聞いてよ、パゴダ
真花
聞いてよ、パゴダ
夜、ベランダに出る。一人暮らしの六階の、小さなベランダだ。向かいのマンションがよく見えて、空は端っこにしかない。秋になって少し厚くなったパジャマ、水気がまだ残る髪、夜の精が入り込んで来ている。ベランダの隅には生い茂ったポトスが座っている。部屋から漏れる照明で、緑が半分キラキラして半分が濃い影になっている。私はその前にしゃがむ。
「ねえ、パゴダ、聞いてよ。誰かが怒ってるとするでしょ? それで、ジェスチャーでその怒りを表すの。本を高く上げて、下にすーっと下げる。さて、どう言う意味でしょう?」
パゴダは何も言わない。私はちょっと待つ。ふふふ。分かるかな?
「正解は、ブックを下ろすで、ブック下ろす、つまり、ブッ殺すでした。物騒だね」
私はまた、ふふふ、と笑う。
「そんな気分に今日もなっちゃった。前に働けなくなってから仕事を始めたときは働けるだけで感謝していたのに、不思議だよね。でも、口には出さなかったよ。遠くからこっそり、本を下げただけ。パゴダ以外には意味がきっと通じないからセーフでしょ?」
パゴダはなんとなく頷いた、気がする。
「私のタワゴトをもっと聞いて。下ネタで恐縮なんだけど、ランチボックスって、最初のエルの後にスペース入れると、大きな、アレが入っている箱になっちゃうんだよ。お弁当箱もなんとなく、そう聞くと同じものが含まれているみたいに聞こえるよね」
パゴダにレディが何を言っているんだと言われた、気がした。
「そうだよね。はしたないね。今日お弁当箱を開けたときに、ハッと気付いたんだ。でも、誰に言う訳にもいかないじゃない? だからここまで持って帰って来たんだ。箱だけね」
私は、ふふふ、と笑う。
「今日は水曜日でやっと週の折り返しで、でもちょっとしんどいなって思ってる。あと二日、がんばらないとね。……ちょっといいこともあったんだ。イトウさん、前に話したことあるよね、あのイトウさんね、エレベーターで一緒になって、ちょびっとだけ話したんだ。『こんにちは』『あ、お疲れ様』『調子はどうですか?』『絶好調です』それだけだけど、イトウさんめっちゃ笑顔だった。多分、私のこと嫌いじゃないと思う。好きと言うには曖昧でほのかなものかも知れないけど、ゼロよりはプラスだと思うんだ。丁寧に育てていけば、脈になるかも知れないよ? マイナスをプラスにするのは多分無理だけど、ちょっとプラスを育てるのはきっと出来る。明日も会えるかな。まあ、同じフロアにいるから見かけはするんだけどね。少しデスクの距離がある。前に飲み会で隣の席だったときも嫌そうじゃなかったし、話をすれば乗ってくれるし。……でも、誰に対してもそうなのかも知れない。どう思う? パゴダ」
パゴダは動かないで、じっと考えてから、厳かに頷いた。
「そうだよね。もし誰にでもだったとしても、私に向けてがあればいいよね。それを育てればいいよね。いつかイトウさんがこの部屋に来たら、きっとパゴダを紹介するね。いつ来てもいいようにきれいにしとかないとね。いざのチャンスに、部屋が汚いからスルーパスじゃ悲しいものね。でも私の気持ちもまだ淡いから、いきなりそうなったら、ちょっとドギマギしちゃいそう。いや、順番なんて守らなくていい。心の準備は秒ですればいい」
パゴダが、ははは、と笑った。
「うん。明日もイトウさんに会えることを楽しみに、仕事に行こう。そんな動機だっていいじゃない。仕事はちゃんとするのだから」
パゴダがちょっと明るくなった。
「じゃあ、そろそろ中に入るね。ありがとう、今日も聞いてくれて」
パゴダが頷く。私は、よ、と立つ。向かいのマンションが見える。電気のついている部屋、ついていない部屋がモザイクになっている。空がちょこっとあって、そこに月が浮かんでいた。やあ、と挨拶をしてから部屋に入る。窓越しにパゴダを一瞥してカーテンを閉める。毎日パゴダに話をしている。何でも話す訳じゃない。愚痴はなるべく、あくまでなるべくだけど、少なくしている。別にパゴダが誰かに話すとかは思っていない。それでも、嫌なことをたくさん喋ったらパゴダが腐ってしまいそうだから、そう言うことは言わずに、ノートに書いている。呪詛でいっぱいになったノートが少しずつ溜まっていて、いつか燃やさなきゃいけない。パゴダが健やかに繁茂しているのは私のいい話を吸収しているからに違いない。パゴダの生長の分だけ私にプラスのことがあったと思える。
今日の分のノートはもう書き終えている。順番は、ノートが先でパゴダが後。書き終えてからお風呂に入って、支度をしてからパゴダに会って、今、胸が少し膨らんでから、夜の時間を過ごして眠る。私はカーテンをめくってそこにパゴダが変わらずに座っていることを確かめて、ベッドに入った。
(了)
聞いてよ、パゴダ 真花 @kawapsyc
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