ミスター・リッパーとレディ・AI

ハリエンジュ

ミスター・リッパーとレディ・AI



「――こんばんは! 月が綺麗ね! ねえ、嬉しい! 私、今日も貴方を愛せるわ!」



 少し足を踏み外せば簡単に狂いかける世界。

 そんな場所で生きるしかないオレ如きに、これまた世界ごと気を違えたようにひどく美しい少女が、夜空の月を背景に『愛』なんかを告げた声が、凛と響いた。




『ミスター・リッパーとレディ・AI』




 ――はやく、はやく、切り裂け、切り裂いてしまえ。

 なにものでもない何かが産まれる前に、この刃で全てをズタズタにしてしまえ。

 だって、それが、オレの。


「ひっ……! テメェ、『リッパー』か……!」


 目の前の、きっちりしたスーツ姿の真面目そうな紳士が、その装いに似合わず荒々しい口調をオレに向け、目をかっ開いて後ずさる。

 オレはその紳士もどきの言葉には応えず、無言のままコートの下のホルダーからナイフを取り出す。

 刃先も柄も、何もかもが漆黒に染まったナイフ。

 オレはその柄を痛いくらいに握り込む。

 紳士もどきが怯えてその場から逃げ出そうとする。

 だがそのすらっとした脚が逃走のモーションを作る前に、オレはそいつの胸元をナイフで容赦なく切り裂いた。


 撒き散らされたのは、紅い鮮血――ではなく、濁った虹色の、どろどろとした油に近い液体だった。

 コロン、と音がして地面に歯車が転がり落ちる。

 虹色の液体まみれのそれを手袋越しに拾い上げ、地面に倒れ伏す紳士を見下ろす。


 もう、こいつは紳士もどきじゃない。

 死んだわけでもない。

 この男は、今までの人生通りの存在の、ただの紳士に戻ったのだ。

 ただ、それだけなんだ。

 それでいいんだ。

 恥ずべき人生ではないはずだ。

 そのままの存在として生きていけばいい。

 欲を出すな。不足なんてあるものか。


 ナイフを軽く拭いてからホルダーに差し込み、持ち歩いていたアタッシュケースに歯車を保管する。

 

 これで、今夜依頼された分のオレの仕事は終わった。

 違法記憶複数保持者だけを狙う切り裂き魔――『リッパー』としての。





 記憶の、物質化。

 それはつい最近になって生まれた概念だ。

 最近と言っても、もう十年は経つが。


 医療技術が発達し、人体の機械化の研究の一環で、『記憶』を歯車に近い造形の部品にコピーし、改造された人体に取り込むことで記憶を引き継ぐ技術が発明された。


 しかしその技術は未だ完全なものとは至っておらず、正当な医療機関を通さないと施術はされない。

 さらに他者の記憶を無断で引き継ぐ、複数の人間の記憶を保持するなどは未だに倫理的にタブーとされている。

 複数の記憶、人格をむやみやたらに取り入れたら、生き物としての精神が破綻する可能性が高いからだ。


 それでも物質化される記憶は年々増えている。

 医療技術が発達した時代とは言え、この世界の人々は今も死を、消失を恐れている。


 どうせいつか消えてしまうなら、と自分の記憶――自分の人格そのものと言ってもいいデータを後世に残しておきたいと、富裕層を中心に記憶の物質化という名のバックアップは今や常識と化しつつあった。


