第11話 白い残響

 夜が静かに溶けていく。

 窓の外では雪の名残が風に流れ、街灯の光を受けて白銀の羽毛のように舞っていた。神崎湊は、自分の掌の上で揺れる光を見つめていた。

 あれほど重くまとわりついていた“灰色”の感覚が、今はどこか遠くにあるように思えた。


 黎のことを思う。

 最後に見た彼の顔は、穏やかだった。まるで、長い夢からようやく目を覚ました子供のように。


「湊。……もう、いいんだよ」


 そう言った声が、まだ耳の奥に残っている。

 あの夜、黎は自分の罪をすべて吐き出すように語った。誰かを傷つけたこと、守れなかったこと、そして——“灰色の子”にすべてを委ねようとした自分の弱さ。


 湊は、彼の手を握り返した。

 その温もりが指の隙間から抜けていく瞬間、世界が音を失った。

 黎の罪も、苦しみも、そして彼が守ろうとした小さな光も、すべてが湊の中に沈み込んでいった。


 ——けれど、それでよかったのかもしれない。


 人は皆、どこかで誰かの痛みを引き受けながら生きている。

 それが見える形か、見えない形かの有形無形の違いでしかない。


 湊は学校の屋上に立っていた。

 春を迎える風が制服の裾を揺らし、街の遠くから新しい季節の匂いが優しく運ばれてくる。

 彼の胸の奥では、黎の声がまだ微かに響いていた。


『湊、もし僕がいなくなっても、きみは進めるよね。僕が灰になっても、きみの中には“白”が残るから』


 白。

 それはすべての色を飲み込み、すべてを赦す色。

 湊はゆっくりと目を閉じ、掌を胸に当てた。


 あのとき感じた罪の痛みは、もう恐ろしいものではなかった。

 人の想いを受け取り、形を変えて、生きるための糧にできるのなら——それは“呪い”ではなく、“祈り”になる。


 下校のチャイムが遠くで鳴る。

 屋上の柵の向こう、夕陽が街を茜色に染めていく。灰色だった空が、白へ、そして金色へと変わっていく。


「——黎」


 小さく、湊は呼んだ。

 風が優しく頬を撫で、髪を揺らす。

 誰の返事もないのに、なぜかその沈黙が優しかった。


 彼は、小さく笑った。

 けれどその笑みは確かに、あの日の黎と同じ笑みであった。


 ——灰色の子はもういない。

 けれど、“灰の記憶”は人々の中で形を変え、見えない祈りとなって残っていく。


 そして湊は、黎のいない世界を歩き出した。

 その背中には、誰かの痛みと、誰かの願いが静かに寄り添っている。


 灰の終着点を越えた先にあるのは、ただの“白”ではない。

 無数の灰を溶かし込んだ、透明な光。


 ——それを、人は希望と呼ぶのかもしれない。




(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

灰色の子 江渡由太郎 @hiroy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