はじまりの宵

深山心春

第1話

 今は昔。

 日輪村には見上げるほどの大きな鎮守の楠がある。人間の大人3人が手をつないで囲んでも手に余るほどの太い幹に立派な枝を四方に伸ばし、眩しい緑の葉を豊かに繁らせていた。

 夜も更けた今は、大木の根元で楽しそうな声を上げてはしゃぎ回る子どもの影もない。鎮守の楠は夜を迎えてひっそりと佇んでいた。

「庄屋の娘を嫁にくれるって言ったのに、反故にされたって言うの!?」

 不意に苛立ちを抑えきれない少女の声が大きく響いた。それに応えるかのように、木々はざわめきをあげて風に大きく揺れた。

「そうは言っても柚木耶」

「ぐずぐずしている場合じゃないわよ、奈津野」

 柚木耶と呼ばれた少女はため息をつきながら、隣に座った少年の表情の乏しい顔をしみじみと眺めた。潤むような黒目がちの瞳を困惑したように伏せて、艶のある黒髪がまばらに薄藍の着物に落ちている様は、なんとも言えず風情がある。

 柚木耶は陽に透けたような色素の薄い髪をひとつに結わえて、薄紅の着物に真紅の帯をしめている。きつめの眼差しが、少女の性質を強く物語っていた。

 ふたり並んで森の鎮守の楠の立派な木の枝に腰をかけている。夜が深くなるにつれ、良く茂った葉の1枚1枚が淡く発光しはじめて、その葉をつつむように正円の明かりを灯す。柚木耶たちが足を揺らすと、光の葉が1枚枝を離れて、ゆっくり風に乗りながら舞い落ちた。石畳に触れるか触れないかの瞬間に、葉の光は消えてしまう。

 奈津野はまずい話をしてしまったとでも言いたげな深いため息を落とした。額に手をやると、腕の細い輪が澄んだ音を立てる。

 柚木耶はそんな少年の様子を見て、情けないとため息をつく。

「あんたね、ため息をついてる暇があったら呪いのひとつもかけてくるとか、その娘さんをかっ攫ってくるとか、男でしかも蛇神なら、それくらいのことしなさいよ」

 柚木耶も奈津野も人と変わらぬ姿をしているが、その本性は蛇だ。

 普段はあまり人間に姿を見せることはないが、関わろうとすれば造作もないことだった。

 叱り飛ばすようにそう言うと、奈津野はとんでもないと眉をひそめた。

「四賀村の未知矢の噂を知らないの? 未知矢は約束を破られたのを怒って娘さんを攫いに行ったんだよ。そうしたら札やら針やらで、退治されちやったじゃないか」

「あー……」

 そう言えばそんな話が一時、蛇神の中でもちきりになった。未知矢は温和な南方蛇神の中でも、特に優しい性質の若者だった。それがあれほどに怒るなんて、よほどのことがあったのだろうと皆で囁き合ったものだ。

 針は蛇神にとってもっとも恐ろしく禍々しいものだった。触る程度なら害はないけれど、刺されればその場所から少しずつ腐り始めて体は溶け落ちて行く。高熱と痛みに苦しみ抜いて、助かる術もない。怖いもの知らずの柚木耶でさえ、考えるだけで身が震えた。奈津野が怖がる気持ちもよくわかると納得する。

