【読切】僕らの碇 — silent glow(静かな光)
✟わーたん2039 ✟
【読切】 誰もヒーローになれるわけじゃない。それでも、薄い光で夜は前に進む。
【読切】僕らの碇 ⚓️ — silent glow —— 黄昏の大阪駅で、六つの小さな光が交わる— silent glow誰もがヒーローになれるわけじゃない。それでも薄い光の下で、なにかを思い出す——
目次
プロローグ:薄い光
第1話:木下瑠璃/迷子
第2話:篠原 灯/レシート
第3話:東條 蓮/片耳
第4話:藤崎 茉莉/リングライト
第5話:城戸 岳/名札
第6話:黒田 迅/膝
第7話:藤崎 茉莉/連絡通路
第8話:黒田 迅/一声
第9話:東條 蓮/割って入る
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僕らの碇⚓️ — silent glow(静かな光)
_silent glow
誰もがヒーローになれるわけじゃない。
それでも、薄い光の下で、なにかを思い出す。
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プロローグ:薄い光
発車メロディーが流れ始める。
ざわめきの向こうで、黄昏が過ぎて大阪駅にも、もうすぐ夜がやってくる。今日はなぜかエスカレーターの光が細く見えた。
この時間の大阪駅は人の影が伸び、足音だけが濃くなる。
「ママ……」
小さな声が、人波の裾から漏れたが、誰も立ち止まってくれない。そう、彼らが見ているのは、地面、あるいは前方の誰かの背中、そしてスマホの画面だけで、顔はどれも光の外側にあった。
売店の角で、無地のトートバッグを持つの女の子が指を止める。タグの角が、暗がりなのにやけに白い。
広場ではリングライトが持ち上がり、スマホのカメラを回している。
光だけが胸の前に残り、薄い輪だけが空気を温めていた。
ホームの端で、ひとりが崩れ落ちた。
近くの青年が、膝をかばって立ち上がり、
改札脇では、名札を外した男がポケットのレシートを握りしめ、何かを探している。
連絡通路の影で、パーカーのフードがわずかに揺れた。イヤホンの片方が床を打つ音が、やけに大きく感じた。
誰もがヒーローになれるわけじゃない。それでも薄い光の下で、なにかを思い出す——
——この夜を動かすのは、強い明かりばかりじゃない。silent glow——静かな光だ。
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第1話:木下瑠璃/迷子
時空の広場のベンチに座っていた。
スマホは画面を消して膝に置き、通知は切ってある。
——家に戻れば、母親とまた口を利かない時間が始まる。
__父はもういない。
それを思う度に、毎日、胸の奥がピリついて、呼吸が浅くなるのだった。
そして、母親の顔が浮かぶと、いつも足が家の方向から自然と遠のいてしまうのだ。
「ママ……」
突然、人混みの下から泣き声がした。
私は咄嗟に立ち上がり、声の方へ歩く。
見上げてきた小さな目は、涙で濡れている。
「——駅員さんとこ行こか」
手を差し出し、小さな手が強く握り返す。
指先の温かさに、自分の冷えが少し和らぐ。
案内窓口へ向かう途中、売店の前を通る。
無地のトートの女の子が、チョコレートの小箱を見つめて立ち止まっていた。
視線が合い、少し気になったが、私は歩き続けた。今はこの子を、なんとかしなければいけのだ。
列に並ぶ。
「この子、はぐれてて」
職員がうなずき、トランシーバーを鳴らす。
そして、アナウンスの手配をしてくれた。
迷子になった子は少し不安そうに、わたしの手を握り締める。
