第20話 Le Clos

夜の風がやわらかく吹き抜け、

《Le Clos d’Ashiya(ル・クロ・ド・アシヤ)》のドアのガラスをかすかに揺らしていた。

秋の終わり、冷たい空気に混ざって、

どこか遠くから金木犀の香りが漂ってくる。


カウンターの上には、

磨き上げられたグラスがきちんと並べられ、

ランプの光がそれを琥珀色に照らしている。

マスター柏木誠は、

いつものように開店の準備をしながら、

窓の外の街灯をぼんやりと眺めていた。


Bill Evans「Peace Piece」 が静かに流れている。

ピアノの一音一音が、

まるで時の流れそのものをなぞるように、

店の奥まで染み込んでいく。


扉のベルがカランと鳴った。


「こんばんは、マスター。」


最初に入ってきたのは、高木悠介だった。

黒のコートのポケットに手を入れたまま、

少し照れくさそうに笑っている。


「今日は珍しいですね。お一人で。」

「はい。……たぶん、今夜はここに来る気がしてました。」


マスターは軽く頷き、

「では、いつもの赤ワインを。」と言ってグラスを取り出した。


続いてもう一度ベルが鳴く。

入ってきたのは 宮本紗季。

白いコートの襟に少しだけ雨粒が残っていた。


「あ……。」

高木がわずかに声を漏らした。

「こんばんは。」と紗季は静かに頭を下げ、

マスターに微笑みかけた。


「偶然、ですね。」

「ほんとに。」

二人は少し距離を置いて座った。


マスターは二人にワインを注ぎ、

「外はまた降り始めましたよ。」と窓の方を見やった。

雨粒がガラスに滲み、街灯の光をぼやかしている。


「今年は、よく雨が降りますね。」

紗季がつぶやく。

「ええ。でも雨が降ると、

 少しだけ時間がゆっくりになる気がします。」とマスターが答えた。


その後、次々に扉が開いた。


「やあ、まだやってたのか。」

小泉修二郎が顔を出し、

「ちょっと顔見せに。」と言って入ってくる。


「マスター、例のコニャックを。」

「ええ。ちょうどよく熟してますよ。」


そのあとには、川上祥子がふわりとFleur de Rocailleの香りを残して現れた。

「偶然ね、顔ぶれが。」

「ほんと、珍しいわ。」と笑い合う声がカウンターに広がる。


続いて、大山智也がジャケットの袖をまくりながら入ってきた。

「なんだ、同窓会でも始まってるのかと思いましたよ。」

その後ろからは 井上真理が、

「それなら私も混ぜてもらおうかな。」と笑って現れる。


まるで約束していたかのように、

《Le Clos d’Ashiya》の常連たちが次々に集まってきた。


店内には穏やかなざわめきが広がる。

それぞれが互いに軽く挨拶を交わし、

懐かしい顔を前に、自然と笑みがこぼれる。


マスターはカウンターの向こうからゆっくりとみんなを見渡し、

静かにグラスを並べ始めた。


「今夜は、特別な夜ですね。」


「なにか、記念日でも?」と川上が笑う。

「ええ。店を始めて、ちょうど十年になります。」


「十年!」

井上が驚いて声を上げた。

「そんなに経つんですね。」

「ええ。

 この店を開いたとき、

 まさかこんなにもたくさんの人に支えられるとは思っていませんでした。」


マスターは言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「十年前、僕は音楽を辞めていました。

 麻耶を亡くして、もうピアノなんて弾けないと思っていたんです。」


店内が静まった。

外の雨音が、遠くでかすかに響いている。


「でも彼女が言ってくれたんです。

 “あなたの演奏は、誰かの心を休ませる場所になる”って。

 その言葉が、この《Le Clos d’Ashiya》という名前の由来になりました。」


川上が、グラスを見つめながら小さくうなずいた。

「囲まれた庭……本当に、そんな場所ですね。」


「ここに来ると、少しだけ素直になれる。」

井上が笑った。

「私もです。」と紗季が続ける。


高木がグラスを持ち上げ、

「じゃあ、マスターの“庭”に乾杯を。」と言うと、

みんなのグラスが静かに触れ合った。


Bill Evans のピアノが、

雨音と重なりながら、

まるで店の空気をひとつに溶かしていく。


マスターはその音を聞きながら、

ゆっくりと視線を落とした。


――麻耶、君の言葉は本当だったよ。

 この場所が、誰かの心を休ませる場所になった。


心の中でそう呟き、

小さく目を閉じる。


夜が更けていくにつれ、

客たちは一人、また一人と席を立った。


「また来ます。」

「おやすみなさい。」

「マスター、十周年おめでとう。」


それぞれが静かにドアを開け、

雨の上がった芦屋の街へと帰っていく。


やがて店には、マスターひとりだけが残った。


針がレコードの最後の溝を回る。

ノイズが、まるで遠い潮騒のように響いている。


マスターは、

ピアノの前に歩み寄った。

そこには、麻耶が生前愛用していた小さな写真立てが置かれている。

彼は椅子に腰を下ろし、

そっと鍵盤に指を置いた。


最初の一音が、ゆっくりと店に広がる。

それは、どこまでも静かな音。

やがて旋律が形を取り、

「Peace Piece」と同じコードが、彼の指先から流れ出した。


扉の外では、雨上がりの空に月が出ていた。

光が窓の縁を照らし、

グラスの中の残り滴が淡く光る。


演奏を終えると、マスターは小さく息を吐いた。

「麻耶……君の庭は、今も人でいっぱいだよ。」


その言葉とともに、

彼はピアノの蓋を静かに閉じた。


店の灯を一つだけ残して、

扉の鍵をかける。


外に出ると、夜風が頬を撫でた。

遠くで、芦屋川の流れる音が聞こえる。


マスターは立ち止まり、

振り返って、静かに微笑んだ。


《Le Clos d’Ashiya》。

――囲まれた庭。

でもその庭の門は、いつでも誰かのために開かれている。


その夜、

芦屋川の上空に浮かぶ月が、

静かに店の屋根を照らしていた。

もう音楽は流れていなかったが、

誰もいない店の奥で、

まだピアノの余韻だけが、

やさしく揺れていた。

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Le Clos d’Ashiya – ひとりの夜に、灯る庭 – Simon Grant @ashiyagawa

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