「本当に最近、人間も容赦ないわよね」

「そうだね」

 柚木耶の言葉に奈津野は素直に頷く。柚木耶はなんだか悔しくなって、奈津野に詰め寄って尋ねた。

「だけど奈津野。あんたの村の庄屋は約束したんでしょう? 雨を降らせる代わりに庄屋の娘さんを嫁にくれるって」

 奈津野は幾度か瞬きをして髪をかき上げる。

 少年は隣の白内村の蛇神で、遊び仲間のひとりだった。仲間内でもっとも綺麗な目をしていた。

「まあ、そう言っていたけれどね。別にどうでも――僕のところの庄屋さんは、家中にお札を貼って出てきやしないよ。そこまで嫌がっているのに、無理強いも悪い」

「なにを、お人好しなこと、言ってるのよ!」

 柚木耶は叱り飛ばすような大声を上げて立ち上がった。奈津野は珍しくびっくりしたように目を丸くして、柚木耶を見上げる。

「約束したんだったら、それを守らない方が悪いに決まってるでしょう!? ねぇ、どうなの、ちがう!?」

「それはそうかもしれないけど、だけどね柚木耶僕はね――」

 柚木耶は奈津野の話を最後まで聞かずに、手早く小枝を手折ると飛び下りた。すぐに風が少女の体を抱き、音もなく石畳に着地する。

 提灯代わりの枝を掲げると、奈津野の顔が遥か頭上に見えた。

「柚木耶、本当に僕はかまわないんだよ」

「知らない。先に宴に行くからね」

 奈津野の言葉に柚木耶はべーっと舌を出して、くるりと踵を返す。

 鎮守の枝葉は提灯になって、淡い光で闇夜を照らした。柚木耶は怒りながら、光の道を辿って長い石畳の階段を降りて行った。


 大和の国は主に4つの蛇神族にわかれている。

ひとつは強き北方蛇神、ふたつは叡智の東方蛇神、みっつは実直な西方蛇神、そして最後に柚木耶たちが属する南方蛇神だ。

 南方蛇神は性質の温和なこと典雅なことは他の蛇神の比にならない。季節の移り変わりを愛でることが、もっとも楽しみな一族だ。

 今夜も近隣の蛇神総出で、月を愛でる宴が開かれている。人間のいなくなった緑の野原に思い思いに座って煌々と輝く白い月を眺めては談笑し酒をあおっていた。

 柚木耶は数人の仲間たちと一緒に、鳥の卵酒を飲んでいる。それは甘く、とろけるようになめらかだった。

「良い月だねえ」

「ほんに。綺麗だねえ」

 のどかに月を見上げる仲間たちの中で、柚木耶だけがふくれ面をしている。仲間たちはそんな柚木耶の様子に、仕方がないなあというように眺めては笑いさざめき盃を交わす。

 柚木耶は南方蛇神の中でも少し変わっているかもしれない。おっとりとした仲間が多い中、白黒をつけずにはいられない勝ち気な性格をしていた。きっと祖先に北方蛇神がいたに違いないと柚木耶は思っている。

 柚木耶はまた、まだ幼い蛇神ながらもその力は強く群を抜いていた。その自信も、強気な性質につながっているのかもしれなかった。

「ねぇ、そう言えば、ふたつ向こうの山を越えた村の祠が壊されたらしいね」

 ふと思い出したというように、仲間のひとりが寝そべっていた顔を上げて言った。すぐに他の仲間が同意を返す。

「ああ、そうだね。俺も聞いたよ。ひとつ谷を越えた村でも、人間が狐の神山まで踏み入って来たそうだよ」

「私たちと親しく交流のあったのは遠い昔の人間だから仕方ないけれど」

 困ったものだねと、仲間たちは顔を見合わせため息をついた。

「1度、きっちり思い知らせたら良いのよ」

柚木耶は苛立ちをおさえきれずに、冷たい声で答えた。穏やかな仲間たちのおっとりとした会話にしびれを切らしたのだ。

 仲間たちはどうしたのだろうと顔を見合わせた。柚木耶の性質が強いのは承知しているが、こうもはっきりと人間への不機嫌な言動を聞いたことはなかったからだ。

「どんなに私たちが恐ろしいのか、ちゃんとわからせたら良いんだ」

「――柚木耶、ちょっと良い?」

 肩に手を置かれ静かな声に振り向くと、いつの間にか奈津野が後ろに立っていた。

「やあ、奈津野。久しぶりだね」

 奈津野は仲間たちの挨拶に穏やかに笑ってみせると、柚木耶の腕を引っ張って野の外れまで連れ出した。宴の輪から遠ざかると、奈津野は呆れたような表情を浮かべて柚木耶に向き直った。

