後編



八日目。

部屋の空気が、少し重く感じた。

窓を開けても風は通らない。隣の建物の壁が、昨日より近くなったような気がした。

外の景色はいつもと変わらない。軽自動車、送電塔、鳥の鳴き声。

変わったのは、部屋の中だけだった。


スマホの通知履歴を見返す。

「『バナナは青い』を記録しました」

「『明日は昨日だ』を再生しますか?」

意味のない言葉に反応する通知。しかも、検索履歴には何も残っていない。

昨日、友人が話していた“ラーメンの広告”には、SNSや検索という“理由”があった。

俺の部屋には、理由がない。ただ話しただけで反応する。


試しに、何も言わずに歩いてみた。

足音が吸い込まれていく。

壁が音を飲み込むように、空気がわずかに粘つく。

息を呑んだ瞬間、スマホが震えた。


「沈黙を保存しました」

「再生しますか?」




背筋が冷えた。

言葉を発していないのに、記録されている。

俺の“沈黙”すら、部屋は聴いている。


九日目。

部屋に向かって言った。

「俺の声、誰が聞いてるんだ?」


スマホが震えた。


「『俺の声、誰が聞いてるんだ?』を再生しました」

「次の“あなた”を記録しますか?」




息が詰まった。

“あなた”とは誰だ?

一瞬、壁の向こうで、誰かが呼吸しているような音がした。

天井の間接照明が、心臓の鼓動に合わせて明滅する。

部屋全体が、呼吸している。


十日目。

部屋を出ることに決めた。

荷物はほとんどない。鍵をポケットに入れ、ドアに手をかける。

ドアノブは冷たく、僅かに脈を打っていた。

金属が、まるで生き物のように震えている。


その瞬間、スマホが震えた。


「記録は継続中です」

「次の住人は、あなたの声を聴きます」




ドアを開けると、外の空気は妙に軽かった。

部屋の静けさだけが、背中にまとわりつく。

振り返ると、照明の明かりがゆっくりと消えた。


俺は、何も言わず部屋を出た。

部屋は、最後まで静かに聴いていた。



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前編

https://kakuyomu.jp/works/822139837524850846/episodes/822139837526354604

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『聴いている』 わさび @wasabi-kt

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