指輪を二つ並べて

佐渡 寛臣

前編

 白んだ空に手を翳して、瞼を細くする。まだ滲む視界を拭って、私は薬指と小指に並んだペアリングを見つめた。あの子が――ひまりがそうしていたように空を見上げた。

 眠れない夜に怯えていたくせに、誰よりも夜の訪れを望んでいたひまり。男の子に産まれたいと願いながらどうしようもないくらい女の子だったひまり。

 甘え上手なひまり。いつも悲しい笑顔を見せたひまり。

 記憶の中、彼女と二人並んだキッチン。

 私は空を掴むように、ぐっと手を握ってポケットに突っ込む。白い空の向こうの星を想像して、私は目を閉じた。




 初めてひまりに会ったのは、大晦日のことだった。大学の女友達――瀬野に連れられて、公園で待ち合わせをして現れたのがひまりだった。約束の時間をとうに過ぎて、私たちが冷めた缶コーヒーを飲み終わるころに彼女はやってきた。

 白のガーリーなリボンタイのついたコート。サイドハーフアップにまとめた髪。派手めな化粧に甘い香水の香り。そして何より、細い身体が印象的だった。


「遅いぞ」


 瀬野が腕時計を指さして言う。友人の雑な物言いに私はぎょっとして目を丸くする。


「急に来る方が悪いじゃん? こっちだって準備があるんだから」

「いつも適当なカッコで出てくるのに」

「え、だって女の子連れてきてくれるって言ってたじゃん。初対面でそれは無理だって」


 目を細めて、私をちらりと見て微笑む。公園の街燈の光がきらきらと反射するみたいに、その目を煌めかせ、私は同性なのに思わずどきりとするくらい、彼女は私に妖艶な笑みを送ってきた。私はぎこちなく笑みを返してぺこりとお辞儀をする。彼女はひらひらと手を振って微笑む。

 今にして思えば、そのときから彼女は人の心に入り込むのが上手な女の子だった。その態度、その仕草1つでなんでも許してしまいたくなるような、そんな子だった。

 やれやれ、と瀬野は呆れた様子でひまりを許し、初めましての挨拶もほどほどに、私たちは神社に向かった。


「斎藤さんって、カッコいい感じだね」


 神社への道すがら、ひまりが私に言った。かっこいい? そう聞き返すとこくこくと頷く。


「背も高いし、声も低くてかっこいいよ。羨ましいって思うもん」


 手を伸ばして私の頭にかざしてみる。頭1つ分くらいの身長差が私たちにはあった。


「羨ましいって……ひまりさんの方が女の子らしくっていいじゃない」


 そんなこともないよ、とひまりはほんの少し口角をあげるだけの笑みを浮かべた。口元は笑っていたけれど、その目はどこか悲し気で、そんな表情に私の胸はずきりと痛んだ。私が言葉に詰まるのに気付いたひまりは驚いた表情で、慌てて口を開いた。


「ごめんごめん、ないものねだりだよね。私は斎藤さんみたいに背は伸びないだろうし」


 繕うような言葉を並べて、ひまりはあははと大げさに笑って見せる。気を遣わせてしまったと私は何とも言えない気持ちになりながら、先を駆けていく彼女の背を追った。


「――あいつ、男に産まれたかったんだって」


 不意に瀬野がそういった。


「あぁ。悪いこと言っちゃったな」

「あんな恰好しながら説得力ないけどね。地雷ってほどじゃないから、気にしないで」


 瀬野にフォローされながら、私たちは初詣に賑わう行列にもまれて、参拝を済ませた。特に願い事を決めていなかった私は、勉強のことと並べて、隣で手を合わすひまりという子のことを考えていた。コートの裾から伸びる細い手足。ちゃんと食事をとっているのだろうか。