「柚木耶、どれだけ馬鹿なことを言っているかわかってる?」

 しみじみとした口調で言われて、柚木耶はムッとして奈津野を睨みつけた。

「馬鹿なこと? 馬鹿は奈津野じゃないの」

「柚木耶が僕のために怒ってくれるのは嬉しいけど、本当に気にもしてないんだよ」

 奈津野は目に落ちる漆黒の髪をうるさそうに払いながら、深いため息をついた。途端に、柚木耶の片眉が釣り上がる。

「奈津野のためじゃないもの! どうして平然としているのかわからないだけ!」

「だって、怒るようなことじゃないだろう」

 理解できないという顔をして淡々と言う奈津野にますます腹を立てて、柚木耶は少年の向こう脛を蹴り飛ばした。

 痛みに足を押さえている奈津野を置いて歩き出す。柚木耶はあまりにも腹が立って、輝く月を思い切り睨みつけながら足音も高く宴の輪の中に戻って行った。


「奈津野のわからずや! 唐変木!」

 柚木耶はつぎつぎと文句を言いながら枝を蹴り、軽い身のこなしで枝から枝へと跳び移って行く。そのたびに少女の体は風を纏って、薄紅色の袖がふくらむ。色素の薄い長い髪は、さらさらと空に流れた。

 奈津野との付き合いは短いものではない。それでも奈津野が無口なせいか、表情が表に出にくいせいなのか、噛み合わずにもどかしさを覚えるときがある。

 口論のあと、柚木耶は奈津野と一言も口を利かないばかりか視線も合わせなかった。奈津野も奈津野でもう話しかけようとせず、静かに月を眺めていた。 

 理不尽だとわかっていても、そんな奈津野の態度にまた腹が立つ。柚木耶は宴を中座して、白内村へと続く道を翔けていた。

「えっと……奈津野の村の庄屋の家はどこだっけ?」

 柚木耶は跳ぶ足を止めて、鎮守の提灯を掲げて高い木の上から辺りを見回した。念じると提灯の灯りはますます燃えるように赤く輝き、遠く一里先までも照らし出した。

 広々と続く緑の田畑に、崩れそうな家々がぽつぽつと続いている。まだ青い苗は、風を受けて気持ち良さそうにそよいでいた。

「なによ、枯れなかったのは奈津野のおかげじゃないの」

 柚木耶は思い切り顔をしかめた。しばらく悪態をついてから、もう一度辺りを見回すと、村の奥に他の家々とは比べ物にならない大きな屋敷が見えた。 

「あそこか」

 柚木耶は低い声でそうつぶやくと、再び枝を軽く蹴って空に跳んだ。


 庄屋の家は真夜中もとうに過ぎたと言うのに、明々と篝火が燃えていた。その数は異様で、間を置かずに篝火が並んでいる。

 戸という戸はすべて頑なまでに閉じられて、札があちらこちらに隙間なく貼ってあった。

 柚木耶は庭の松の枝に腰掛けてそれを眺め、呆れてため息をついた。こんな弱い札では、足止めにもなりはしない。ほんの少し力を込めて念じるだけで、札は風に攫われるように次々と篝火の中に落ちて、すぐに焼け焦げた。

 屋敷を見据えて集中し、中の様子を窺う。

 戸を透けて座敷が見える。柚木耶の視線は、その部屋をゆっくりと移動して行った。


 困ったことになったと妻は途方に暮れてため息をついた。視線を向けると夫は一心に仏に祈りを捧げている。耳を澄ませば、小さな声でお助けくださいという声が何度も繰り返すのが聞こえた。

 夫は雨を乞う代わりに、村の外れで出会った蛇神に一人娘を嫁に出すと約束してしまった。その娘は何も知らずに許嫁の若者に嫁ぐ日を指折り数えている。幸せそうな笑顔の娘に、夫の約束など言うことはできなかった。娘が先ほど縫い上げた着物に目を落とす。

