第9話

 数日後。 「オホーツクノ夜珈琲」では、店内の空気が少しずつ変わっていた。 新しい看板ブレンド――“再生(リジェネレイト)”――が完成した。


 葵はカウンターで小さくうなずきながら、湯気の立つカップを手に取った。 最初はぎこちない笑顔だったが、今は少しずつ呼吸を取り戻し、声を出せるようになっていた。


「マスター……これ、美味しいですね」 葵が言った。「ありがとう、葵さん。苦くても、ちゃんと温かいでしょ?」 茜は微笑み、カップを差し出す。


 外では、LOGIが仕組んだ地域プロジェクトが少しずつ実を結んでいた。 クラウドファンディングでの支援、SNSを通じた情報発信、地域セミナーの開催――小さな波紋が街をゆっくりと浸透している。 葵を取り巻く環境も変わりつつあった。パワハラ問題は表立った告発ではなく、働く環境の改善と相談窓口の整備という形で着実に改善されていた。


 ある日、葵がカウンター越しに手渡してくれたのは、一枚の小さなカードだった。 そこには短く、しかし力強い文字でこう書かれている。


「私に、もう一度笑う勇気をくれてありがとう」


 茜の胸に熱いものが込み上げた。 珈琲の香りと共に、彼女自身も救われたのだと実感する。


 LOGIのオフィスでは、東野がゆっくりとカップを傾けて言った。


「虎の巻か……あれはな、持ち歩くお守りじゃない。 人を助ける覚悟を引き出す“心の触媒”だ。あんたが持ってきたのは、それを使う覚悟だった」


 山口が微笑む。「茜さんの行動が、“虎の巻”の意味を示したんですね」


 茜は静かに頷いた。 形あるものではなく、人の心を動かす力――それが“虎の巻”だったのだと理解した。


 夜。 「オホーツクノ夜珈琲」の灯りが街角にやさしく揺れる。 茜はカウンターに立ち、豆を挽き、湯を注ぐ。 香りがゆっくりと立ち上り、店内を満たす。


 外では北の街に春の光が差し込み、雪解け水が静かに流れていた。 店の中では、葵が楽しそうに珈琲を運び、常連客が笑顔で語らう。


 茜はカップを一つ手に取り、心の中でそっとつぶやいた。


「西田さん、ありがとう。そして、ここに来てくれたすべての人に……ありがとう」


 珈琲の香りは、もう迷わずに人を救す力を持っていた。 北見の街に、確かな春が訪れている。


 夜明けは、もうすぐそこにある。


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オホーツクノ夜珈琲 北見慎吾 @Takezawa0001

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