第20話 『愛されメアリの幸福な人生』

***


 ミナの発した言葉を、脳が理解することを拒絶していた。

 まるでホラーじみた嫌な予感がしていた。暑くもないのに、じっとりとした冷や汗が背中に垂れ、ロクサーヌの体は寒くもないのに震え出した。

 背後に最初に幽霊が現れる、後ろを振り向きたいが振り向く勇気のない、愚かな登場人物にでもなった気分だ。

 体が動かない、喉が震えて、言葉を発することもできない。


 いつまでも記憶から消えない、ホラー小説の亡霊みたいな存在感を持つ女の名前。

 ロクサーヌは気合で、手に持った本の表題を見た。取り落としそうになった。


『愛されメアリの幸福な人生』


 ――ゴミみたいな表題ね。

 思ったままを口に出しそうになり、ロクサーヌは慌てて咳払いをした。持ってきてくれたミナは、知る由もないことなのだ。ミナはあの女のことはおろか、前の世界のロクサーヌのことだって知らない。

 ロクサーヌが子を身籠っていることは知っていたが、訳ありの異世界人とわかっているからか、前の世界のことを彼女はひとつも訊いてこなかった。

 前の世界の家族のことも、嫁いだ家の義理の家族のことも、夫ローランドのこともなにひとつ、ミナと過ごした穏やかな時間の中で、ロクサーヌが彼らについてなにか話したことは一度もなかった。


 これはただの本。

 メアリはメアリでも、私とはなんの関係のないメアリに決まっていた。

 私の気晴らしの、娯楽のための、暇つぶしとしてこの小説として持ってきてくれたのだから。

 ただの娯楽小説だ。人を楽しませるために作られたものに対して、ゴミみたいなタイトルだなんてそんなことを口にしては、書いた著者にも楽しんで買う読者にも失礼である。


 ロクサーヌは、顔をしかめそうになるのを必死に堪えていた。

 だが、気に食わないのは間違いなかった。ミナが席を外したら、すぐに燃やしてしまおうと思うくらいには気に食わなかった。

 なにがいけないって、この『メアリ』という名がまずいけない。

 そしてその『メアリ』の前に、『愛され』がついているのがまた腸の煮えくり返る心地がする。

 そんなわけがないのに、この私に喧嘩でも売ってるのかしらと腹立たしく思った。


 顔に微笑みを張り付けたままのロクサーヌは、ミナにあれこれ話しかけられ、促されるままに本を開いた。登場人物欄を見て、目を疑った。

『ライバル令嬢ロクサーヌ・ヴィヴィエ……伝記にもなった英雄騎士を輩出した、名門侯爵家の娘。美人だが、高飛車で非常に嫉妬深い。

 婚約者であるローランドを幼い頃から慕っており、ローランドとの真実の愛を見つけ、穏やかな愛を育みだしたメアリに激しく嫉妬する。メアリを目の敵にしており虐げる。その家門ごと貴族社会から追い出そうと画策している』


 その文字列に、ロクサーヌは悲鳴を上げそうになった。

 口を押さえ、足元がおぼつかないながらもなんとかソファへと辿り着く。様子のおかしいロクサーヌに気が付き、ミナが背中を撫ぜ、なにか声を掛けてくれているようだが、水の中に入ってしまったかのように言葉の輪郭はぼやけ、何も聞きとれない。

 私とは関係のない同姓同名のロクサーヌ・ヴィヴィエに決まっていた。そのはずなのに、何なのこの本は。


 この世界にきてから、打ち捨ててきたはずの醜く憐れなあの半生が、いくら乞うても手に入れられなかった、空しい愛をさもしく追ったあの日々が。

 主人公のメアリの人生を彩る悪役として、かつてのロクサーヌ・ヴィヴィエが本の中に存在していた。


 恐ろしすぎて涙も出なかった。


 ――誰にも知られたくない。誰にも、誰にも。

 いや、他の人はまだ諦めがつく。でも子どもとアレクサンドロには、この世界でできた周りの人間にはこんな醜い私がいたことを知られたくはない。

 なのに本になっている。

 この本はなんなの? なぜ知っているの? どこまで知っているの?

 過呼吸のようになり、思わず手から取り落としてしまった本が、ソファの上でデタラメなページを開いた。


『「――そのドレスではシンプルすぎるものね、これで貴女にちょうどよいデザインになったのではなくって?」

 ねぇ、皆様もお似合いだと思いませんこと? と、ロクサーヌは美しいスカイブルーの瞳に、意地の悪い炎を燃やし嘲笑した。

 こぼれた赤ワインが、メアリの着ていたドレスをまだらに染めあげていた。

 だがメアリには、名門侯爵家の娘であるロクサーヌに対抗する術はなかった。

 助けを求めようにも、彼女を敵に回せる人間などおらず、パートナーはこんなときに限って席を外していた。メアリは屈辱に唇を噛み締めた。

 睨みつけることも言い返すこともできず、立ち上がり逃げ出すようにして会場を後にした。後ろからいつまでも、彼女たちの笑い声が追いかけてくるようだった。

 暗い星空の下、メアリの瞳からは堪えきれず一筋の涙が溢れた――……』


 突然バシャンと水の音がして、ロクサーヌは膝をつき、腹を押さえて蹲った。

 メイドの悲鳴が聞こえた。

 脈を打つような大きな腹痛の波があった。ミナやメイドたち、騎士たちの言葉が、頭の中でこだまする。


 ――破水じゃない、お医者様を呼んで。

 ――大公閣下も呼んできます。

 ――床じゃダメ、こっちに寝かせて。早く。

 ――清潔な布と水を用意して。できるだけたくさん。


 痛みと怒りと悲しみと絶望が、お腹はもちろん体の中ぜんぶでごっちゃごちゃになっていた。腹の底から、絞り出すような言葉が漏れた。

「~~いつまでも悲劇のヒロインぶって、あの泥棒猫が……っ」

 大公家の使用人たちが目を丸くして、呻くロクサーヌを見た。


 ここまで来て、異世界まで来た私をなぜまだ苦しめるのよ。

 私があれだけやっても、あんたは結局、私の夫を奪ったじゃないの。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪役ロクサーヌ夫人の安穏な人生 綾瀬 柊 @ihcikuYoK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画