「大丈夫、お母さん、すぐきてくれるで。」
そう言いながら、小さな手を握り返す。
しばらく__10分ぐらいだろうか?一緒に待っていると、母親が駆け寄ってきて、子どもを抱きしめた。
「ありがとうございます」
「……いえ」
咄嗟に離した手には、温もりだけが残っていた。
ホームがざわついた。
男性が座り込み、周囲の人が肩を支えている。
そして、誰かがペットボトルの水を持ってくるのが目に入った。
私は階段を二段降りて、様子を見に近くに寄った。
しばらく、眺めていたが、私の出番はなさそうだと思った。
自販機の赤いランプ。小銭を入れてホットココアを一本買う。
取り出した缶を両手で包む。指先がゆっくり温まっていく。
ひと口飲んでみたが甘さは感じなかったが、温かさだけが身に染みていた。
スマホの画面に目をやると、画面は、まだ、黒いままだった。
発車メロディーがホームで流れたので、急いでホームに向かおうとしたのだが、、、今日は特に家に向かう気にはなれなかった。
「……今日は遠回りして帰るわ」
一人、小さくつぶやく。
さっき握った小さな手の感触がまだ掌にある。
今夜はそれで、充分だ。
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第2話:篠原 灯/レシート
棚の前に立つと、指が勝手にトートバッグの口を広げてしまう。
そして、胸の奥がざわついて、呼吸が浅くなる。
——油断すると、今日も、盗んでしまうかもしれないのだ。
今日もチョコレートをそのままトートに入れてしまいたい欲求に駆られ、頭の中でその瞬間を反復する。
手が動けば終わってしまう。
店員の視線、後ろの客の足音、改札のカメラの角度、そして数まで勝手に数えてしまう。
「やめとけ」って言う自分と、「今なら」って囁く自分がぶつかり、喉が渇いて、汗が指先ににじむ。
足が動かなくなって、脂汗をかきながら立ちつくしていた。
誰かがぶつかっていき、体温がすれ違う。
私は、深く息を吸って目を閉じた。
指をぎゅっと握り直す。
(今日は違う)
小さな声で自分に言い聞かせると、やっと体が前へ進んだ。
「お願いします」
会計を済ませて袋を受け取ると、手の中に残ったのは罪悪感じゃなく、レシートだった。
「今日は、辛抱できた。」
胸のざわつきが、少し落ち着いた。
そのとき、ホームがざわついた。
人の輪ができていて、その中心で、誰かがしゃがんでいる。周囲が肩を寄せ、誰かが水を差し出す。
男性が、倒れた人に声をかけているようだ。
最初の方の会話は、よく聞こえなかったが、しゃがんでいる人が、
「今日は、朝から何も口にしていなくて」
と、言っているのが聞こえた。
私は立ち止まり、箱を開けて、ひとかけらを包み紙ごと差し出した。
「甘いんで、ちょっとずつ噛んでな」
受け取った人が小さく笑った。
喉が鳴り、肩の力が抜けるのを感じた。
「助かるわ」
売店に戻り、同じ棚からもう一箱を取る。レジに向かう自分に少し驚き、
ベンチに座って一片を口に入れると、久しぶりの甘さが舌先に広がった。
発車メロディーが流れていた。
トートバッグに箱をしまい、立ち上がる。
今日は、買って、人にあげて、自分も食べる。
しかし、まだ、胸がざわつき、欲求が抑えられるのか、自信がなかった。
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第3話:東條 蓮/片耳
連絡通路のベンチに沈み込む。
フードを深くかぶって、イヤホンを差し込む。
片方が抜けて床に落ちるカチンと響いた音が、やけに大きく思えた。
拾う気がしなかった。特に、音楽が欲しいわけじゃない。
——人の声も電車の走る音も全部いやで、ただ塞いでいただけなのだ。
