後編


 試験期間が明けたある日、瀬野から連絡が入った。


「――ひまりが」


 言葉に詰まる。瀬野の嗚咽交じりの声に、私の頭は混乱した。ひまりが――。その先の言葉を口には出来なかった。スマホのメッセージアプリを開く。ひまりからのメッセージは数時間前、いつもと変わらぬ調子で書かれていた。いつもと変わらぬ、会いたいという文字だけ。

 昨日は、どうしていたっけ。アルバイトの帰りにメッセージをみて……。私はどう思ったっけ。

 思い出したくない。思い出しちゃいけない。私は考えるのやめていた。バイトを休んで、私は家に帰り、ベッドへと潜り込み、逃避した。


「ひまりが、死んだ」


 それからのことはあまりよく覚えていない。瀬野に連れられてひまりの実家に行き、告別式に出た。学校にも通っていないひまりの葬儀の参列者は少なく、親族と数人の友人がいるだけだった。皆、儀礼的に花を手向け、何も考えられない頭で焼かれるひまりを見送って、気が付けば私はひまりの部屋の前に瀬野と二人でいた。


「――持って帰るの、それだけでいいの」


 玄関先にあった紙袋を私は持ってきていた。中には初めて会った日に買ったしめ縄が入っていた。


「……持っていくって約束したから……」


 季節は冬に入れ替わろうとしていた。深く重たい曇りの空は低く、私の背中にのしかかるみたいに影を落とす。

 瀬野と二人してひまりとよく一緒にいた公園に赴き、ベンチに並んで座った。


「あんまりさ、思いつめないでね。こういっちゃなんだけど、誰かのせいってわけじゃないからさ」

「…………」

「間が――悪かったんだよ。別にひまりだって、死にたくて死んだんじゃないだろうしさ。なんていうか、ずっと未遂で終わってたことが、未遂で終わらなかっただけなんだよ」


 瀬野が煙草を取り出して火をつけた。私は細く立ち昇る紫煙を見上げて目を細める。私はひとつ頷いて、また俯く。

 ポケットに手を突っ込んで、ついぞつけることのなかったシルバーリングの箱を取り出す。箱を開くとあの日のままの指輪がきらりと光っていた。


「――瀬野はさ。何で私にひまりを紹介したの」

「気が合うと思ったから……かな」


 どうだろう。見た目も性格も正反対だったように思う。奔放な彼女ときっちりしたい私。ドライな私とウェットな彼女。正反対だからこそかっちりハマっていたのだろうか。


「斎藤はさ。かっこいい女じゃん。見た目も仕草も。ひまりが憧れた姿だったと思うんだ。だからあいつもすぐに斎藤を気に入った」

「憧れた……男に産まれたかったって」

「あいつは自分が一番、自分を女だってわかってたよ。だから女でいたくなかったくせに、女であることを無理やり飲み込んでちぐはぐになってた。自分を嫌って嫌って嫌いぬいて」


 瀬野はベンチから立ち上がって、煙草を携帯灰皿に圧しつけて目元を拭った。


「馬鹿だよ。周りにどれだけ愛されても届かないんじゃ意味ないのにさ。自分を許せないくらい傷つけてばかりで」

「…………」

「――斎藤……ごめんね。私、あいつのことあんたに押し付けて……」


 私が顔をあげると瀬野は背中を向けたまま、強く頭を掻きむしっていた。息を荒く震えるように頭を抱えて、自分を落ちつけようと両手で身体を抱きしめていた。


「帰るわ……落ち着いたらまた連絡する」

「うん……瀬野も――あんまり自分を責めないでね」


 瀬野が振り返り、私の眼を見てばつ悪そうに視線を逸らして、小さく頷いた。


 瀬野を見送り、一人残されて、私はひまりがそうしたように、ベンチの上に立ってみた。いつもと違う視線の高さに少し不思議な気持ちになる。


「――男の子の視線をみたかったのか。ひまりは」


 ベンチの上から私を見下ろしていたひまり。その視線から何をみていたのだろう。真似をしてくるりと回る。そこで踊って何を考えていたのだろう。

 私は何もわからずに腰を下ろして、足元を見つめる。


 どうして、なんて理由はないだろう。昔からずっとひまりはああだったと瀬野はいつか言っていた。どれだけ一緒にいても耐えられない孤独を抱えていたという。これまでも何度か未遂で終わったことが、たまたま今回、成功してしまっただけだ。