「お参り、なんてお願いしたの? 瀬野はどうせ勉強でしょ?」

「――なんだい、悪いかい? こう見えて私たちは優等生だからね」

「じゃあ、斎藤さんも勉強?」

「……うん、まぁそんなところ……かな」


 話を振られて、思わず言葉を濁す。勉強のことよりも、ずっと長くひまりのことを頭に浮かべていた。初対面だというのに、私はどうしてこんなにも彼女のことが気になるのだろうか。


「あ、歯切れ悪い~何か他のお祈りしてたねこれは」


 ひまりが瀬野を突っつきながら私に笑みを向ける。


「へぇ。そうなの? クールビューティ斎藤が珍しい」

「クソダサいあだ名やめてよね。そういうひまりさんは何をお願いしたの」

「んっとね。星になりたいってね。願ったのよ」

「何それ。メルヘンか」


 瀬野がくすくすと笑う。笑われてひまりは頬を膨らませてぶいとそっぽを向く。


「そうだよ。星になれたら、いつもみんなを見下ろしていられるでしょ」

「見下ろすのかよ。見守るじゃなくて」

「まちがえた。見守るのよ。女神みたいになって」


 そう言ってひまりは大きく笑った。私もつられて笑うと、ひまりは嬉しそうに目を細めた。女三人寄ればかしましいとはよく言ったものだ。


「――あ、お守り買っていこうよ。破魔矢としめ縄も」

「全部買うじゃん。しめ縄まで買うの?」


 瀬野の言葉にひまりは頷いて、頬を掻いた。


「悪いの、もう入ってこないようにさ」

「――魔除けになるっていうもんね。私も買っていこうかな」

「斎藤まで……信心深くなっちゃって」


 私たちはお揃いでお守りを買い、そうして明け方までだらだらと一人暮らしのひまりの家にお邪魔した。私は帰宅後、玄関にしめ縄を飾ろうとしたら、母があらかじめ買ってきていた。私の分は仕方なく勝手口の方に飾ることにした。




 花見の季節を過ぎて、夏前になると、瀬野に恋人ができていた。それを境に、私はひまりと二人で会うことが急激に増えた。日が沈み始めた頃、大学の帰りには彼女の家に寄ることが私の日課になりつつあった。いつものようにひまりのアパートに転がり込み、ひまりが出かける準備をするのを待つ。いつだって彼女は時間にルーズだった。

 この日も、瀬野は彼氏と会うため、私はひとり、ひまりの家にやってきていた。


「喧嘩でもしたの?」

「――違う違う。瀬野の彼氏に会うのが嫌なだけ。どうせろくなことにならないからさ」


 ひまりはそう言って、口紅を塗って馴染ませる。鏡の前で顎を引いて、そうして一番可愛い顔を確認する。散らかった彼女の部屋、準備を終えるのを待ちながら、私はスマホを触って時間を潰す。いつもの時間、いつもの日常。相変わらずひまりは時間にルーズな割に、入念に顔を整える。


「ろくなことって?」

「男のほうが勝手に私に惚れるのよ。前にもそんなことがあって、瀬野と喧嘩になったからさ。だから……二の足は踏まない?」

「同じ轍は踏まない」

「それ。――だからしばらくは瀬野とは遊ばないのよ」


 ふぅんと私は相槌を返す。


「――冴子が付き合ってくれて助かってるよ。私、一人じゃ駄目だからさ」

「うん」


 そうだろうね、という言葉を私は飲み込んだ。ベッド脇をちらりと見ると、コンドームの箱が無造作に転がっている。彼女なりの自衛の道具。彼女なりの生き方に私は文句をつける立場にはない。けれど複雑な感情を私はどうしたって抱いてしまう。

 嫌な気持ちになって、ひまりを盗み見る。

 キャミソールから伸びる、白い腕。そこに見える平行につけられた無数の傷。ひまりの痛々しく思えるアームカットの傷痕。

 事情を聴くこともできずに、私は視線を再びスマホに落とす。自傷行為をしているらしいというのは瀬野からも聞いていたが、本人が事情を話したがらない以上、踏み込むこともできはしない。

