パレード
飛び出した家の外、ずうんとそびえる山並みの上に
町で唯一自慢の星空が曇っていく。
暗雲、かと思えば、行燈の光のようなものがちらほら見えた。星の輝きよりずっと弱いそれはモヤのような、鬼火のような、不安を煽る揺らぎ方をしていた。
俺の足は、自然とそちらへ向かっていた。
「……っ」
「クロちゃん、大丈夫ですか?」
かたわらに佇んだクロが心配そうに顔を覗き込んで来る。颯爽といなくなったこいつは、俺が牛のいない牛車のような物に轢かれそうになって尻もちをついた途端に脇道から飛び出してきた。どこにいたんだよお前。
「なに今の……」
「朧車さんです。なかにお客さんを乗せてたみたいですね」
「お客さんて……、まさか妖怪?」
クロはにっこり笑って、大きく頷いた。
「あっほら! 降りてきました、ちょっとご挨拶してきます!」
「待って、俺を置いてかないで」
猫まっしぐら。クロは側道で尻をついたままの俺を置き去って、停止(停車?)した朧車の車体(身体?)から、ぞろぞろと出てきた者たちの元へピュンと駆けていってしまった。四足歩行の木枯らしだった。
諦めて、道端に体育座りをして小さくなる。
クロのしゃんと伸びた背中越しに、宵闇に浮かび上がる妖怪の姿を見た。
毛むくじゃら、百々目鬼、手足の生えた食器、二足歩行の獣。クロと違ってきっちり服を着ている。異形の者たちはさも人間かのように、互いに頭を下げたり言葉を交わしたりしていた。いやぁお久しぶりです、ってクロお前、初対面じゃないのかよ。
「……実はずっと前から妖怪になりたいって思ってた?」
「? どうしたんですか?」
挨拶を終えたクロが戻ってきた。
「いや……いつの間に本物の皆さんと知り合ってたんだろうと思って」
「ふふ。猫の世界は広いのですよ、クロちゃん」
「家猫だったくせに……」
そう、家猫だったのだ。家の外に出したこともほとんどない。黒い毛並みが外の闇にこんなに溶け込んでしまうなんて初めて知ったのだ。今にも輪郭を失うんじゃないかって、不安で。不安で。
言葉という輪郭を持った感情を、息をゆっくり吐いて誤魔化した。
目の前に立つ猫の、にこにことした無防備で愛くるしい顔。きっとこいつは俺の胸中なんて分かっちゃいない。ただの猫だったんだから。これから、変わっていくんだから。
「クロちゃん、わたし、他にも挨拶しなくちゃならない方々がいるんです。クロちゃんはこの後、どうしますか?」
「クロに着いていくよ」
「でも、妖怪の皆さんですよ。クロちゃん、怖いでしょう?」
「お前な……いつの話だよ」
おばあちゃん面してくるので、腰を上げたついでに抱き上げてやった。抵抗されたが、離してやるもんか。
「ほら、次は誰に挨拶すんの」
「鬼蜘蛛さんがいらっしゃってるのでそこへ行きたいです。見えますか? あの山のところ」
「もしかして山から降りてきてるでっかいモヤの話してる? あの黒いの? ほんとに? まじか……」
歩くたび、進むたび、町は俺の知らない景色を見せた。
対面した鬼蜘蛛は二階建ての家よりデカかった。存在感の圧に絶句している隙にクロは腕の中から抜け出て、ちょっとだけ緊張した声で挨拶をしていた。あの大きな牙の生えた大きな口……クロなんて飴玉みたいに食べられるだろうな。俺はさしずめ骨付き肉だろうか。
そんなことを考えるくらいには俺は気圧されていた。なんせ妖怪、どいつもこいつも見た目のインパクトが凄い。
「お前は可愛いままでいてくれよ」
「やっぱり怖がりですねクロちゃんは。皆さん優しいですよ」
ほら! と見せられた肉球の上に個包装のマシュマロが鎮座している。先程挨拶を交わした、付喪神の茶釜から貰った物だ。はだかの手足が生えた茶釜の中にはお菓子がどっさりと詰まっていた。
