第20話 祈り





 夜、家の灯がひとつずつ消えていく。

 眠りにつく人々の息が、静かな波のように村を包む。


 焔はひとり、庭に出た。

 春の風が頬を撫でる。

 かつて凍てついた雪の夜、雅の胸の中で感じた鼓動が、

 今は自分の胸の奥で、確かに生きている。


 空にはまだ満ちきらぬ月。

 その光が、地面の草を銀色に照らしていた。

 焔は手のひらをひらく。

 そこに、小さな灯がある。

 火でもなく、光でもなく、生きるということの温度。


 ——生きることは、燃えることじゃない。


 静かに灯ることだ。

 誰かの隣で、風に揺れながら。

 消えそうで、消えないまま。


 遠くの家から、笑い声が聞こえる。

 湯の沸く音、食器の触れ合う音。

 それらが世界の音楽のように響く。

 焔は目を閉じ、掌の灯を胸へ戻した。


「ありがとう」


 声にした瞬間、風がやわらかく頬を撫でた。

 まるで、世界がその言葉に応えるようだった。


 ——もう、祈る相手はいない。

 それでも祈りは消えない。

 祈りとは、生きることそのものだから。


 焔は空を見上げた。

 星がひとつ瞬く。

 その光が、自分の中の灯と重なる。


 ——生きていこう。

 何度でも、春の中で。


 風が頷く。

 そして夜は、やさしく、静かに更けていった。

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【BL和風幻想譚】遥か彼方 神田或人 @kandaxalto

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