 娘は頬を染めて花嫁衣装を揃え、つい今しがた自室へと戻り床へついたばかりだった。

 約束を反故にした上、娘は他所へ嫁入りしてしまう。蛇神とてこのまま黙ってはいないだろうと、夫は頭を抱えているのである。祟りを恐れて祈るばかりの夫に、妻は再び深いため息をついた。

 ふと、なにやら息苦しい気がして伏せていた顔を上げる。不安に夫を見ると、夫もなにかただならぬものを感じたのか、忙しなく辺りを見回していた。

 この空間だけが切り離されてしまったような、心細さが胸を突く。心臓がひどく早く脈打った。

 おまえさま、と妻が声をかけるのと、夫がひざまずいて詫びはじめたのは同時だった。夫は板敷きの床に額をこすりつけるようにして、必ずおっしゃる通りに致します、と何度も繰り返した。

 妻がどうしたのかと問いただしても、夫は何度も何度も同じ言葉を繰り返すばかりで妻を見ようともしなかった。


「上手くいったみたい」

 柚木耶は松の枝から事の成り行きを見届けると、嬉しそうにつぶやいてそっと枝から飛んで離れた。

 上機嫌で田のあぜ道を歩いていく。鎮守の提灯を空で左右に振ると、光の道筋が描かれてきらきらと光が夜空に零れた。

「本当は娘を攫って来ようかと思ったけれど、お嫁入りが決まって幸せそうだったし……奈津野には供物で我慢してもらおう」

 不本意だけど仕方ないよね、と柚木耶は頷く。

 ふたつきの間、毎日供物を捧げれば許してやる。さもなくば末代まで祟ってやろうぞ――そう、庄屋にだけ聞こえるように囁いたのだ。

 効果はてきめんで、庄屋は紙のように白い顔をして震えていた。自業自得じゃないの、と柚木耶は肩を怒らせる。

「さて、と。私も早く帰って眠ろう」 

 そう言いながら、柚木耶は大きく伸びをした。

「柚木耶?」

 静かな声に、柚木耶は足を止めた。嫌な予感がして振り向くと、予想通りに奈津野が鎮守の提灯を片手に立っていた。喧嘩をしたことや、妙な場所で出会ってしまった気まずさに、柚木耶は視線を泳がせる。

 そんな柚木耶の様子に気づかないのか、奈津野はいつもと変わらず話しかけた。

「宴を中座して、こんなところでなにをしているの?」

「別に……奈津野こそ、なにをしてるのよ」

 そう尋ねると、奈津野は何を言っているのだと言うような表情を浮かべる。

「僕は自分の祠に帰るところだよ。ここは僕の村だからね」

「ああ、そうね。私もずいぶん遠くまで散歩に来ちゃったみたい。もう帰る」

 その言葉に奈津野はふうんとつぶやいて、手にしていた鎮守の提灯を差し出した。

「なに?」

 訝しげに尋ねる柚木耶の左手に自分の提灯を持たせ、右手から少女の提灯を取り上げた。

「じゃあね。おやすみ」

 素っ気ない挨拶をして歩いていく奈津野に、柚木耶は声をかけて呼び止める。奈津野は肩越しに、視線のみを寄越した。柚木耶は両手を大きく広げてみせる。

「明日、きっと新鮮な卵とかたくさん手に入るから。持っていってあげるね」

「――また、明日ね」

「うん、明日ね」

 柚木耶は挨拶を交わすと、背を向けて歩き出した。ふと、手元に視線を落とす。

 新しい鎮守の提灯は先ほどまでのそれよりも一回り大きく葉もよく茂っていて、明るい優しい光で闇夜を照らしていた。

 