 私はため息を大きくこぼして立ち上がる。

 気休めにもならない言葉を聞き流して、私はひとりで公園をぶらぶらと歩く。目を瞑れば、軽やかなあの足音が耳に蘇る。手を握れば、細い手の感触が思い出される。全て記憶に残っているのに、全て思い出せるというのに、それらすべてが、もう失われたということだけが、私には受け入れられない。


「――ひまり」


 名前を呼ぶ。返事はない。涙も零れない。まだなんの実感もなかった。私は指輪を箱から出して呟く。


「あんたさ……なんで死んじゃってんの?」


 私はあの日渡された指輪を中指に通しながら聞く。初めて通した指輪はひんやりと冷たい。


「あんたさ。どんな気持ちでこれをくれたんだ」


 ――どんな気持ちで死ぬ準備をしたんだろう。脳裏に、ベッドの縁に縄をかける彼女の姿が思い浮かんだ。


「ねぇ、ひまり。あんたはさ。ほんの少しでも私のこと考えなかったのかな」


 死ぬ準備をしている間に、ほんの少しでも私のことを考えてくれたら、思いとどまってくれただろうか。

 首に縄をかけるとき、私のことを考えてくれなかったのだろうか。


「ねぇ。ひまり……」


 胸の奥がちくりと痛んだ。私はどうしてあの日、一緒にいてやらなかったんだろう。あの子よりも自分を優先してしまったんだろう。こうなってしまうくらいなら、倒れてでも傍にいればよかった。


「指輪くらい、つけてあげればよかった」


 もっと一緒にいてあげればよかった。ご飯をつくってあげればよかった。一緒に、寝てあげればよかった。してあげたかったことばかりが頭に浮かんでは消え、その度に胸がどんどんと叩かれるみたいに痛んで、気付けば開いた手のひらにぽたぽたと雫が落ちていた。




 年が明け、私はひまりの家から持ち帰った正月飾りのしめ縄を持って神社に来ていた。どんど焼きの炎が立ち昇る櫓に、ひまりのしめ縄が投げ込まれ、たちまちに灰へと変わっていく。焼ける匂いを嗅ぎながら、私は天に上る煙を見上げて、空を見つめた。

 ひまりを送ってやれるような気がして、私は胸に手を当てて目を瞑る。

 ちょうど一年前、大晦日に出会って嵐のように逢瀬を重ねて、そして私たちは別れた。私の心の中にはこんなに強く彼女は残っているけれど、結局、彼女の心の中に私はどれくらいいたのかわからずじまいだった。


 ふたり並んで料理をしたあの日、肩を寄せ合い心を通わせたあの時、きっとあの時から私はあの子が好きだった。


「片思い……だったんだろうな」


 ふとしめ縄を入れていた紙袋の中でカサっと音が響いた。中を覗き込んでみると、きらきらと光る銀色の輪っかが目に飛び込んで来た。


「……ひまり?」


 手を入れてつまむ。私のリングより一回り小さな指輪。ひまりの……指輪。

 私は唇を噛んでその指輪を見つめる。


 死の準備をするひまり。ベッドの縁に縄をかけ……。

 指輪を外して、しめ縄を片付けた紙袋へ入れた。私の涙が袋の中へとぽたぽたと落ちていく。

 重なるように、ひまりの泣き顔が頭に浮かんだ。


「ひまり……」


 ひまりは最後のとき、私のことを考えていたのだろうか。私のことを考えて、この指輪を外したのだろうか。


(――ひまりは我慢するから大丈夫だよ)


 耐えきれない衝動のなか、ひまりは私を想っていたのだろうか。想いながら指輪を外したのだろうか。

 私の何もかもを持って行ってしまわないように。


「――我慢しないでよかったんだよ」


 私は呟くように言った。


「我儘をもっと言ってよかったんだよ。一人で抱えなくてよかったんだよ」


 記憶の中のひまりが困った顔をして笑った。私は震える手で、ひまりの小さな指輪を小指に通した。

 中指に嵌めた自分の指輪を薬指に嵌め直し、隣同士で輝く指輪を空に掲げてみせた。


 見えているかな。届いているかな。私の大好きな人。空の向こうの星の1つになれただろうか。そこで私を見守ってくれているだろうか。

 私はひまりにそう笑いかけ、ぐっと手を握り込んでポケットへ突っ込んだ。


 

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指輪を二つ並べて 佐渡 寛臣 @wanco168

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