 問題はここからだ。

 記憶の物質化処置は簡単でも、引き継ぎの施術や法律がまだまだ未完成な世の中。

 物質としては延々と増えていく記憶を、狙う層が現れた。

 それが違法記憶複数保持者。

 より優秀な記憶を求めて闇取引したり、記憶を複数保持して『違う自分』として人生に変化をもたらそうとする存在。


 最初は違法記憶複数保持者には、表の警察組織が捕縛にあたっていた。

 だが年々数ばかりが増えていく彼らの存在に表の組織はパンクを起こし、医療機関は断腸の思いで裏社会に頼ることとなった。

 物質化された記憶の保管作業の大半を医療機関が直々に闇組織に任せることで、一般人が記憶を盗むリスクを大幅に跳ね上げたわけだ。


 違法記憶複数保持者が現れて問題を起こしても、闇組織絡みだと世間も迂闊に掘り起こせない。

 バックを恐れた報道機関は医療機関に矛先を向けにくい。


 そうして何とかグレーな形で世が回るようになってもなお現れる違法記憶複数保持者を断罪するのが、オレの仕事だ。


 通り名は『リッパー』。

 引き裂くもの。

 得物が特注のナイフだから、旧き異国の地の猟奇殺人鬼に倣っていつしか呼ばれるようになった、あまり名誉ではない通り名。


 だけど他に、呼び名がない。

 何故ならオレには元から名前が無い。

 ずっと裏社会育ちで、元々は何でも屋で、記憶絡みのいざこざが生まれてからは『リッパー』として夜の街で日銭を稼いでいるのが、オレだ。ただのオレというつまらない人間だ。