 けれどそれが彼女なりの慰めの方法なのだろうと、わからないなりに理解するしかなかった。その2つの行為がどちらも共通して自分を傷つける行為だったとしてもだ。

 そんな風に悶々としていると、化粧を終えたひまりが髪を下ろして、ふと思い出したように紙袋を手に取った。


「そだ。これあげよって思ってたんだった」


 手渡されて中身を見てみると、そこには指輪があった。


「サイズ……たぶん合うと思うけど」

「何よこれ」

「ん、ペアリング。安物だけどね」

「――つけろってこと?」


 うーん、とひまりは少し考えるそぶりをみせてから、首を横に振った。


「うぅん、持ってて欲しいだけかも。気が向いたらつけてくれると嬉しいかも」


 そういってひまりは左手の中指に通したリングを見せてきた。


「…………気が向いたらつけたげるわ。さ、準備できたなら行こうか」

「うん」


 ひまりが私の表情をみてからくすくすと笑って、立ち上がって白のカーディガンを羽織った。なんだよ。笑われるような顔をしていただろうか。

 口元に手をやって、私が先に部屋を出ると、ひまりが後からついてくる。


「ってかひまり、いつまでしめ縄飾ってるのよ」

「――だよね。これどうしよう。捨てるわけにもいかないよね?」

「お焚きあげって神社でやってもらうんだよ。来年一緒に行ってあげるわ。とりあえず家に片付けておきなよ」


 はぁい、とひまりはしめ縄を紙袋に大事にしまって玄関先の靴箱の横にそっと置いた。




 その夜、私たちは深夜のスーパーに来ていた。どうしてこうなったのかは私にもよくわからない。ひまりは買い物かごにどこからか持ってきたお菓子を放り込む。私は牛肉と一緒にカレーの材料を集めながらため息をついた。


「冴子の手料理が良い。スーパーあいてるし、行こうよ」


 ひまりはいつも衝動的だった。私はいつもそんなひまりに振り回される。

 夜の遊びは大体決まっていて、この日はカラオケに興じた。数時間カラオケルームで一緒に過ごし、深夜の公園に向かう。いつも通りの二人遊び。ひまりはベンチの上に立って踊るようにくるくると回る。


「それ、危ないからやめなって。落ちるよ?」

「――大丈夫だよ。慣れたもんなんだから」


 細い手足がくるくると回る。骨ばった手首と、肉のない足。春になって薄着になってからはそれがやけに目立って見えて、私はその痛々しい姿を見るのが少しだけつらい。


「わっ」


 声をあげてひまりがバランスを崩した。私はとっさに伸ばした手で、ひまりの細い身体を受け止めて、ぎゅっと抱きしめる。


「あ、ありがと……」


 軽い身体。やせ細ったひまりに触れて、私は眉を寄せて彼女を見下ろした。


「ひまり、最近はちゃんとご飯食べれてる?」

「――食べてるよ。ちゃんとかはわかんないけど」


 ひまりは一人では駄目な女の子だった。会わない日は一日家の中から出てこない。食事だって疎かにする。そう聞いてから、私は足しげく彼女の家に通うようになってしまった。


「晩御飯は?」

「さっきポテチ食べたじゃん。カラオケで」

「あんなのご飯に入りません。どっか食べに行こうか……」


 私がスマホで近くのファミレスを探そうとするのを、ひまりの手が遮った。


「ねぇ、冴子の手料理が良い。近くのスーパーあいてるし、行こうよ」


 私はそうとう嫌な顔をしてみせた。ひまりはぴょんとベンチから飛び降りて、私の両手をぎゅっと握ってにっこりと笑い、腕を引っ張る。その細い身体のどこにそんな力があるのかと、私はぐいぐいと引きずられるようにスーパーに行くことになった。