 薄靄が立ち込め、辺りをひっそりと包んでいく。雲は急速に流れて通り過ぎた。夕暮れ色の空に、次第に夜の色が忍び寄りつつあった。

 柚木耶は鎮守の小枝を帯に差したまま立ち止まる。太陽がまだ空にある今、枝葉に灯火はともらない。

 視線の先には、丁寧に整えられていた供物があった。庭には木の台座がしつらえられ、その上に新鮮な鯛や卵、お神酒が置かれてあった。

「よしよし」

 柚木耶は満足そうに頷くと、供物の前に歩み寄った。顎に手をやって、どうやって持って帰ろうかと思案する。すべて一度に持つには、柚木耶の手には余った。

「とりあえず、卵は懐に入れようかな」

 そうしようと頷いて、柚木耶は手を伸ばした。卵をふたつ、そっと懐に入れる。

 ふいに柚木耶の背筋に戦慄が走った。

 柚木耶は振り向きざまに、後ろへ跳躍する。向かってくるそれに手を伸ばし、力を込めて薙ぎ払った。弾けるような音を立てて、それは地面へと突き刺さり、跡形もなく溶けるように消え失せる。

「くっ……!」

 柚木耶は身を屈めるようにして跳んだ。続けざまにぶつかってくる力を、両の腕を交差して防ぐ。薄紅色の袖が裂け、むき出しになった白い肌にも浅い裂傷を刻む。

 供物を載せていた台座を蹴り倒し、咄嗟に障壁を張って盾を作り身を伏せる。供物が落ちて卵が潰れる音や、相手の力が逸れる音が耳の近くで鳴った。

 これは柚木耶たち人外のものを縛る、人の力だ。こんな場所に不似合いなほどの呪力だ。旅の祈祷師が逗留したのだろうと、柚木耶は集中する側から見当をつけた。呪いの力は強く、ひとつひとつの言葉が鋭い刃になって飛んで来る。

 脅しすぎたかな、と柚木耶は舌打ちした。供物を捧げるだけで本当に赦してもらえるのか、疑心暗鬼に陥ったのだろう。

「本当に――だから、人間は容赦がない!」

 そう文句を言うと同時に、柚木耶は溜めた力を一息に放った。旋風が地を削り、相手の呪力を弾き飛ばしながら真っ直ぐに屋敷へと向かう。閉じられた板戸が吹き飛ばされ、細かな破片となって虚空に舞った。

「ここまでしなくても良いじゃない……!」

 2度、続けざまに風を放つ。

 ふたつの風は地を裂いて、唸り声を上げながら交差しひとつになると、いったん空高く上昇し、屋根を突き破るために急降下をはじめた。木片が激しい勢いで辺りへと飛び散り、屋根を穿った。

 相手の力は明らかに怯んだ。柚木耶はその隙をついて、松の枝に飛び移った。

 集中しようとした刹那、全身が一気に粟立つ。

 柚木耶には自信があった。それを裏付ける力も確かに持っていた。それでもまだ若く経験不足であること、不意を突かれわずかに動揺したこともまた事実だったのだ。

 引っ張られるようにぎこちなく目をやると、直ぐ側まで今までとは比較にならない激しく熱い呪力の矢が迫っていた。避けられない、と瞬時に判断する。それでも負けを認めるのは悔しくて、柚木耶は必死に目を瞑るまいとした。そんな意地も、空気を裂いてひた走る呪力の凄まじい迫力には到底抗えない。反射的に固く目を閉じてしまう悔しさに、血が滲むほどきつく唇を噛み締めた。

 ふいに、音がした。

 高く澄んだ音が辺りに響き渡ると同時に、眼前の恐ろしい気配が消失する。

「大丈夫?」

 驚いて目を上げると、覗き込むようにしてくる奈津野の顔がそこにあった。

 柚木耶は訳がわからないながらも、ゆっくりと頷いた。奈津野がほっと息をつく。

 奈津野は柚木耶の腕の下に手を入れて、支えながら立たせてやる。柚木耶はやっと危機が去ったことを理解して、あまりの安堵に体中の力が抜けそうになった。しかし膝の震えを隠して真っ直ぐに顔を上げる。