スマホの画面に向かうと、タイムラインに、あいつの名前が並んでいた。
「信じられへん」「天国でも笑っててな」
泣き顔の絵文字、並べただけの言葉。
指が止まるり、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……嘘やろ」
思わず声が漏れた。
そう、誰もほんとの意味でわかってない。あいつがもういないことの、重さを。
ふと目を伏せると、視界の端に、なにかが見えた。小さな包みが転がっていたのでそれを拾い上げる。
拾った包はチョコレートだった。
いつもなら、絶対にしない事だが、何故か今日は
銀紙を剥がし、瞬間的に口に放り込んでしまったのだった。
しかし、甘さが舌に広がり、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
電車の発車メロディーが遠くから流れる。
人が流れていく中で、僕は立ち上がり、ホームに向かおうとして、また引き返す。
帰る気持ちには、まだなれないのだ。
フードの奥で小さく息を吐き、
誰も気づかれないように、僕は泣いていた。
⸻
第4話:藤崎 茉莉/リングライト
リングライトを顔の前に掲げる。
「やっほー!茉莉やで〜!今日は大阪駅から生配信してまーす!」
画面にハートが跳ねる。
「かわいい」「どこのリップ?」「大阪来た!」
「まいど!ありがと〜。リップはドラコスの新色な?あとでストーリー貼るわ!」
指でハートを作る。笑い、手を振る。
視界の端で、制服の女の子が迷子を連れて歩いていく。
こっちは笑顔を固定する。
「今日のコーデはね、はいどーん!」
カメラを引く。
「脚見せろ」は即ブロック。モデレーターの通知が飛ぶ。
同時視聴者が二桁落ちる。数字は正直だ。
「お、スパチャありがと〜!助かるわ〜!」
テンポを上げる。
コメントが速い。
「痩せた?」「太った?」同時に流れて、喉が乾く。
「どっちやねん!」と笑って返す。
指先には汗。リングライトの熱が頬に張りつく。
ホームがざわついた。
誰かが座り込んで、周りが肩を支えている。
チョコレートの包み紙が光るのが見える。
私はカメラを自分に向け直す。
「人いっぱいでさ、今日も大阪は元気やね〜!」
笑顔を一段上げる。
事務所のDMが重なる。
〈今夜19:10の案件、投稿でOK?〉
〈固定コメント:購入リンク、2行目に〉
了解、と打とうとして、辞めた。
全てが、面倒くさいと感じながら、配信を続けた。
「質問コーナーいこか!“なんでそんな笑顔なん?”——生まれつき?かな?笑」
顎が強張る。こめかみが脈を打つ。
「“彼氏いる?”——内緒やって言うたやろ〜」
数字がまた一段落ちる。
「そのキャラ飽きた」
指が一瞬、固まる。
——無音。
「飽きへんように頑張るから、見といてな?」
声は明るい。ここまでは仕事だ。
タイマーが切れ、配信が終わり、駅のざわめきが戻る。
リングライトの白が、やけに冷たく感じていた。
スマホが震える。
〈切り抜き速報:大阪駅で神対応!?〉
配信の画面が勝手にサムネに変わって、知らないテロップがついている。
〈次は炎上ネタやろう〉匿名のDM。
笑顔の形が頬に残ったまま、スマホを握る指が痛い。
私は画面を伏せて広場に目をやる。
広場の空気はいつも通り慌ただしい。
さっきの制服の子も、チョコの子も、もういないようだ。
リングライトの輪だけが胸の前で光っている。
「……クソが。このボケっ」
声は低くて、よく通った。
白い輪が大きく揺れたが、やがて、落ち着いた。
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第5話:城戸 岳/名札