 そうして材料を買って部屋に戻り、カレーを作る。最低限キッチンを片付けて、私たちは調理を始めた。


「もっと胃に優しい感じのがよかったかな?」

「大丈夫大丈夫。そんな繊細な胃じゃないから」


 二人でキッチンに並んで、野菜の皮を剥く。ひまりはピーラーで、私は包丁で。相変わらず部屋は散らかったままで、まとめたゴミも捨てずに放置している汚い部屋。振りかえると、部屋の片隅の姿見に、私とひまりが並んで立つ姿が見えた。そこだけ切り取ったみたいな鏡の中の私たち。とんと、ひまりが私の肩に頭を乗せた。

 ふふと笑って、私もひまりの頭に頬を乗せる。


 肉を焼いて、切った野菜を煮込んでいる間も、ひまりは私の隣にもたれかかるように立っていた。


 ことことと、鍋が音を立てる。白く立ち昇る湯気を二人で眺め、私は後ろの鏡に映る自分たちの姿を想像しながら微笑む。この時間を切り取るみたいに心にしまえたらいいのに。私はそんなことを考えながら、ひまりの長くきれいな睫毛を見つめた。


「――ひまり……」

「うん?」

「男に会うの……辞めなよ」


 思わず、口に出ていた。ひまりは唇に人差し指を当てて少し考える仕草をみせた。


「うーん。……うん。いいよ。冴子が嫌だっていうなら」


 上目遣いに私を見上げて、ひまりは微笑む。悪戯をする子どものような笑みに私はばつ悪くため息をついて、頷く。


「嫌だよ」

「わかった。冴子の嫌なものは家に入れないよ」


 パックご飯を温めて、皿に移して、出来上がったカレーを二人で分けた。小食のひまりにはご飯を少なめによそって渡してやると、ぱぁと笑って嬉しそうに口に頬張った。

 美味しいと彼女は笑った。誰が作っても変わらない、市販のルーの作り方そのままなのに、ひまりは嬉しそうにカレーを食べて、おかわりをし、そしてトイレに吐いた。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 夜が待ち遠しいとひまりは言った。夜になれば私に会えるからと。けれど一人の夜は眠れなくて嫌なことばかり考えるのだという。孤独に落ちていくようなそんな感覚が怖くて、一人で眠る夜はいつも泣いてしまうのだとひまりは言った。男を連れ込まなくなってから、そんな日が増えた。私は可能な限り、ひまりの家に通い、夜を共に過ごす日々をつづけた。


 けれど、そんな日々がうまくいくはずもなかった。


 大学に通い、アルバイトをして、そしてひまりの世話をする。自分の時間がどんどんなくなっていっていた。勉強の時間がなくなり、成績はだんだんと悪くなり、瀬野にも心配されるようになっていった。


 そんなある日、毎日は会わなくて大丈夫だよ、とひまりは言った。きっと目に見えて睡眠不足になっていることに気付いたからだろう。大学とアルバイトと、ひまりに会うことは両立できることではなかった。ひまりは我慢するから大丈夫だよと笑って言った。


 きっと瀬野が何かを言ってくれたのだろうと思った。私の生活は限界を迎えようとしていたから。


 ひまりの言葉に、私は胸の内がすっと軽くなるのを覚えた。そう感じる自分に気付いた時、酷い嫌悪感が胸の内に現れた。それでもその重みを下ろせるような気がしていた。


 ひまりに会うことが少しずつ減っていった。一日置きになり、三日置きになり、一週間置きになり少しずつ、私たちの会う日は減っていった。日を置いて会うと、ひまりの腕の傷が増える。それでも私は気付かない振りをして、日々を過ごした。軽くなったはずの胸の内には、黒い靄が重く圧し掛かっているようであった。


 そんな中、試験期間に入った。私は遅れた授業を取り戻すように勉強をし、ひまりに会うのを控えた。夜は眠り、食事もしっかりとれるようになり、私はすっかり調子を取り戻しつつあった。ひまりからの連絡も少しずつ減っていった。


 このまま、ただの友人に戻るのがきっといい。あの関係はきっと、健全ではなかったのだ。私にとっても、ひまりにとっても、きっとよくなかった。そう言い聞かせると、私の心は安心し、同時に後ろめたさの影がちらりと胸のうちを揺らした。

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