 オレには最初から何もなかった。

 名前も、価値のある記憶も、誇れる人格も、オレには無い。

 だからこそ、オレはオレだ。

 何もないけど、つまらない男だけど、オレでしかない。


 違法にしろ合法にしろ、記憶を複数持つなんて吐き気がする。

 それは誰だ。

 なにものだ。

 その生き物の、名前はなんだ。自己は、どこだ。


 漠然と気持ち悪い、という理由から記憶絡みの事件に嫌悪感を持っていることもあって今の仕事はもしかしたらオレにとって天職なのかもしれない。

 それが裏の仕事であっても、人を傷付ける仕事であっても。

 自分の自己を成り立たせる名称が、殺人鬼と同じだとしても。


 回収した歯車を入れたアタッシュケースは組織との受け渡しまで自宅で厳重に保管しておかなければならない。

 お世辞にも立地が良いとは言えないアパルトマンを目指しながら、オレはタバコに火をつける。

 くわえタバコだろうが歩きタバコだろうが、いちいち注意されるような治安の良い場所には住んじゃいない。

 紫煙をくゆらせ、今日もまた一つ肺を黒くする。闇夜を歩き、身体の内側すらも闇に染めようとする。

 不思議と闇に映える煙は、壁のようにバリケードのようにオレの孤独を守ってくれる。

 ――はず、だったのに。



「こんばんは、ご機嫌よう! 月が綺麗ね、会えて、愛せて嬉しいわ! さあ、今宵も綺麗な恋を始めましょう! 私のリッパー!」



 オレがオレを守る防御壁なんて無意味かのように、聞き慣れた甘く、されどどこかはっきりした響きを持つソプラノがオレの鼓膜を侵す。


 ああ、まただ。

 タバコで麻痺しかけていた脳が、覚醒する。

 悪い意味で。


 あと数秒で夜風に晴らされる煙の先に、一人の幼い少女が立っている。

 滑らかなハニーブロンドをリボンでツーサイドアップにした、上品なデザインのジャンパースカートを纏った、あどけなく、だが美しい少女。


 アイ=ガーネット。

 彼女はこの街有数の名家の令嬢で――オレに臆面もなく情愛を向ける、奇特な存在で。

 オレは、そんな彼女が。

 ――自分の全てを黒に塗り潰して彼女の視界から消えたくなるくらい、苦手だった。





 他人の部屋のソファに我が物顔で座るお嬢様。

 しかしふんぞり返っているわけではなく、あくまでちょこんと上品に、お淑やかに。

 所作の節々から洗練された品の良さが窺えるアイは、オレの部屋に無理矢理押し入るなり、小首を傾げてこう言った。


「ねえリッパー、私、ココアが飲みたいわ。生クリームが乗ったやつ」


「自分で淹れろ」


「リッパーの家のキッチン、どれもこれも私には大きいんだもの。背伸びしないとどこにも届かないわ」


「オレの家が大きいんじゃなくてお前が小さいんだ。っつーかこんな場所に入り浸るな。帰れ」


「あら、帰ってもいいけどレディを夜道に放り出すなんて、リッパーの男としての格が下がることになるわね。それでも私は好きだけど」


「……クソガキ」


「……子ども扱いしないでくれる?」


 むくれるアイを後目にオレは舌打ちをして、電気ケトルの準備を始める。

 自分用にコーヒーを、ちまっこいガキんちょ用にココアを淹れる為に。

 生クリームは買っておいた筈だ。こいつが毎回せびるから妙に日々クリームが余る。

 最近だと暇さえあれば適当に菓子を作っている始末だ。


 自炊は得意だし嫌いじゃないが、俺は菓子作りにまで目覚めるつもりはなかったのに。

 ちなみに作った菓子は全てアイの腹の中に収まる。慈善事業をするつもりはオレにはないのに。


 アイは、良家の娘だ。

 オレみたいな日陰の存在とは身分が天と地ほどもあるというのに、何故かオレに随分と懐いて纏わりついて、厄介なことに愛の言葉まで告げてくる迷惑極まりない令嬢だ。

 良くも悪くも無垢な性質で、好奇心旺盛で行動力もある。

 自分にとって未知の世界に興味津々なやつだから、オレの決して誇れない日々はアイの好奇心を満たす格好の的となってしまった。


 本当に、厄介極まりない話だ。

 何度も言っているように、オレはこの純真無垢な少女のことが、ひどく苦手だと言うのに。

 拒絶の言葉も態度も全く届いちゃくれないから、最近だともう諦めている。


 彼女の家の方で彼女の行動を管理してほしいのだが、アイはそういうことに関しては小賢しく知恵が回り、ひっそりとオレに付き纏う日々を過ごしている。切実にやめてほしい。


 お望み通り、生クリーム乗せココアを注いだマグカップをアイの目の前のテーブルに置くと、アイの赤い瞳がぱあっと輝きを見せた。

 こういうところがガキすぎると思うのだが、それを指摘すると毎回とんでもなく拗ねて面倒だから黙っておいた。

 事実、オレは先ほど彼女を拗ねさせたばかりなわけだし。


 アイの正面に座ってブラックコーヒーを傾ける。

 タバコを吸いたい気分だが、今ここにはアイが居る。アイの前ではなるべく吸いたくない。

 これはオレの意地のようなもので、別にアイの身体を慮っているわけではない。


 先刻夜道で会った時のようにタバコの時間をアイに邪魔されるのがオレは嫌いで仕方ない。

 放っておいて欲しいのに。オレの壁を、崩さないで欲しいのに。

 オレはオレを、守りたいのに。


「ねえリッパー、貴方、どうしていつもつまらなそうなの?」


 マグカップをテーブルに置いて、オレの顔を覗き込むようにアイが言った。

 この赤い瞳は苦手だ。

 全てを見透かして、オレの中に入り込んできそうなこの瞳が苦手で、嫌いだ。


「ああ、つまんねえな。こんな仕事してて楽しいわけあるかよ。だからお前もオレみたいのに興味持ってないで家でおとなしくしてろ」


「違う。仕事の話じゃなくて。リッパーは全てがつまらなそうなのよ。そうやってコーヒーを飲んでいる時も、さっきタバコを吸っていた時だってそう。生きているだけで、全てが煩わしそう。せっかく生きていられるのに、どうしてそんな顔をするの?」