「だ、大丈夫に決まってるじゃない」

「そう。それは良かった」

柚木耶の強がりに奈津野は短く答える。手にしていた鎮守の小枝で恐ろしい勢いで向かってくる呪力を鮮やかに砕いた。柚木耶は信じられないものを見る思いで少年を見る。

「たぶんね、この人は庄屋さんに頼まれただけなんだろうけど」

 奈津野はそう言いながらも、小枝を持つ手首を捻る。空中を走る呪力は、まるで見えない壁に当たったかのように音を立てて弾き飛ばされた。

「わかってる。なんでそんなに落ち着いているの!? この人間たちはまた、約束を破ったのよ!」

 こんな時にも説教かと、柚木耶はむきになって声を上げ奈津野の着物を引っ張った。奈津野はそんな柚木耶の言葉も耳に入らないようだった。

 奈津野は考え込むように、わずかに首を傾げる。束ねていた黒髪がさらりと肩で揺れた。

「――だけど、さすがに少しとは言わず」

 奈津野は流れるような静かな動作で、小枝を目線の高さに掲げる。漆黒の瞳が、ふいに深く強い色をたたえた。

「僕にも怒る権利があると思うんだ」

「え?」

 なにがと聞き返す間もなかった。目も眩むような閃光が視界の端を貫き、凄まじい音が耳をつんざく。

 奈津野はその結果を確かめようともせず、柚木耶を片手に抱えると松の枝を蹴って空に舞った。

 柚木耶は呆然と、崩れ落ちた屋敷の一角が遠ざかるのを眺めていた。


「大丈夫? 柚木耶」

奈津野は鎮守の楠の枝に柚木耶を座らせると、そう尋ねる。柚木耶はまだ半ば呆然としながらも頷いて、奈津野を見上げた。少年は枝に膝をついて、なに? と表情で問う。

「あんたって、あんたって……本当は怖い性格なんだ」

「倒壊した屋敷は半分だし、まあ大丈夫じゃないかな……たぶん」

 奈津野の眉間にしわが寄っている。失礼だなと思っているらしい。

「なんで、あそこにいるってわかったの?」

「昨夜の柚木耶の態度を見て、おかしいと思わない方がおかしいよ」

 柚木耶の不思議そうな問いかけに答えたあと、奈津野は、わからなないと思ってたの? と逆に尋ねた。柚木耶はそっちこそ失礼ではないかと思ったが、口に出すのはやめておいた。

「――奈津野は意気地がなくて、仕返しとかしないんだと思ってたの」

 柚木耶はぽつりとそう零す。

「だから、代わりにやってくれたの?」

 柚木耶はその問には答えなかった。静かな沈黙が流れる。

 奈津野は懐から薬草を取り出し、柚木耶の治療をはじめた。練った薬草を腕に塗り止血する。やがて治療が終わる頃、少年は薬草を整えながら淡々と言った。

「異類婚はたいてい悲恋で終わるんだよ。いつだったか、鶴の娘も、狐の娘も、魚の娘でさえ、泣きながら戻って来たじゃないか」

「だけど旦那さんと幸せになった娘もいるよ。それに狐の娘が残してきた子どもは、ほとんど皆、立派に育って出世したし」

「それは知らなかった」

 奈津野は肩をすくめてみせる。そうして、ややうんざりとした表情で尋ねた。

「柚木耶はそんなに、僕が人間のお嫁さんを貰った方が良いと思うの?」

「そういうことじゃないよ……!」

 柚木耶は苛立った声を上げた。

「願いを叶えて貰ったのに知らん振りするなんて酷いよ……! 奈津野はあの人間の言葉を守ったのに。あいつらは奈津野をただの道具としか思ってないじゃない! そんなの酷いよ……!」