改札のガラスに自分の顔が映る。胸ポケットから警備会社の名札を外した。
今日が常駐警備の最終勤務だ。つまり契約が切れたのだ。
右手にはレシート。その裏に面接先の番号と〈19:30〉と走り書きしてある。
まだ、電話はかけていなかった。
ホームがざわついている。男が膝から崩れるのが見えた瞬間、身体が先に動いた。
「駅員さん! こっちお願いします!」
「水、お持ちの方おられます?」
ペットボトルが手から手へ渡る。肩を支える若い子の手が震えている。
「無理せんといてな。ゆっくり深呼吸しよか」——耳元で低く言う。
ほどなく駅員が到着し、輪がほどける。
気づけば俺は通路のスペースを作っていた。——現場の癖だ。
一歩下がって息を整える。胸ポケットの名札を見る。
右手のレシートの裏には電話番号。時計は19:28。
——このまま元の流れに戻ったら、また先延ばしになってまうような気がする。
柱にもたれて親指で番号を押した。
「もしもし、求人の件で。城戸です。今、梅田です。二十分で行けますわ」
短いやり取りで、面接の時間が決まった。
通話を切る。名札をどうするか迷ったが、ポケットにしまうでもなく手で持ったまま歩き出す。
頭上の発車案内板が切り替わる。「19:32 新快速」。
「ほな、行こか」
小さく口にして、改札へ向かった。
左手の名札には、まだ体温が残っていた。
⸻
第6話:黒田 迅/膝
ホームの端で、膝のサポーターを少し締め直した。
鈍い痛みはあるがこれには、慣れてる。長い付き合いだ立ってるだけなら、まだまだいける。
ふと、前方で誰かが倒れた。周りがざわつく。僕は反射的に前へ出た。
「大丈夫ですか」
肩に手を入れて、頭を壁から離す。呼吸はあるが浅い。おそらく、脱水症状だと思った。
「すんません、駅員さん呼んでもろてええですか」
周りに声を飛ばす。すぐに「呼んだで」と返ってくる。
荷物をどけ、上着のボタンをひとつ外す。
「しんどいとこ、言える?」
目が合う。返事のかわりにうなずきを、返してきた。
「ほな、ゆっくり息してな。吸って、吐いて」
右膝に電気が走った。体重のかけ方をミスったらしい。
一瞬、膝が落ちかけるが、
スーツ姿の男が肘を支えてくれた。左手には何故か名札が握られている。
「通路、空けとくわ」
「助かります」
ペットボトルがどこからか、回ってくる。キャップが開いた状態のものを手にする。
「ちょっと口、湿らそか」
本人の手に持たせて、少しだけ傾ける。
喉が動く。
「すいません。ご迷惑をおかけして、朝から何も口にしていなくて。」
「そうか、そら倒れもするよな?」
「甘いの、いけます?」
横から誰かの声がしたので、そちらに目をやると、トートバックを持った女の子が、包み紙のチョコを差し出していた。
僕は受け取って、ひとかけらを割る。
「無理せんでええから、先ずは、舐めるくらいでな」
ゆっくり口元へ持っていく。
しばらく様子を見ていると、少し回復したのか穏やかな表情をしているように見えたので、肩の力が少し抜けた気がした。
駅員がこちらへ駆けてくる。
「こっちです」
名札の男が通路を広げてくれている。僕は一歩だけ下がり、道を開けた。
状況を口頭で引き継いで、場を空ける。
輪がほどけ始め、人の流れが戻った。
「痛っ、ちょっと無理してもうたな」
その場にしゃがみ込みたい衝動を、膝で踏ん張って立て直す。
汗が首筋を落ちた。
サポーターの面ファスナーをもう一段締める。
呼吸を整える。
ホームの先で、リングライトが白く揺れるのが見えた。
広場に向かう途中、制服の女の子がベンチに戻っていくのが目に入る。
さっきのチョコの子は売店の方へ歩いていった。
スマホを出して、整形外科の予約アプリを開いた。