 確かにオレの中の苛立ちが刺激される音が聴こえた、気がした。

 お前には関係ないだろう、お前に何がわかる、余計なお世話だ。

 そう怒鳴ってやりたい気持ちもあった。

 オレはどちらかと言うと短気な方だが、ガキ相手に本気で怒鳴るのはみっともない。というか、この娘の前で感情的になり過ぎたらつけ込まれる気がする。


 何とか冷静を装うと、先ほど紳士もどきを切り裂いた感覚を思い出す。

 オレはアレが、気持ち悪かった。

 見かけは紳士なのに、紳士とは別の誰かを内に飼っている。

 だけど紳士としての彼の意思が消えたわけじゃない。

 一人の中に二人以上の記憶が、人生がある。

 オレはそれが、気持ち悪い。

 何者でもない存在が嫌いだ。

 だってオレが、そうだから。言ってしまえば同族嫌悪だ。

 オレの場合は一人に複数何かがあるんじゃなくて、何も持っていない空っぽの器だけど。

 生まれてきたなら、名前があるなら、肯定してくれるものがあるなら、そのまま生きるべきだ。

 オレは違う。オレはただ空っぽのまま何となく生きて、リッパーになってしまった。

 こんな何者でもない気持ち悪い生き物、世界でオレだけで十分だろう。


「……別に。何者でもない自分が嫌いで、だけどそんな自分でいることが楽なだけだ。何も期待してないから、お前にはつまらなく見えるのかもな」


 ぽつりと零した言葉を、アイは聞き逃さなかった。

 あれだけ気に入っていたソファから離れ、躊躇いなくオレに近付き、彼女はオレの両頬に触れて真っ直ぐにオレを見る。

 だから、この瞳は苦手なのに。こっちを見ないで欲しいのに。

 なのに彼女は、オレを真正面から見据えてこう言うのだ。


「貴方は、何者でもないリッパーじゃない。今日も、私の好きなリッパーよ」


 ああ、だから。

 ――オレは、彼女が大の苦手だ。





 オレは、真正面から向けられる好意が苦手だ。

 苦手というより、怖い。不安になる。

 そんなものは受け取れない。


 幼い頃、オレがまだリッパーなんて物騒な通り名で呼ばれる前。

 今より何も持ってなかった頃。

 オレに向かって、『愛してる』と言った少女が居た。

 オレが好きだと、オレが大切だと、オレへの想いを恥ずかし気もなくぶつける少女が居た。

 理解できなかった。だってオレは、その感情を知らなかったから。

 恋なんて、意味が分からなかったから。


 そしてオレが何も分からずただ黙って、どう反応すれば良いのかわからず日々を過ごしていたある日。

 彼女は流行り病で死んでしまった。

 オレが初めてぶつけられた恋は、そんな風に呆気なく終わった。


 気付いたらオレはこんなに穢れた大人になっていて、愛だの恋だの考えるのも馬鹿らしくなっていた。

 だからオレは、アイの気持ちを受け取れない。

 向き合えない。

 それは歳の差だけが理由じゃない。


 オレは恋なんて要らない。

 いや。

 オレは何も、要らないんだ。





 ガシャン、と窓ガラスが割れる音でオレはハッと我に返った。

 アイの手を振りほどき、アイを強引に背中に隠して、引き抜いたナイフを構える。

 窓が割れる音の前に、確かに銃声が聞こえた。相手は銃を持っている。


 心当たりなら沢山ある。

 恨みなら山ほど買ってきた。


 アイは何も言わない。

 逃げろ、と言いたいが、相手方の状況の確認が先だ。


 やがて、割れた窓ガラスからゆらりと人影が入ってきた。


 ――先ほどの紳士だ。

 歯車は回収した筈。ならどうして。


 そこまで考えて、自分の詰めの甘さに思い至った。


 この男、記憶を取り込み過ぎている。