 悔しそうに一息でそう言って、柚木耶は目に涙をためた。

「柚木耶、だけど僕は……」

「奈津野は無口だし、わからないことも多いし、意外に怖いのもわかった」

 憮然とした少年にかまわず、少女は言葉を続ける。

「だけど、本当は、誰よりも優しいのに――」

「柚木耶?」

「奈津野がバカにされているみたいで、信用されてないみたいで、腹が立つじゃない。そんなの、許せないよ……!」

 唇を噛み締めてそっぽを向いてしまった少女は、少年が少し驚いたような表情を浮かべ、それからゆっくりと瞳を嬉しそうに細めたのにも気づかなかった。

 奈津野はそっと手を伸ばして、柚木耶の涙を拭った。柚木耶を真っ直ぐに見る、見たことのない奈津野の優しい表情に、柚木耶の頬に朱がのぼる。

 柚木耶は慌てて懐を探る。そこからひとつ卵を取り出して奈津野に差し出した。

「これしか、持って来られなかった」

「動かないで」

 奈津野は抑えた声でそう言うと、手を伸ばして卵の底についていた針を取り出す。柚木耶は鼓動が跳ね上がるのを感じて、血の気が引く。

「針……!」

「手が込んでるね。よっぽど僕たちが怖いみたいだ」

 奈津野はため息をついて、まるでなんでもないことのように針をふたつにへし折った。

 柚木耶は止めてしまった息をゆっくりと吐き出す。なあんだ、と気の抜けた小さな声を上げた。

「――本当に必要がないから、仕返ししなかっただけなのね」

「柚木耶に何かがあったら、仕返しをしていたと思うよ。現に半壊にはさせたし」

 奈津野は真剣な表情で、柚木耶を見つめた。柚木耶は慌てて目をそらした。おかしい、胸がどきどきと高鳴っている。

「……もうひとつ卵を奈津野に持ってきてたんだけど……あーあ、こっちは割れちゃった」

 ひび割れた卵の合間から、柚木耶の手に崩れた黄身が流れ出た。袖で拭こうとした手を止めて、奈津野は無事な方の卵を少女の手に乗せた。

「これは奈津野のよ」

「僕はこっちでいい」

 奈津野はそう言うと柚木耶の指先を優しく手にとる。顔を近づけるとそっと黄身を舐めて掬った。真っ赤になり、驚いて身動ぎもできない柚木耶に、奈津野は悪戯が成功した子どものように笑う。

「柚木耶、顔が真っ赤だよ」 

「……うるさい」

「ねぇ、少しは僕の気持ちに気づいてくれた? 僕がなぜ人のお嫁は要らないと言ったのかわかってくれた?」

 柚木耶はどきどきして、頬を赤らめこくりと頷く。いくら色恋に疎い柚木耶でもわからざるを得なかった。

 奈津野は柚木耶に頬を寄せて、見てご覧よと囁く。

「柚木耶と一緒じゃなければ、こうして一緒に鎮守の枝に座って綺麗な景色を見ることもできないんだよ」

 促されて奈津野が指さす方を見れば、重畳の山間に夕陽はゆっくりと落ちて、宵の空には無数の星々が浮かびはじめた。それを待ち焦がれていたかのように、鎮守の葉は高い方から低い方へと、流れるように淡い光につつまれてゆく。

 言葉もなく、その光景を眺める。

 風が吹いて木の葉を揺らす。鎮守の枝もやわらかに揺れて、光の灯った枝葉と枝葉が擦れ合うと、まるで風鈴のような涼やかな音を奏でた。

「あのさ」

「なに?」

 柚木耶のつぶやきに奈津野はやわらかに問い返した。

「迷惑をかけてごめんね」

「そんなことないよ。どうしてそんなこと言うの?」

 柚木耶は驚いて奈津野を見上げた。

「嬉しかったよ。僕のために怒ってくれてありがとう」

 奈津野は本当にやわらかに微笑んで見せた。滅多にないその微笑みを見て、やがて柚木耶にもゆっくりと笑みが広がる。そのままふたり顔を見合わせて微笑んだ。

 帯にさしていた鎮守の提灯を取り出して、手折った枝に返せば、たちまち枝と枝は元通りに結びついて風に吹かれはじめる。すぐに心地よい葉擦れの音に重なった。

 どちらからともなく、肩を寄せ合う。ゆったりと更けゆく夜を眺めながら、ふたりはいつまでもお喋りを楽しんでいた。(了)

 

 

 

 


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