第10話 灰の終着点
夜の街は色とりどりのネオンが輝いているはずだが全てが無機質の灰色に見え、そして冷たい呼吸をしていた。
ビルの谷間を吹き抜ける風が、乾いた紙片を舞い上げてどこか遠くへと運んでいく。
街灯の下を歩く神崎湊の影は、どこか不安定に揺れていた。
湊の手の中には、黎のキャンパスノートが握られている。
その最終ページには、今まで読めなかった一文が、今夜になって浮かび上がるようにして現れていた。
「——灰の終着点は、“最初の罪”の場所にある」
その言葉を追うように、湊の足は自然とある場所へ向かって動いていた。
向かう先は、かつて黎と共に通った廃校舎。
町外れに取り残された、時間の止まった場所。
そこで、黎は最後の日、何かを残して逝った。
その“何か”が、今も湊の胸を締めつけている。
校舎の門をくぐると、空気が一瞬にして変わった。
静寂というより、音そのものが吸い込まれていくような感覚。時間と空間が重なり合ったような違和感。昔の記憶が眠る墓場のようにも思えた。
階段のきしみ、風のうなり、すべてが遠くなる。
懐中電灯を灯すと、壁に小さな文字が刻まれていた。
“赦されない者たちへ——”
黎の筆跡だ。
湊は息を詰め、教室の扉を押し開けた。
そこに、ひとりの影が立っていた。
——久遠司。
彼はすでに湊の来訪を待っていたかのように、
静かにこちらを振り返った。
「……来たね、湊」
「黎がここで……何を?」
久遠司はしばらく黙っていたが、やがて意を決したような表情を見せ壁に手を当て小さく呟いた。
「ここが、すべての始まりだよ。“灰色の子”を生み出した罪の場所——そして、黎の終着点だ」
湊は一歩踏み出した。
床には焦げたような跡があり、その中央に古びた銀の指輪が落ちていた。
黎が最後に持っていたもの。
「……あの夜、黎は僕を助けようとして、ここで——?」
久遠司は頷いた。
「そう。黎は自分の“灰”を君に渡した。本来、灰色の子は三人がひとつの痛みを分け合い、人の罪を循環させる存在だった。けれど黎は、その循環を断とうとした。つまり——自分の痛みを、君ひとりに委ねたんだ」
湊は頭を抱えた。
「それじゃ、僕が黎を……殺したってことになるのか?」
「違うよ。君は“生かした”んだ」
久遠司の瞳は、深い灰を湛えていた。
「黎は死の直前、こう言ったんだ——“これで、終わるかもしれない”って。けれど本当は、終わらなかった。君がその痛みを受け継いだから。黎の死は“終わり”じゃなく、“継承”だった」
湊の胸に、何かが崩れた。
涙ではなく、痛みそのものが溢れ出してくる。
「黎は……僕に何を望んでいたんだ?」
「赦しだよ」
久遠司の答えは、静かだった。
「黎は自分の罪を赦せなかった。君のことも、世界のことも。でも、君だけは赦したかった。だから、君に灰を渡したんだ」
湊は膝をつき、床の指輪を拾い上げた。
その冷たさは、あの日と変わらなかった。
だが、今は違う。
その重みが、黎との体温とともに感じられた。
「黎……僕は、まだ君を赦せない。でも、君が信じた“終わり”を、僕が見届ける」
その言葉と同時に、指輪が淡く光を放った。
光は床を這い、壁の文字に触れた瞬間、
教室全体が白い光に包まれた。
——黎の声が、聞こえた。
「湊、君がここまで来てくれてよかった。僕は君に“灰”を託した。それは罰でも救いでもない。ただ、人の罪を“受け入れる”ということ。それが生きるということなんだ」
光の中で、黎の姿が現れた。
透明だが、確かにそこに存在している。
湊は手を伸ばしたが、指先はすり抜けた。
「黎……!」
黎は微笑んだ。
その表情は、かつてのあの日のままだった。
「湊、君が苦しむたび、僕は君の中にいる。痛みを恐れないで。それが、僕たち“灰色の子”の祈りだから」
そして光は、静かに消えた。
教室には再び漆黒の闇が戻る。
湊は床に座り込み、指輪を胸に握りしめた。
久遠司はその隣で、静かに目を閉じた。
「これで終わったのか?」
湊の声は震えていた。
「終わりじゃない。でも、“灰”の連鎖はここで途切れた。黎の祈りが、君を通して叶ったんだ」
外では、夜明け前の風が吹いていた。
東の空が、かすかに明るみ始めている。
灰色の空に、淡い光が滲んでいく。
湊は立ち上がり、校舎の窓を開けた。
冷たい空気が頬を打つ。
黎の声が、風の中でかすかに囁いた。
——ありがとう。
湊は目を閉じ、ゆっくりと呟いた。
「黎、僕も祈るよ。君のために、僕のために。そして、まだ灰の中にいる誰かのために——」
夜明けの光が、彼の頬を照らした。
その光は、灰色から白へと変わっていく。
黎が願った“赦し”が、ようやく形を持った瞬間だった。
世界はまだ痛みに満ちている。
それでも湊は歩き出す。
黎の祈りを胸に、灰色の夜を超えて。
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