明日の午前、空きが一枠。
親指が一瞬迷って、それから押した。
——サボりぐせはあかんよな。
電光掲示が切り替わる。「19:36 普通」。
俺は柵にもたれて、膝を一回だけ軽く屈伸した。
「……いけるやろ」
小さく言って、列の最後尾へ並んだ。
___
第7話:藤崎 茉莉/連絡通路
リングライトを指先で消した。ライト輪NO残影が瞼の裏に残っていた。
スマホをしまおうとした瞬間、いきなり手首を掴まれた。
手首に、指の圧が刺さる。
柔軟剤とタバコの匂いがして_息が近い。
顔を上げ、男の顔を確認した。
見覚えのある顔がそこにあった——DMで「会いに行く」と送り続けてきたアイコンの、現物。
「離してください」
最初の声は空気に溶けた。
もう一度、
「離せ!」
指は圧が深くなり、肩が出口の方へ回される。
右の視界に下りエスカレーターが視界にはいった。
今は、人が少ない。あそこへ乗せられたら、終りだと思った。
周りを見ると野次馬らしき連中が傍観していた。
足は震えて、恐怖と怒りで——声が出せない。
手首の皮膚が白み、呼吸ができなくなっていた。
男は笑っている。いかにも卑猥な表情を浮かべている。
だが、目は笑っていなかった。
「来たやん。会いに行く言うてたやろ」
耳の奥に刺さる低い声と吐息が触れる。
私は、振り切るように思いっきり息を吸ってみた_
鉄の味がする。口を切ったらしい。
勢いで腹の底から声を出す。
「——助けてください」
の声が思うように出ない。
助けて!心で叫ぶ。
「彼女から手ぇ離せ」
その時、低い声が一つだけ落ちてきた。
——そこで、一瞬時間がほどけた。
⸻
第8話:黒田 迅/一声
連絡通路で女の子の手首が掴まれているのが見えた。
どうやら、男は出口側へ彼女を引っ張ろうとしているらしい。
右側に下りエスカレーターがあり、黒い段が途切れず流れていく。
あそこへ押し込まれたら危ない。
膝が疼いて足が動かない
それでも、せめて声を出そうと必死で叫んでいた。
「おい! やめんかい!」
「その手を離せや!」
まわりの顔が一斉にこっちを向き、その場の空気が変わる。
もう一歩、前へ出ようとした時、膝が鳴った。
足はもう無理だったが、俺はやつから目は離さなかった。
「駅員! こっちや!早よ来てくれ!」
そのとき——フードの青年が、静かに前へ出た。
後で知ったのだが、東條 蓮と言う名前らしい。
俺の声の先に、彼の一歩が続いた。
⸻
第9話:東條 蓮/割って入る
「おい! やめんかい!」——さっきの声が背中を押した。
片耳のイヤホンを引っこ抜き相手の側で立つ。足が震えてたまらなかったけど、前に出た。
喉がからからで、呼吸が上手くつかめない。怖い。
でも、いちばん怖いのは——勇気を出せない自分の方だ。
何故か、そう思ってしまったのだ。
ここから、自分にできることは、
証拠を残すことだ。
目の前でスマホを取り出して、おもむろに録画を回す。赤い点を相手に見せる。
男の手は女の子の手首を掴んだままだ。
「彼女から手ぇ離せ」
内心震えながら声を出す。
あの日、通夜のコメント欄に「尊い」が流れ続けた。
俺は何も言えなかった。嘘やろだけ打って、画面を閉じた。
なぜ、今そのことを思い出したのだろう?
「離せや!」
今度は、はっきりと声が出た。思ったより大きかったので、自分の声に自分で驚いた。
相変わらず足の震えは止まらなかったけどそれでも、もう引けなくなっている自分がいる。
さらに半歩、距離を詰めた。できる限り正面には立たないようにした。
「撮ってる。顔も手も音も、全部入ってるで」
「駅員も来てるぞ」後方を指さす。
男の目が泳いで、女の子の手首を掴んでいた手が、わずかに緩むのを感じた。
間髪入れずに叫んだ!