 証拠を示すように、紳士だった男は子どものように無邪気に、されど下卑た雰囲気が漂う狂笑の声を上げた。


「あはは……あははは! みつけた、みぃつけた! ぼくに痛いことした男! リッパー! 悪いやつはやっつけねえと!」


 精神が完全に破綻しているのは明らかだった。

 早く全部切り裂いて、オレが見逃していた歯車を回収して、適切な機関に身柄を渡さないと。

 次が、無いように。


「……一人か?」


 会話が通じるのかどうか怪しかったが一応訊ねると、返事が返ってきたが、それはオレの望む答えではなかった。


「ううん! 一人じゃねえよ! 二人見つけた! やっと見つけた! レディ・AI! あは、あはは! ぼくの欲しかったものだ!」


 男の言葉にオレは息を呑み、逆に背後のアイは静かだった。

 こいつ、アイのことも狙ってやがったのか。

 ちらり、と退路の確認ついでにアイの姿を確認する。

 アイは冷静だった。

 滑らかなハニーブロンドも、リボンでツーサイドアップにした髪型も、お気に入りのジャンパースカートも、その美しさも、オレは昔から良く知っている。

 そう、ずっと昔から。



 ――アイ=ガーネットは人間では、ない。

 十年前亡くなったガーネット家の一人娘の記憶データを完全に移行した人工知能搭載ドール。

 通称レディ・AI。

 現状世界唯一の、完全なる記憶移行の成功体で、そして。


 ――幼少期、オレなんかに愛を告げた唯一の少女の記憶と人格を受け継いだ存在だ。


 だから、ずっと苦手だった。

 こいつに愛してると言われる度、あの少女が何を思ってオレにあんなことを言ったのか考えてしまう。

 悪い意味で重ねてしまう。


 人間に限りなく近い構造をしながら必要以上の成長をしないアイと、大人になった自分の差から目を逸らしたくなる。

 あの少女に責められている気分になるのだ。

 どうしてこんな汚い大人になったんだ、と。


 何より、アイのオレへの好意が理解不能だった。

 あの少女の記憶を持ってるから、オレに好意を向けるのか。

 アイとはどういう存在なんだ。

 アイには『アイ』の意思があるのか。

 わからないのが嫌で、怖くて、不安で。

 だからオレは、アイが苦手で、アイの想いを受け入れられない。

 それはきっと、これからも。


「……アイ、逃げろ」


「あら、外に仲間が居るかもしれないのに?」


「出口までは一緒に行く。ここまで精神が破綻したやつが徒党を組めるとは思わない。オレが足止めするから、外に出たら逃げて、然るべき機関に助けを求めろ」


 そう言うなり、オレはアイを抱き抱えて、男の様子を窺ったまま玄関へと走り、外へと滑り込む。

 男は銃を持っているが、にたにたと笑ったり時折大声を上げて、やはり笑ったり、攻撃という攻撃をしてこない。

 もはや思考にテンプレートというものが存在しないのだろう。

 オレは素早く夜道を確認する。仲間らしき存在は居ない。

 物陰に隠れている形跡もない。

 だから、アイを逃がそうと声をかけようとした時。


「ねえ、リッパー」


「っ、んだよこんな時に!」


「私、『逃げろ』への返事がまだだったわよね」


 返事も何も、一択だろう。

 そう怒鳴りつけてやろうとした時。

 アイは、どこか挑発的に、妖艶に笑った。


「――嫌よ」


「は……?」


 ぐい、とアイに横に突き飛ばされた。

 玄関扉に身体が叩きつけられる鈍い痛みを感じた瞬間、たん、と銃声が響く。


 目の前で、アイが崩れ落ちていくのが見えた。

 オレを庇うように伸ばされた細い片腕が、弾け飛んでいた。

 今度こそ撒き散らされたのは、紅い鮮血。

