第8話

 雪の残る歩道を踏みしめながら、茜は「虎の巻」に記された住所を頼りに歩いていた。

 たどり着いたのは、商店街の一角に建つ年季の入ったビル。その四階のドアには、小さなプレートでこう書かれている。


 ――マーケティング会社 株式会社LOGI。


 茜は深呼吸をしてから、ノックをした。


「どうぞ」


 中から女性の声がした。

 ドアを開けると、丸眼鏡をかけたショートカットの女性がデスクに向かっていた。整った顔立ちに、どこか鋭さがある。


「こんにちは。突然すみません。私、“オホーツクノ夜珈琲”でマスターをしています。滝本茜と申します。

 西田さんから……“虎の巻”を託されて、こちらに伺いました」


 その名を聞いた瞬間、女性は小さく舌打ちした。


「西田め……また面倒ごとを持ち込んできやがって」


 すぐに営業スマイルを作り、茜に向かって頭を下げた。


「申し遅れました。株式会社LOGIのデザイナー、山口です。

 西田は学生の頃、うちの社長――東野(ひがしの)に弟子入りしてたんですよ。マーケティングと……なぜか“北見焼肉”の修行まで受けてました」


「えっ、焼肉……ですか?」


「はい。初代“ヤキニキスト”はうちの社長なんです」


「ヤキニキスト制度……まさかそんなものがあったなんて」


「ふふっ、東野は子どもみたいな人でね。師弟制度とか“虎の巻”とか、そういうのを楽しんで作っちゃうんですよ」


 茜は笑いながら尋ねた。


「その“虎の巻”って、いったい何なんですか?」


「東野の修行を終えた者に渡されるものです。持っていれば、東野がどんな問題でも解決してくれる――そういうお守りみたいな存在ですね」


「……まるでドラ〇もんみたいですね」


「ええ。ただし、ネコ型ロボットじゃなくて“厄介なおじいさん”ですけどね」


 山口はそう言って立ち上がり、奥の部屋に声をかけた。


「社長、お客様ですよー」


「はいよ」


 奥から、ゆったりとした声が返ってきた。現れたのは初老の男性。深い皺を刻んだ顔に穏やかな笑みをたたえ、しかしその眼差しは鋭く澄んでいる。


「西田の……弟子か」


 山口が紹介すると、男はにやりと笑った。


「可愛い嬢ちゃんだな。俺は東野。まあ、座りなさい」


「弟子というか……そうですね。西田さんから“珈琲の教え”と“生き方”を受け継ぎました。

 “オホーツクノ夜珈琲”のマスターをしています。滝本茜です。よろしくお願いします」


 東野は頷き、ゆっくりと湯を沸かし始めた。


「西田のやつが旅立つ日に電話をくれてな。あんたのことは聞いてた。

 ここに来たってことは、“虎の巻”を使うほどの問題が起きたってことだな」


「はい、実は――」


 茜は、昨夜の出来事をすべて話した。

 パワーハラスメントに苦しむ女性・森葵のこと。

 自分自身の過去の痛み。

 そして、葵を救うために必要な二つの課題のことを。


 東野は黙って耳を傾けていた。

 やがて、ゆっくりと珈琲を淹れ、香り立つカップを差し出した。


「……珈琲はな、誰かを救うためにも淹れられるんだ」


 その声は、静かに心の奥に染みこんでいく。


「西田のやつは困ったくらいお人好しでな。

 救えない人もたくさんいたが、目の前の誰かを救おうとしてた。

 あんたも、あいつにそっくりだ。……よし、俺も手を貸そう」


 茜は目を見開き、胸の奥が熱くなった。


「ありがとうございます……!」


「山口、これから忙しくなるぞ」


 その声に、山口は小さく舌打ちをした。


「社長、西田が帰ってきたら、私、殴っていいですか?」


「ご、ごめんなさい! 殴るなら私を――滝本茜めを!」


「冗談ですよ、滝本さん」


「山口……その冗談、ちょっと怖ぇぞ」


 三人の笑い声が、窓の外の雪解けの光に溶けていった。

 夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。

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