり、臨時相撲部員になった児童が体育館から出てくるのを見ていた。


放課後練習は、体操服の上から簡易スポーツ褌を着けて行う。

土俵近くまでやってきた雄太は、緊張した面持ちで、柔軟体操から始まる練習を言われるがままこなしていたが、やはり背を丸め気味に小さくなっていて、指導員と臨時顧問の先生に何度も注意されていた。


何日か練習を重ねても同じ調子で、変わらず数人の男子から「やっぱりクマだ」とからかわれたりもしたが、雄太は黙々と続けている。

それも雄太の優しさで、初美が勧めたから「やめたい」とは言えないのだろうかと心配して尋ねてみたが、「運動するのは楽しいから、地区予選が終わるまではやめないよ」と笑った。


やっぱり、雄太はもっと身体を動かしたい気持ちがあったのだ。

初美はそう思ったが、今以上に雄太がのびのびと動くことは出来ないのだろうかと、モヤモヤした。




「熊田くんは、相手を倒すのが怖いのかい?」


指導に来てくれている村田さんが、雄太の練習姿勢を見てそう言った。

村田さんは普段、中学校の相撲クラブで指導員をしている人だ。

年齢は六十を過ぎているが、今でもまわしを巻いて中学生相手に取組をするらしい。


ストレートに聞かれて、雄太は口籠る。

すると村田さんは雄太を土俵の側まで連れて行った。


「熊田くんは、相撲が神事から始まったって知ってるかい?」

「はい、少しだけだけど」

「そうか。相撲は色んな形で今に残されていて、スポーツとして楽しまれている面もある。それでも変わらないのは、土俵には神様がいるってことだ」

「神様が?」


驚いて雄太が見上げれば、村田さんは優しく目尻を下げて頷く。


「そう。神様は力士が土俵入りするところから全部見てるんだ。力士は皆、持てる力で精一杯取組む姿を神様に見て頂く。土俵で真剣に相手に向き合わないことは、神様にも相手にも、とても失礼なことなんだよ」

「見て頂く……」

「そうだよ。どんな人間も、まわしひとつだけを身に着けて、自分の身体と心だけで向き合うんだ。どんなに身体が大きくても、どーんと強くぶつかったら勝てるってもんじゃないんだぞ」


雄太は村田さんの話を聞きながら、大きく目を開いて土俵を見つめていた。



地区予選が間近に迫ってきたある日、村田さんと顧問の先生が体育準備室に平たい桐箱を持って来た。


「今日からは本番と同じようにまわしを締めて練習する」


箱を開くと、生成り色の長い布が折りたたまれてある。

帆布で出来たそれが、本番に使う“まわし”だ。

広げれば、長さは十二尺もある。


男子部員達は揃って水着一枚になった。

女子はTシャツと一分丈のインナーパンツだ。

本来、まわしは素肌に締めるものだが、近年は衛生面から、地区大会までは水着などのアンダーウェアの着用を推奨されるようになった。



村田さんが一人ずつ締めていく為、雄太はいつも通り柔軟体操をしながら待っていた。


「熊田くん」


順番が来て呼ばれ、顔を上げる。

雄太は最後だったようで、部員はもう一人もいなかった。

村田さんは、長いまわしを四つ折りにしながら、雄太に笑いかけた。


「最近、しっかり力を入れて取組めるようになってきたね」

「そうですか?」

「うん。他のことを考えずに、取組中は相撲のことだけ考えられるようになったんじゃないかい?」


雄太は頷いた。

土俵には神様がいると教えてもらってから、神様の前では我慢して俯いていてはいけない気がして、少しずつ顔を上げるようになった。


……我慢。


そうか、僕は、ずっと我慢していたんだ。

本当は、顔を上げて、大きく身体を伸ばしてみたかったんだ。

僕は僕だよって、お父さんとはきっと違うよって、自信はないけど、言ってみたかった。


雄太は初めて、無意識に押し込めていた自分の気持ちを自覚した。

誰にも言えなかったこと、自分でもよく分かっていなかったことが、土俵神様の前では見えた気がした。




まわしの端を渡された雄太は、村田さんに指示されて四つ折りにしたまわしの端を開き、二つ折りにした。

端を顎で挟み、胸の前から股へ垂らして陰部を押さえる。

股間を通る部分は八つ折りに整えて跨ぎ、長いまわしを背中へ回す。

後ろで村田さんが受け取り、雄太に背中でしっかり押さえるように言うと、そこから四つ折りに直して腹に巻き始める。


雄太は自分を軸にするように、右へ一周回る。


「子供げんき相撲の精神は、一に礼儀」


一周目にぴったり重なるように、もう一周。


「二に健勝」


ここで雄太が顎で押さえていた端を離して垂らし、その上から、三周目。


「三に勇気だ」


前に垂れて余った部分を整えて、もう一周回ると、村田さんは雄太が押さえていた後ろ部分をくぐらせて上へぐっと引いた。

身体ごと引かれないように、雄太はその場で上体を立てたまま腰を落とす。


自然と、目線が上向きになった。



「俯かず、胸を張り、土俵で君の勇気を感じておいで」


背中で結ばれたまわしを、村田さんが叩く。

固いまわしで固定された腰回りは、不思議と安定して、背筋がぴんと伸びるようだ。

雄太は大きく息を吸って、体育準備室を出た。


外はもう、夏を感じさせる気温だったけれど、素肌に触れる風はとても爽やかで、これ以上ない程に心地良かった。






地区予選の日、初美は市の武道場に応援に来ていた。


取組後、帰る支度をしている雄太に、初美は会いに行った。


「はっちゃん、応援に来てくれてありがとう」

「うん。雄太、カッコよかった!」

「へへ、負けちゃったけどね」


雄太は土の付いたまわしを軽く叩いた。


雄太は土俵入りからずっと、一度も俯いて小さくなることなく、胸を張って堂々としていた。

三回戦で敗退したが、とても晴れ晴れした顔をしている。


「負けたけど、カッコよかったよ、すごく……」

「はっちゃん!?」


初美が涙目で俯くので、雄太は焦って下からのぞき込んだ。

初美は急いで目を擦る。

そして、ずっと言いたかったことを口にした。


「雄太、あのね、あの日、ありがとう。とっても嬉しかった」

「あの日って?」

「スカート破れた日。ずっと、『助けてくれて嬉しかった』って、言いたかったんだ」


からかわれていた初美を雄太が助けてくれたあの日。

雄太の母の様子と、雄太の俯く姿を見て、助けてくれて『ありがとう』は言えたが、『嬉しかった』とは言えなかった。


ずっとずっと言いたかった。

優しい雄太。

優しくて、強い雄太に。



「僕も、嬉しかったよ。相撲を勧めてくれて」


雄太はにっこりと笑った。


「ありがとう、はっちゃん。僕、これからも相撲を続けるから」


そう宣言した雄太は、まわしを外したらまた猫背気味になっていたけれど、もう俯いて小さくなったりはしなかった。





《 終 》



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