 だけど、確かに歯車を体内に持つ存在の証拠として、虹色のどろどろとした液体も傷口から溢れている。

 彼女の傷口は赤くて、粘っこくて、でもところどころ人工的な関節やファイバーが生々しく見え隠れして。

 この少女は、本当に人間ではないのだ。

 それを突き付けられて妙に冷静になってしまったのも、ほんの数秒だった。


「……っ、アイ!!!!」


 崩れ落ちる彼女を抱き留め、止血の為に玄関先に引っ掛けていたコートを被せる。

 それでも男は未だにゆらゆらと銃口を突き付けており、いつ撃ってくるか誰にも予測できない。きっと男本人ですらわかっていないからだ。


 どうアイを守りながら戦うか、必死に思案を巡らせる。

 だからオレは一人が良かった。

 何かを守りながら戦う術なんて知らない。

 そんな最低なことを思う自分に気付き、唇を噛み締めた。

 アイはオレを庇って、こうなったと言うのに。

 情けない葛藤で固まってしまっているオレを、アイはじっと見ていた。

 オレの苦手なあの赤い瞳で、真っ直ぐに。


「ねえ、リッパー」


「っ、何だ!?」


「愛してるわ」


「……は……?」


 こんな時に何を。それすら言わせてもらえなかった。

 片腕が大破しているとは思えないほどつらつらと、アイはオレへの愛情を語っていく。


「私と元の私を重ねていたでしょう。私の好意を疑っていたでしょう。でもね、リッパー。貴方のそれは全部見当外れなのよ」


 何も、言えなかった。

 図星だったからだ。

 それを責めるわけでもなく、アイはオレの腕の中でくすりと笑う。


「ねえリッパー。元の私が知っていた貴方と、今の私が知っているリッパーは違うわ。私は、かっこつけで短気で捻くれ者で、詰めが甘くてへたれな貴方が、リッパーが好き。大好き。思い出の中の少年じゃなく、今こうして私を泣きそうな顔で抱いている貴方が好きなの」


 泣きそうなんかじゃない。

 戸惑っているんだ。

 そう言い返す声すら、出ない。


「好きよ、リッパー。元の私は貴方を想うことしか出来なかった。だけど、今の私は違う。アイは違うの。貴方を守れる。貴方を守る為に、貴方に纏わりついて――ずっと、学んできたのよ。この知能で」


 アイが片手で、損壊した片腕を押さえる。

 何を、と問う前にアイが機械的な冷たい声で呟いた。


「――学習モード、解放。戦闘用プログラム、起動」


 その言葉を合図に、アイの傷口が黒く黒く染まっていく。

 それはオレの、漆黒のナイフに酷似した色だった。

 いや、色だけじゃない。

 アイの腕が、黒い刃物に姿を変える。

 傷口は綺麗さっぱり消え、アイの色が、輪郭が、ゆらゆらと崩れ始める。


「攻撃は最大の防御。私を守りながら戦う、なんて考えなくていい。私を使って、リッパー。私を貴方の武器にして」


「は……おま、これ、どういう……っ!?」


「ずっとリッパーを見てきた。ずっとリッパーの武器を、学習してきたの。人間じゃない私が、武器に変質できるように。リッパーと共に戦いたくて……ううん、リッパーと共に在りたかったから」


 そこまで言って、完全にアイの輪郭が崩れた。

 オレの手の中には、普段から使っている漆黒のナイフと、もう片手にはそれと瓜二つの、アイが変質したナイフ。

 声が、聴こえる。


「愛してるわ、リッパー。元の私は、貴方の武器になろうだなんて考えなかった。元の私の全てを知ってる私だからこそわかる。私はアイ。レディ・AI。貴方に恋する、貴方だけの誇り高き乙女。これは地続きの記憶なんかじゃない。私だけの心よ。私だけの意思よ。――さあ、今宵も恋を始めましょう! 貴方と、私で!」


