風に揺れる花束の物語

雨音|言葉を紡ぐ人

風に揺れる花束の物語

花屋で働き始めて三年。私、南美咲はもう、花の香りなしには生きられなくなっていた。

小さな花屋「Fleur」は、駅から歩いて五分のところにある。朝は会社帰りのサラリーマン。昼は主婦。夜は恋人たちが訪れる。毎日、どんな花が誰の元に届くのか。そんなことを考えながら、私は花を束ねていた。

その日も、いつもと同じように。

「いらっしゃいませ」

その男は、毎週火曜日の午後に現れた。いつも無言で、店内を歩き回り、何か悩むようにして、最後に同じ花を選ぶ。白いトルコキキョウ。五本。そして、かすみ草。

三年間、ずっとそうだった。

「同じ花で申し訳ないんですが」

その日も、彼はそう言った。声は低く、どこか疲れているように聞こえた。

「いいえ。毎週のご贔屓、ありがとうございます」

実は、その男のことを、私は少し知っていた。店に来る常連客の話で。彼の名前は三浦健。この街の総合病院の医師だという。毎週火曜日の午後は早めに診察を終えて、この花屋に来るのだそう。

「どなたにお渡しする花ですか?」

普通は聞かない質問だった。でも、そのとき、私の口からその言葉が出ていた。

彼は、一瞬驚いた表情をした。

「妻にです」

その一言に、私の胸が何か感じた。

「毎週、ですか?」

「そうです。もう四年間。妻が入院している病院に、毎週火曜日の午後に。妻が一番好きな花が、白いトルコキキョウなんで」

彼は、そう言って微笑んだ。でも、その笑顔には、深い悲しみがあった。

「奥さんのご具合が悪いんですか?」

「交通事故で、今は意識がありません。もう四年」

その言葉が、私の心を貫いた。

毎週火曜日。毎週同じ花。意識のない妻のために。

「いつもご利用ありがとうございます」

私はそう言うことしかできなかった。

それから、何かが変わった。

その男が来る火曜日の午後、私は特に丁寧に花を束ねるようになった。色合いにこだわり、かすみ草の量を調整し、リボンの色まで気にするようになった。

「今日は特に綺麗ですね」

三週間目の火曜日、彼がそう言った。

「妻も、喜ぶと思う」

意識のない妻が、どうして喜ぶのか。でも、その言葉に深く考えないようにした。

代わりに、花束が届く先を想像した。白いトルコキキョウ。かすみ草。そして、その男の愛情。

「また来週」

彼がそう言って出て行った時、私は初めて気づいた。

私は、その男に惹かれていたのだ。

毎週毎週、同じ花を選ぶその姿。意識のない妻に花を届ける、その一途さ。その人の人生のあらゆるものが、私の心を揺さぶっていた。

でも、それはどうしようもない気持ちだった。

彼には妻がいる。意識はなくても、彼の心はその妻にある。そのことは、毎週の花を見ていれば、誰にでもわかる。

ある日、私は自分の想いを友人の由美に打ち明けた。

「ばかなの?」

由美は言った。

「いや、別に。ずっと花を見ながら想う、ってのはロマンティックだけど。現実は違う」

「わかってます」

「ならいいけど。恋は、相手を選ぶことじゃなくて、諦めることもあるんだよ」

その言葉が、全てだと思った。

私が諦めるべき恋。それはそれで、美しいんじゃないか。心の中に留めておく、そういう恋もあるんじゃないか。

そう思っていた。

ある火曜日のこと。

いつものように彼が現れた。でも、その日は違った。

彼は花を選ばず、まっすぐカウンターに来た。

「今日は花束は要りません。かわりに、聞きたいことがあります」

「何ですか?」

彼は深呼吸した。

「毎週、この花屋に来ていて、気がついたんです。君が、毎週同じ花を特別に包んでくれることに」

私の顔が真っ赤になった。

「別に...」

「いや、ありがとう。本当に。あの花束を見ると、妻も、何か感じてるんじゃないか。そう思うようになった」

「医学的には、それは...」

「わかってます。科学的根拠はない。でも、君の心が込もった花を、妻に届ける。そうしていると、妻の表情が柔らかくなるんだ」

彼は、そう言った。

「だから、今日は君に、お礼を言いに来た。毎週ありがとう。君の優しさが、妻を、そして俺を支えてくれてる」

その言葉を聞いた時、私は泣きそうになった。