「わかったら、さっさと、離せや!」
喉が焼ける。心臓が跳ねる。
あの日、何も言えんかった俺とは違う。
嘘やろで逃げた夜を、ここで終わらせる。
ここからどうするかと考えた矢先
背後から女性の声が飛んでくる。
「右側に寄って!」
人の流れが動く気配がしたが、
俺はスマホを固定したまま、男から目を離さなかった。
⸻
第10話:木下瑠璃/誘導
「右側に寄って!」
思ったより自分の声が通った。
この状況で私にできることといえば、彼女を助ける導線を確保すること、そして、周りの人を安全に誘導すること。
——まず右側が開くように誘導する。
「そこのベビーカー、先行こ。——手、貸そか?」
前輪が縁にかかりそうになったので、少しベビーカーを持ち上げるのを手伝った。
「小さい子、手つないでな」
目だけで伝える。子どもがうなずき返す。
前方ではフードの青年が録画を構えている。赤い点が相手の目に映った。
女の子の手首はまだ掴まれている。
右側に下りエスカレーター。
——あそこへ押し込まれたら危ない。そして、ここを空けんと、誰も近づかれへん。
私は小さくつぶやいた。
「今できる私の役割を全うするんや」
「止まらんと、そのまま。——右側、空けといて」
声を置くたび、人の流れが一列に細くなる。
私の肩を、息が抜けていく。
胸が少し痛んだ。
家で「お母さん」って呼んでも返事がなかった夜のことを、急に思い出した。
あのとき私は黙って、お茶の湯気だけ見ていた。
——黙ったら、余計に誰もこっち向いてくれへん。
だから今は声を出そうとできる限りがんばろうと思った。
そして、何故、こんな時に、家での出来事を思ったのか、奇妙な気持ちになった。
「お母さん、そのまま真っ直ぐ」
ベビーカーが抜ける。空いた幅がそのまま道になる。
「後ろの方、右寄って。——止まらんと行って」
スマホから発する赤い点の向こうで、掴んでいた指がわずかに緩むのが見えた。
私は息を吸い、右手で先を促す。
⸻
第11話:篠原 灯/止める手
今日も、指がうずき、何かを盗む癖が顔を出しかけていた。
——違う。今日はせえへん、絶対せえへん。
さっきは、これを心の中で呪文のように唱え
なんとか大丈夫だった。
__
目の前の光景。
__わたしも何かしなければ。
右側に下りエスカレーター。黒い段が途切れず落ちていく。
男は、このエスカレーターに向かっているようだった。
「あ、このエスカレーター止めな」
「私の役割、今日、この手の役割は、目の前のエスカレーターを止めること」
そう小さくつぶやいて、〈非常停止〉のボタンを確認し、押し込む。
警告音が鳴り、段が止まり、手すりも止まる。
その足で、女の子の少し斜め前に立ち目線を合わせる。人さし指と中指で、吸って、吐いてのリズムを確認し、呼吸を整えた。
「大丈夫。エスカレーターは止まってる」
女の子の手首を掴んでいる男へ、一度だけ顔を向ける。
「手、離してください」
後ろで無線の送信音が短く鳴り、
「通ります、開けてください」の声。
フードの人が向けているスマホの赤い点が男の目に映っている。
右の通路は、女性の声で導線が確保されていた。
⸻
【⸻盗むのではなく今日は示す手、守る手や。】
第12話:藤崎 茉莉/解放
指の圧が少し緩んだが、掴まれているのには変わりない。手首が痛い。
右方向ではエスカレーターが止まっている。——誰かが止めたのだ。
目の前に、赤い点。スマホの赤い点が男の目に映っている。
後ろから「通ります、開けてください」と無線の声。
「右側に寄って!」という女の人の声も続く。
道が細く開く気配。
私はもう一度、声を出した。
「手ぇ、離してよ」
言った瞬間、脚が震えた。
スマホがなる。
__たぶん事務所からや、でえへんかったら、後でうるさいこと言われるやん。
こんな時に、どうして、そんな事を思ったのかわからないが、その着信のおかげで身体の力が戻った気がした。
__絶対生きて帰る。
相手の男は、フードの少年に気を取られたせいか、先程よりも更に手首を掴んでいた力が緩んだ。
その一瞬の隙に私は男を振り払って、走り出した。
