Hello.01

 最近、少し命の様子がおかしい——


 夏休みも中盤に差し掛かり、部屋の窓の向こう側は灼熱に満たされ、少しだけ開いた遮光カーテンの隙間から差し込む光が朧げに部屋の中に明るさを溶かし込んでいた。


 部屋の中は、偉大な文明の力(エアコン)によって最適な温度に保たれている。


 その中で皇深琴は今日も今日とてPCモニターと向き合ったり、読書をしていた。今は座っているが、疲れたらベッドに入って昼寝をする予定だ。


 すなわち、何の予定もない暇な時間を過ごしているのだが、サブモニターの中で佇んでいる命の様子が気になる。


 命はずっと虚空を見つめながらじっと沈黙していた。普段から深琴が本を読んでいたり、インターネットを巡回している時は静かにはしているが、それでも常にソワソワとしているような感じだったし、合間には率先的に声をかけきた。しかもどうでも良いような話題で。


 今日はそれがない。いつもならこの時間まで読み終わらないであろう文量の本も、捗りすぎて読み終わってしまった。


 今から新しい本に手を出す気にはなれない。またネットで適当なニュースでも見ようか。最近は命がVtuber”スミス”として活動をしている影響か、動画のおすすめにはVtuberやそれに関するストリーマーたちの動画が多く表示されている。


 その中に紛れて、ふと知り合いの——というよりは、昔の知り合いが、成長したその姿を映したサムネイルが視界に入る。


 織姫桜——もちろんそれは芸名で、本名は知らない。でも深琴は、中学生になる直前までの彼女を知っている。


 深琴は首につけているデバイスのメンテナンスや、成長に伴う調整を行うため、昔はそれなりの頻度で通院する必要があった。その中で、織姫桜とは何度か会って会話をしている。彼女もまた、同じ病院に通院していたのだ。


 どんな病気なのかとか、そういうことは何も知らない。ただ深琴の知る彼女はいつも何かを楽しんでいた。それこそ、初めて出会った時に、幼い深琴が適当に作った鼻歌さえ、まるでサンタクロースからの特別な贈り物を受け取ったかのように、笑顔を咲かせて口ずさんでいた。


 最後に彼女を見たのは小学校を卒業した後の春休み。初めて会った時よりもずっと背が伸びて、少し大人びた雰囲気を帯びつつも、変わらない笑顔を看護師に向けていた。その日は遠目で見ていただけで、話しかけたりはしなかった。そこまでの仲でもなかったし、すぐに彼女はその場を去ってしまったから。


 その後、院内の噂で彼女がアイドルになったことを知った。その躍進の凄まじさはすぐにニュースになって耳に届いた。テレビやネットニュースで見る彼女は、すっかり深琴の知らない人になった。


 だから、ここ最近話題になるまで、織姫桜の存在はずっと頭の片隅の方に追いやられていた。


『——と』


 深琴は大きく逸れた思考を自身のチョーカーデバイスから出力する機械音声で区切り、意識をSmithのアカウントページに戻して、そこからさらに非公開になっているプライベート用の再生リストを開く。


 視界の端で、命が反応した気がした。が、視線だけでちらりと見た感じでは、何も変化はない。本当にそうなのか、そう見えるようにしているのか——


 そう、今考えるべきは懐かしい古馴染みのことではなく、自称スーパーAIである命の、不調について、だ。


 いや、不調というと少し語弊がある。別に命のAIとしての性能が直接落ちたというわけではない。今も、何かの検索を命令すれば、精度の高い回答を並べてくれるだろう。


 だから実務的なものではなく、精神的なものというべきか。AIに対して使う言葉でもないだろうが、ただ命はAIとしては明らかに特別だ。


 春からずっと同じ時間を共にしてきて、それでも未だにその存在そのものに慣れることはない。あまりにも感情豊かで、柔軟な思考を持つAI。そんな存在のまるで心ここに在らずといった様子の対処法なんて分かるわけがない。