 ――そこまで聞いて。

 ようやくオレは二つのナイフを握り締めた。


 ずっと、わからなかったんだ。

 怖かったんだ。

 気持ち悪かったんだ。

 一つの存在に、二つ以上の心があるのが。

 それに名前を付けられないのが、不安だったんだ。


 記憶絡みの事件が苦手だ。

 きっかけは間違いなく、あの少女の死とアイの誕生。アイの好意。


 だけど。

 アイは、アイとして生きていた。

 不安ならば、名前が付けられないのなら、探せばいいだけなのかもしれない。生き方を。


 勿論誰もがアイのようには生きれない。

 現に、オレの目の前では全てがいっぱいいっぱいになった男が虚ろな目で銃を握っている。


 自分じゃない何かになりたがるのが、オレには理解できなかった。

 それでもアイはオレの武器になる機会を窺っていた、学んでいた。彼女だけの生き方を探してたから。オレへの気持ちの伝え方を探してたから。


 それなら、オレも、探してみよう。

 アイのように生きられなかった者を断罪し、この世の在り方を見つめ直して。


 ――そうして、アイと共に在って。

 オレはいつか、『愛』を理解する日を渇望する。



 全てを振り切るように二対のナイフを持って前へ出る。

 銃口が揺らいだ隙に、片方のナイフで銃を思い切り弾いた。


 ――はやく、はやく、切り裂け、切り裂いてしまえ。

 なにものでもない何かが産まれる前に、この刃で全てをズタズタにしてしまえ。

 だってオレは何かになりたいし、この男にも、誰かになって欲しいから。


 そうしてオレは、十字架を作るが如く男を二対のナイフで切り裂く。

 大量の歯車が転げ落ちたが、浴びる虹色は、今日は不思議と不快ではなく。

 しばらくぼんやりと天井を仰いでいると、ナイフがまた変質し、アイの形状に戻ってオレに勢い良く抱きつき、オレは虹色の海に沈んでしまった。





 今度こそ間違いがないように、男を捕縛し、アタッシュケースに詰めた歯車ごと機関に受け渡し。

 アイを家に送り届ける頃には、空は白み始めていた。


「ねえ、リッパー」


「んだよ」


「私ね、こんな身体だけど、歯車が――記憶がなくなるのは、別に怖くないのよ」


「は?」


 思わず立ち止まったオレに、数歩先を歩いていたアイは振り向いて悪戯っぽく笑う。


「元の私は、子どもの貴方に恋をした。今のアイである私は、リッパーに恋をした。だから私、何回でも貴方に恋ができるのよきっと。そう思うと、次に貴方をどう愛せるのか楽しみで楽しみで仕方ないの。だから、怖くない」


「バカか」


「むっ、なによお、乙女の告白をバカって言わないでよ、へたれ!」


 へたれで悪かったな。

 オレはお前ほど心が強くないし、お前の誇り高い魂を穢す気にもなれない。


 お前が抱える、あらゆる可能性へのお前の楽しみを否定したくはない。

 だけどオレは、オレの隣に居るなら今ここにいるお前が良いんだ。


 癪だけど、認めたくないけど。

 ナイフになった時のお前の口上はなかなか痺れるものがあったぜ、レディ・AI。


 言ったら調子に乗るんだろうけど、オレはアイの手を取ってとっとと帰路を急ぐふりをして早足で歩く。

 案の定文句を背中に飛ばしてきたアイに、オレは言った。


「日が昇ったな。一日が始まる。――これで今日も、お前を愛せる」


 しん、と早朝の肌寒い空気が凍るように静まる。

 しばらくして――アイがオレの背中に、タックルしてきた。


「ふふ、今の台詞、クサい! らしくない! でも好き! 大好きよリッパー!」


「うるっせえ!! お前も毎日似たような台詞言ってんじゃねえか!!」


 日が昇る。朝が来る。

 今日が始まり、夜が来れば月が光る。

 今宵の月が美しくても、月が見えない日であっても。

 お前の言う素敵な恋を、今日も始められたらいい。

 何も持っていなかったオレの新しい今日が、始まろうとしていて。

 ああ、今日も。

 オレの存在は、お前と在り続ける。



『ミスター・リッパーとレディ・AI』



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