男が、何かを叫びながら追いかけてくる。次に捕まったら完全におわりだ、、何をされるかわからない。恐怖で吐きそうになったが走り続けた。
「こっち」
斜め前の女の子(さっき声を出していた子)が、目で私を安全側へ誘った。
私はうなずき、そちらへ向かう。
__と、その瞬間、人影がすごい勢いで飛び出してきて、そして、私の肩をすり抜けた。後ろで何かが地面に叩きつけられたような大きな音がした。
喉の奥が痛む。
「……ありがとうございます」
自分でも驚くぐらい、声が震えていた。
助かった。本気でそう思った。
⸻
【——リングライトじゃなくて、
今ここで光ってるのは、人そのものだった。】
第13話:城戸 岳/収束
「こちらです。被害にあった方こちらに」
駅員と目が合う位置で、城戸は短く告げた。
「下りエスカレーターは停止済み。あと、証拠動画あります」
フードの青年に向けてあごで合図する。
「きみ、その動画、係員さんに見せたって」
「はい」——青年がうなずく。
犯人の男と距離を取ったまま言う。
「お前、このまま動くなよ!」
少し、威圧するように言葉を投げる。
女性が走り出した瞬間に、身体が勝手に動いていた。相手に飛びかかり、学生時代から続けている柔道の技が情景反射で出たのだ。
気がつけば、相手は呻きながら倒れていた。
駅員が視界に入り、無線の「確保しました」が近くで聞こえる。
城戸は女の子に身をかがめる。
「少し座ろか」
斜め前に立っていたエスカレーターを止めてくれた女の子に、短く礼を言う。
「止めてくれたから、助かったわ」
後ろへ目をやり、
「エスカレーター空けてくれた人、ありがとう!——もう大丈夫です!」
しばらく、周りが騒ついていたが、
次第に、人の波がゆっくり元に戻る。
城戸は深く息をして、駅員に要点だけ渡す。
そして、被害にあった女性に、
「このあと駅務室で話聞かはると思うけど、俺も一緒に行くから。怖なったら言うてな」
と声をかけてその場を少し離れた。
胸ポケットの内側で、プラスチックの名札が指に触れた。
使い道はもうないけど、身体はまだ仕事の手順を覚えていた。
——ま、十分やろ
発車メロディーが流れる。
さっきまで冷たかった空気が、少しだけやわらいだ気がした。
⸻
【——小さな手の温度、赤い点、止まったエスカレーター、そして静かな光で、この夜は救われた。】
第14話:その後_それぞれの一歩
事件の収束
駅員の無線が短く鳴り、「通ります、開けてください」。
男は、警察に引き渡された。茉莉は駅務室で簡単な聞き取り。
蓮の動画はその場で証拠として保存。迅は膝を押さえながらも最後まで立っていた。
瑠璃は通路を空け続け、灯は下りエスカレーターを止めたまま付近で待機。
城戸は要点を駅員に伝え、全体を締めた。
——そして
木下 瑠璃
家の玄関。鍵の音。
「ただいま」
返事は少し間があって、「……おかえり」。
台所の明かりが一拍遅れて点く。味噌汁は冷めている。
(今の私の役割は、自分から声を発することや)
「一緒に食べへん?」
母は戸棚から椀を二つ出した。
「温め直すわ」
食卓。湯気。
「今日、駅で……人、助けた」
言ってから、スプーンを置く。
母は驚いた顔で一度こちらを見て、うなずいた。
「えらいな」
きっかけは、それだけだったが、会話は途切れなかった。
瑠璃は心の中で繰り返す。
(次も、最初の一言は自分だ)
篠原 灯
帰り道の売店。衝動が来る。トートの口に手が行く。止める。
レジへ行き小箱のチョコを二つ店員に渡す。
レシートを四つ折りにしてポケットへ。
(今の私の手の役割は、“盗む手”じゃなく“渡す手”でいること)
翌日、職場。
「これ、差し入れ。甘いから、ちょっとずつ噛んでな」
後輩が笑う。
「ありがとうございます」
灯はスマホのカレンダーに書き込む。
〈カウンセリング初回:土曜〉
予約は済ませた。
この前、先生は真面目な顔でこう言っていた。
「篠原さん、これはね『治療』じゃなくて『習慣を変える練習』や。だから前向きに一緒に取り組もうな?」
そう言ったあと、先生が少し笑ったので、私もつい、つられて笑ってしまった。
東條 蓮