 とはいえ、原因は分かっている。命の調子が変わったのは、非公開の再生リストにも入っている水月孤儛のとある動画。スミスの楽曲をカバーして歌っているものだ。


 命があの歌を聴いて具体的に何を思考したのかは分からない。ただ、あの動画に命が投げかけたコメントを見れば、敗北感を味わったのは確かだろう。


 深琴にしてみれば、それこそよく分からない。命が導き出した答えも、水月孤儛が出した答えも、きっと正しくあり、正しくない。


 それは深琴自身が自分の曲に対して、未だ明確な答えを持っていないからだろう。


 すなわち、周り回って原因は深琴自身。


 新曲はまだ取っ掛かりも見つかっていない。参考となりそうな音楽は一通りインプットしたが、それを具体的なアイデアとして昇華できていない。


 これでは問題を根本的に解決することはできない。


 少なくとも、次のきっかけが見つかるまでは放っておくべきだろうか。しかしこのままズルズルと引き摺られて、いざという時に力を最大限発揮されないなんてことになっても困る。


 それに…何となく居心地も悪い。いつものように鬱陶しいくらい絡んでくる相手が静かになると、調子も狂うってものだ。


 結局、深琴の思考は最初に戻ってくる。どうすれば、命の不調ともいえるこの状況を解決することができるのか——


 1人で解決できないなら、誰かに相談するのも検討してみるべきだろうか。もちろん、命がAIだと知られるわけにはいかないから、あくまでも1人の人間が悩んでいるという形で。


 考えてみれば、無理にAIとして考える必要もないのかもしれない。ただ、問題は誰に相談するか…


 深琴の交友関係は広くない。いや、狭い。だから相談できる相手も限られている。


 脳裏に数人の顔が浮かんでは過り、やがて最終的に残ったその人にメッセージを書くためにスマホを操作した。


 現在のクリエイター界の前線を走る現役のイラストレーターであり、Vtuberも兼業している七夢鳴海ナナユメナルミ——本名を三河鳴。思い浮かんだ顔の中では一番建設的なアドバイスがもらえそうだ。


 早速メッセージを打ち込み、送信する。これで何か進展があれば良いが…


 そう思ってスマホをデスクに置こうとしたところで、通知を知らせるバイブレーションの振動が手元に伝わってくる。


 深琴は手首を返し、スマホの画面を見る。通知欄には三河さんの名前があった。もう返信が来たのだ。


 詳しいことはまだ言っていない。深琴が送ったのは、相談があって、できれば直接話したいという内容だ。通話では相談内容が命に伝わってしまうし、それを避けるにはスマホの電源を切って直接会うしかない。


 命がその気になれば、それもあまり意味ないように思えるが、今のぼんやりとしている状態であれば、問題ないだろう。


 三河からの返信は、了承と場所の指定、そして時間は——今日だった。たまたま今日のこの後に時間が空くらしい。


 クリエイターでありながら、Vtuberという活動者でもある彼女は、当然ながら忙しい身である。それなのに空いた時間を迷うことなく、学生風情に使うなんて、相変わらずフットワークが軽すぎる。


『…ミコ、僕は少し出かける』


「——えっ? あ、はい! 三河さんのところですね? 何を相談しに行くんですか?」


 声をかけると、命の意識の焦点がこちらに向いた。すぐに思考の中でログを確認し、状況を把握したようだ。


『少し話を聞きに行こうと思って。何か作曲のヒントになればなと』


「そ、そうですか…いってらっしゃいませ!」


 立ち上がりモニターに背中を向けたところで、少し困惑の色を含んだ見送りの言葉を告げる命。


 まもなくして、PCモニターは暗転し、スリープした。

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ミコトの音解〜押しかけ美少女AIがVTuberデビューして【神曲】歌ってみた結果〜 日陰 @Hinata-hikage

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