「実は」

彼は続けた。

「妻が、今朝目を覚ましたんです」

その言葉に、私は飛び上がった。

「本当ですか?」

「ええ。医者である俺も信じられなかったんですが。今朝、妻が目を開いた。そして、俺を見て、微笑んだ」

「それは...」

「幸せなことです。本当に。毎週毎週、届けてくれた花束。その花の香りが、妻の心を呼び戻したんじゃないか。そう思うんです」

彼の目に、涙があった。

「ありがとう。本当にありがとう」

その日、彼は花を買わずに出ていった。

私は、その場に立ち尽くした。

次の火曜日。

彼は来なかった。

その次の火曜日も。

一ヶ月が経ったとき、彼が現れた。でも、いつものように一人ではなく、女性を連れていた。

黒髪の女性。まだ少し弱々しい表情だったが、確かに生きていた。

「これが、君の花束が支えてくれた女性です」

彼はそう言った。

「ありがとうございました。毎週毎週、綺麗な花束を届けてくれて」

その女性、妻は、私に微笑んだ。

「白いトルコキキョウ。本当に好きな花です」

その言葉に、私は笑った。涙が出たけど、笑った。

それは、自分が望んでいた結末とは違うかもしれない。でも、それは正しい結末だった。

彼は、再び花を買うようになった。でも、今度は違う花だった。

赤いバラ。ガーベラ。トルコキキョウ。色とりどりの花を、妻のために選ぶようになった。

「今は、妻が色々な花が好きだって言うんです」

彼は、そう言って笑った。

「俺も、新しい花の選び方を学んでます」

その様子を見ていると、私は思った。

恋とは、自分が望むことじゃなく、相手を幸せにすることなんだ。

私の想いは、決して無駄ではなかった。

毎週毎週、心を込めて選んだ花。その花が、誰かの人生を変えたのだ。

半年後、私は仕事を辞めることにした。

理由は、新しい花屋をオープンするため。もっと大きな、もっと色々な花を置いてある花屋。

三浦医師と妻は、開店式に来てくれた。

「これからも応援させてください」

妻は、そう言ってくれた。

「これからは、色々な人の人生に、花が届く。そういう花屋になるといいですね」

その言葉に、私は決意した。

毎週毎週、目の前の客のために、最高の花を選ぶ。

たとえそれが、自分の望まない結末であっても。

花は、いつも風に揺れている。

固定されることなく、常に流動的に。

その花のように、私もまた、風に身を任せて歩もうと思った。

風に揺れる花束。

その花束が誰の元に届き、どんな物語を作るのか。

その物語こそが、私が本当に好きなものだったのだ。

新しい花屋で、今日も私は花を束ねている。

毎日が新しい物語の始まり。

毎日が誰かの人生を変える可能性。

そう思うと、手から力が湧く。

花の香りに包まれながら、私は笑う。

これが、私の人生の花。




あとがき


「風に揺れる花束の物語」を読んでくださり、ありがとうございます。

このお話は、「片思いの美しさ」について書きました。

恋愛というと、必ず両想いが幸せだと思われがちです。でも、時には、一方的な想いが、相手の人生を豊かにすることもあります。それは、悲しいことではなく、むしろ尊いことなのではないか。そう考えながら書きました。

また、このお話で重要な要素が「花」です。花は、言葉では言い尽くせない想いを、代わりに伝えてくれます。毎週同じ花を選ぶ行為。その中に込められた愛情。そして、その愛情が誰かの人生を変える瞬間。そういった些細だけど、素敵な物語があると思うのです。

もし、あなたが今、片思いをしているのなら。その想いが誰かを幸せにするかもしれません。ダイレクトな形ではなく、別の形で。そういう可能性もあることを、このお話が伝えられたら幸いです。

また、このお話が、あなたの周りの「当たり前」を、もう一度見つめ直すきっかけになったら嬉しいです。毎日の些細な優しさが、実は誰かの人生を支えているのかもしれません。

最後になりますが、このお話を読んでくださり、本当にありがとうございました。あなたの人生も、風に揺れる花のように、美しく流動していくことを願っています。

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