第4話
■第七章 崩れる仮面(密約の爪)
沈黙。
篠宮の肩が、ゆっくりと落ちた。
白衣の下の手が、小さく震えている。
「……どうして、わかった」
葛城は淡々と答えた。
「俺も、昔あなたに診てもらいました。あのとき、あなたは優しかった。でも、どこか……終わっていた。」
篠宮は苦く笑う。
「終わっていた、か。……そうかもしれん。」
部屋の隅に、爪切りの光が反射している。
篠宮の視線が、そこに落ちた。
「私はね、もう何も残っていなかったんだ。
妻を失い、クリニックも潰れる。行政処分の通知が来ていた」
葛城のまぶたがわずかに動く。
ニヤリと笑う。
そっと、篠宮に耳打ちした。
「——過失致死で済む。
執行猶予がつくかもしれない。
その間に、俺が法人を立ち上げる。
戻ったら、また院長として迎える」
沈黙。
葛城は表情を変えず、ゆっくりと篠宮の視線を受け止めた。
「先生。これは“希望”の話ですよ」
「希望か……取引じゃないのか?」
篠宮の笑みが崩れ、泣き笑いのように歪む。
「私が罪を被り、君が法人を取る。
そして“爪切り”で証拠を消す。
完璧な連携だな。」
葛城は黙って篠宮に近づくと、そっと囁いた。
「……“罪を被る”??
あなたがそう思うなら、それでいい。
でも、私はあなたを守ったんです。
“生かした”んですよ。」
篠宮の目が、わずかに見開かれた。
「生かした?」
「ええ。罪を認めれば、すぐに終わる。
過失致死なら、3~5年もすれば戻れる。
その頃には、法人も整い、場所も変わる。
すべてが、新しくなる。」
葛城の声は静かで、どこまでも平坦だった。
警察官が部屋に入ってきた。
篠宮は抵抗せず、ゆっくりと手を差し出す。
去り際、ふと葛城を見つめ、かすかに微笑んだ。
「……約束だぞ」
「ええ。きっと、いい場所を用意しておきますよ。院長」
「あれ、葛城さん、篠宮となんの話してたんですか?
「最近流行ってる副業の話だよ」
---
■エピローグ 爪の下の取引
一週間後。
曇天の下、会社の屋上に二人の影があった。
「結局、俺は何も覚えていない」
里崎が呟く。
葛城は爪切りを取り出し、自分の爪を静かに切った。
パチン——金属音が風に溶ける。
「記憶は戻さなくていい。
過去を切り離せるなら、それで十分だ。」
「……先輩は、どうしてあの夜、あんなに早く来れたんですか?
位置情報、見てたんですよね?」
葛城は少し笑った。
「営業マンはね、取引のタイミングを逃さないものだよ」
「……取引?」
「いや、比喩だよ」
葛城はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をちらりと見た。
そこには新着メールの件名が浮かんでいる。
> 《医療法人篠宮メディカル・サービス 設立登記完了》
葛城は指先でスワイプし、画面を閉じた。
風が強まり、爪切りの刃が陽を弾く。
「……切れ味、いいな」
「“匠の和み”ですから」
里崎が笑う。
「そうだな。
でも——人の心まで切れるとは、思わなかった。」
葛城は爪切りを胸ポケットに戻す。
その仕草は、どこか祈りのようでもあり、封印のようでもあった。
「さあ、戻ろう。新しい季節が始まる」
二人の影が屋上の床に伸びる。
曇り空の向こうで、
光が爪先をかすめて消えた。
——終——
爪切り屋の訪問 奈良まさや @masaya7174
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