「妖怪もハロウィンにあやかるんだな……。いや、むしろ主役か? 妖怪も魔物みたいなもんか……」
「もう、なにもこちゃこちゃ考える必要ないのに。妖怪は楽しいことが好きってだけですよ」
金色を閉じ込めたビー玉の瞳が、俺を通って、夜空と町に向く。空はまだまだ暗く、町は徐々に静けさを取り戻そうとしつつある。中心で行われていた町内会の祭りはとっくに終わっている。魔法使いは帽子を脱いで、吸血鬼は棺桶の中で、眠っていることだろう。
外に出ているのは呑んだくれの大人たちと、妖怪たちだけだ。
終了しようとしている人の営みと裏腹に、百鬼夜行はこれから活況を迎える。
「楽しいこと、か。……なぁクロ」
「なんですか?」
「ハロウィンは楽しかったか?」
クロは、俺と繋いだ手にぎゅっと力を込めて、笑った。
「とっても!」
そうか。
……なら良かった。
尻尾はご機嫌に揺れている。右に、左も、ゆらゆらと。その根元はより深く、大きく裂けていた。クロはもう中途半端で不格好な妖怪モドキではなかった。
「お前が楽しいなら、それでいいよ。それがいい。俺も嬉しいんだ」
「わたしが楽しいと、嬉しいですか?」
「そうだよ」
「へへへ。じゃあ、クロちゃんの為に、わたしもっと楽しまないと! ですね」
にゃへにゃへ笑うクロを、どこかから呼ぶ声がした。
屋根の上に青白い光が二つ、三つ見える。
俺の目には火の玉しか捉えられないが、そこで酒盛りをしている妖怪たちがいるらしい。クロは前脚を振り返していた。
「行くのか?」
「はい。じゃあね、クロちゃん。さようなら!」
あっ、という間もなく、クロは俺の手をすり抜けてヒョイと地面を飛び上がって行ってしまった。可愛い三角耳は闇に溶けて、少し遅れて唐草模様が夜に消えた。
妖怪たちの盛り上がる声が聞こえるが、闇夜が目視を許さない。火の玉がぼんやりと視界を横切って、やがて遠くへ消えていく。妖怪のはしゃぐ声や物音は山々のざわめきに変わり、怖気を招く無数の気配は産毛をひと撫でして遠のいていく。
「おおい、クロ」
「……あれ、どうしてここに」
呑み屋で分かれた友人がそこにいて、俺へ片手を上げた。
猫耳をつけたままのそいつは、ばつの悪そうな顔をしてそばへやって来る。
「さっきは悪かったな。まさかクロが、死んじまってたなんて。無理に来させるつもりじゃなかったんだ」
「ああ。いいんだ、それなら」
深呼吸をして、クロが消えていった方向を眺めた。アスファルトの凹凸に月明かりが小さくこだましていた。
「ずっと受け入れられずにいたんだ。いっそ、クロが死んだのを看取った朝のまま、足止めくらっててもいいかなんて思って。……でもそれじゃ駄目なんだな。あいつの次の場所を、俺は喜んであげないと」
門出を喜んで、送り出してあげるんだ。クロがこれからを心から楽しめるように。自由に動く手足で、交わせるようになった言葉で、お前を認めてくれる仲間たちの中で、楽しいことを謳歌できるように。
妖怪になろうとしているお前を引き留めなくて良かった。たとえ俺の感じた寂しさや不安が次のハロウィンによみがえったとしても、さようならを言える。酒にまぜて飲み干してやれる。
「……飲みたい気分だ。付き合ってくれよ」
「しょーがねぇな。今日は徹夜だぞ」
「上等」
肩を叩かれ、並んで歩く。友人の頭から猫耳カチューシャをもぎ取った。ハロウィンは終わったんだ。
「って、今年も来たのかよ」
「ただいまです、クロちゃん。トリックオアトリート!」
「ははっ。楽しんでら……てオイ、まてまて、まさか後ろの全員分か?」
『黒猫の輪舞曲』/終
黒猫の輪舞曲 一野 蕾 @ichino__
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