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 生理的に受け付けない、ってたぶんこういうことを言うんだろう。

 陰謀論男の笑顔を見たとたん、ぞわりと背筋が粟立った。「緊張」とか「恐怖」じゃない──これは、明らかな「嫌悪感」。

 でも、私もいい大人だ。そうした不快感を、表に出さないくらいの配慮はできるつもりだ。


「すみません、どうぞ」


 まずは「たまたま同時にシュガーポットに手が伸びた」──そう解釈したふりをした。

 そうしておけば、陰謀論男の目論見には乗らずに済むだろう。下手に追及すると厄介なことになりそうだし、そもそも私の手に触れてきた理由なんて、気持ち悪すぎて知りたくもない。

 そんな私の真意を、知ってか知らずか。

 陰謀論男は、再びにやりと笑った。


「大丈夫、わかってるから」


 ──は? 「わかってる」って何を? 絶対わかってないよね、このおっさん。

 方針変更。ここは、敢えて不快感を示したほうが良さそうだ。


(よし、いっそキツめに──)


 なのに、眉間に力を入れたところで「すみません!」と慌ただしい足音が割り込んできた。


「お待たせしました、こっちがオーダーされた本です! 本っっっ当にすみませんでした!」


 困った。まさかこのタイミングで、モブくんが再登場するなんて。

 彼の前では、できればもう少し猫を被っていたい。まだまだ「気さくな女性客」のままでいたい。迷う私に、当然モブくんは「どうかしましたか?」と不思議そうだ。

 仕方ない、ここは猫被り続行──そう決めて、私はにっこり笑ってみせた。


「なんでもないです、本、ありがとうございます」

「いえ、間違えたのはこちらですから!」


 いえいえ、その間違いに、こちらは気づいていなかったわけですから──とは、もちろん言わない。せっかくのモブくんの心遣いだ。ここは笑顔で享受するべきだろう。

 それに、伝えるべきことなら他にもある。


「すみません、ついでにもうひとついいですか?」

「ええ、なんでしょう」

「カフェオレの味、いつもと違うというか……ずいぶん、その……苦味が……」


 遠慮気味に伝えたつもりだったけど、モブくんはその場にくずおれた。


「ああ、もう……だからあの人は……」


 頭を抱え、ブツブツぼやくこと10秒。けれど、再び私が声をかけようとしたタイミングで「申し訳ありません」と、勢いよく立ちあがった。


「すぐに淹れなおしてきます! 本っっっ当に、申し訳ありません!」


 角度90度のおじぎをしたところで、モブくんは手早くマグカップを回収した。そのあと、カウンターの奥から「カナさんのバカ」「うるさい、モブのくせに」みたいなやりとりが聞こえてきたけれど、ひとまず聞かなかったことにしておこう。

 なにせ店長のやらかしのおかげで、モブくんとは想定以上の会話ができたわけだし。

 それにしても、だ。


(モブくんと店長って、実際のところどんな関係なんだろう)


 店長は「俺の犬」と言っていたけど、そのわりにモブくんはそれほど従順ではなさそうだ。


(じゃあ、なんであの発言?)


 店長と従業員だから? 単にモブくんが犬っぽいから? それとも、もっと他に理由が?

 あれこれ頭をめぐらせているうちに、モブくんがカフェオレを運んできた。


「どうです?」

「──大丈夫、いつもの味です」

「よかったぁ」


 頬を緩めるモブくんは、やっぱり穏やかな大型犬のようだ。


(ああ、いいな、癒やされる)


 だからこそ、私としたことがうっかり忘れてしまったんだ。左隣の、キモい陰謀論男のことなんか。

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その男、只者につき 水野 七緒 @a_mizuno

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