自室。机の上、消しきれず残していた友人のアカウント。
メッセージ欄に打つ。
〈ありがとな。俺、今日は言えた〉
送信。既読は付かない。
(今の俺の役割は、画面を閉じずに、必要なときに声を出すこと)
翌日、学校の相談室。
「駅での動画は、その場で提出しました」
緊張で手のひらに汗。だけど、逃げない。
帰りに花を一本だけ買う。友人とよく歩いた橋の欄干に立てかける。
「遅なったけど、言えたで」
そして空を見上げると、やけに高く青かった。
藤崎 茉莉
事務所との通話。
「案件は、しばらく“安全ガイド”だけにします。DMは完全閉鎖、通報とブロックも徹底する」
「方針変える?」(事務所)
「変えます。接触してくる導線は全部切る」(茉莉)
「わかった。あなたの安全を確保するのも、こちらの役割ですから」(事務所)
(今の私の役割は、数字のための笑顔じゃなく、本当の自分と誰かを笑顔にすること)
その夜の配信は3分。
「今日は一本だけ。『もしもの時の動き方』を固定コメントに置いとく。」
視聴者数は派手には伸びない。
コメントに「助かってよかったね」が並ぶ。
茉莉は画面を伏せて、普通の声で一言だけ言う。
「ありがとう」
城戸 岳
面談室。
手元に本採用の通知書。
「如何でしょう?」
「やることは変わりません。危険の芽を先に摘む。」
上司がうなずく。
「早速ですが明日から、また現場に入れますか」
「入れます」
(今の俺の役割は、肩書きの有無に関係なく、人を守ること)
数日後、別の駅の構内。
「右側を空けてください——前どうぞ」
通路が一本できる。
岳は小さく息をついた。身体はしっかり手順を覚えている。
黒田 迅
整形外科。レントゲン前の椅子。
医師「炎症は残ってる。無理は禁物。でも、リハビリすれば戻る」
迅「やります」
処方箋。理学療法の予約。
(今の俺の役割は、痛みをごまかさず、身体を作り直すこと)
帰り道。駅で防犯アプリを初期設定。
「通報の練習、しとこか」
小声で言って、実行手順を確認してからアプリを閉じる。
——次に必要なとき、迷わず押せるようにな。ふ
そう自問自答して笑った。
⸻
犯人のその後
犯人は鉄道警察隊に現行犯逮捕された。容疑はまず暴行(手首を強く掴む行為)。
状況から、強要未遂(エスカレーター側への移動を強いようとした)も検討。
さらに、茉莉への執拗なDMと待ち伏せが端末・プラットフォーム記録で確認され、迷惑防止条例違反やストーカー規制法違反の容疑でも捜査が進む。
証拠は目撃者多数、駅の防犯カメラ、蓮の動画。
犯人は「ファンだから会いに来ただけ」「誤解だ」と供述。“所有できる”という思い込みが線を越えさせた。
茉莉には接近禁止措置、プラットフォームは加害アカウント停止。駅側は動線見直しと非常ボタンの点検を実施した。
⸻
数日後。夕方の大阪駅。
六人は同じ時間帯に、同じ方向の電車に乗った。
言葉は交わさないし、顔もうっすらとしか覚えていない。
だから6人が集まって話すことは、きっと、もう
ないのだろう。
しかし、
あの事件がきっかけで、胸の中で思うことは、それぞれの立場で共通していた。
それは、どんな些細なことであろうと、「自分の役割」「責任」を果たすことができれば、小さな光でも、いつかその光が大きなうねりになり、やがて、希望に広がっていくかもしれないと言うこと。
「ドアが閉まります」
六人はそれぞれの降車駅で降りていく。救われたのは茉莉だけじゃない。自分の役割に気づいた自分自身でもある。
— silent glow誰もがヒーローになれるわけじゃない。——
しかし——決して強い明かりじゃなくても、やれる事はあるはずだ。
必要なときに差し出された一言が、一手が
夜を救うこともある。
そして、その薄い光は、どこかの誰かと必ず繋がっているのだ。
__その想いと、諦めない心があれば、決して、明けない夜はないのだろう。
完
【読切】僕らの碇 — silent glow(静かな光) ✟わーたん2039 ✟ @wartan2039
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