観念

相良平一

観念

 買ったばかりの、ぴかぴかと白いシャツがどうにも苦しくて、僕は思わず首に手をやった。

 粗相があるわけにはいかない。髪型は乱れていないだろうか。顔に汚れは? 一つのことが気になりだすと、連鎖的に不安が爆発してしまって、僕は思わず、車窓に出来た、半透明の影を凝視する。とは言っても、電車の好きな五歳児のように、椅子に逆向きに座って窓に張り付くことは出来ない。必然、正面に流れる風景を睨め付ける、隠れ奇人となってしまった。

 ニ、三分かけて、ようやく、僕は安心することが出来た。肩掛けカバンを拾って、開いた扉の外へと歩くと、ぬらりとした風が頬を撫でた。

 目的地に着いたのだ。

 駅の改札に人影は疎らだった。

 人と待ち合わせるのに、「ハチ公前」だの「銀の鈴」だのと言う、惰弱な人間の何と多いことか。常日頃から、僕はそのような不満を抱いていた。

 あれらは知名度があって、たどり着きやすさという点では申し分ないのだが、いかんせん、あまりにも有名すぎる。いつ見ても、集団リンチか抗議デモかとばかりの人垣が出来上がっていて、目と鼻の先の相手を探し出すのに、携帯電話を取り出さねばならぬ羽目になるのだ。

 そのような観点から見ると、この駅の利用者数は、実に理想的な按配だった。

 待ち合わせの時刻まで、まだ二十分もあるというのに、僕の待ち合わせの相手は、既に、改札前にぽつねんと立っていた。

 待たせちゃったかな。自動改札を通り、僕は彼女に駆け寄る。私も今来たところだから、と、彼女はその美しい金色の遊環を、しゃらんと震わせた。

 一通りの挨拶を終わらせてしまうと、僕は、彼女のあまりの美しさに、思わず固まってしまった。

 彼女は、一七◯センチメートルほどの、スラリと高い体を、白百合の花弁を思わせるふわふわとしたワンピースで瀟洒に飾っていた。裾の下に、健康的な柄の四分の一を惜しげもなく晒している。一点の曇りもない白の肌は、目を離したら、ぼやけて消えてしまいそうな儚さを醸し出していた。

 僕の視線を感じ取ったのか、彼女は、控えめにそのスカートをひらひらと揺らしてみせた。

 似合ってる、と言うと、彼女は満足げに笑った。あなたも格好いいわ、と返され、僕は照れ笑いを隠すことができなかった。

 彼女が、ガールフレンドという意味で僕の彼女になったのは、一週間前のことだった。異性とはあまり縁がなかったものだから、正直、まだそこまで実感が湧かない。

 はじめは、僕の一目惚れだった。その時僕は、道を歩く群衆の一人で、彼女もまた、行き交う人混みの一部に過ぎなかった。

 その三日後、カフェの一角で文庫本を開いている彼女を見つけて、僕は下心十割で彼女に接触を図った。何度か会話を交わすうちに、僕は、彼女の心の美しさにも目を灼かれていった。

 一歳下の、彼女の勉強を見る、という形で、僕と彼女に繋がりができた。そのうち、勉強という建前もなくなって、交流は数年間続いた。その間に、僕たちは大学生になっていた。

 初恋だったのだ。

 だから、告白が受け入れられた時、僕は人知れず涙を流して狂喜乱舞した。

 今日は、僕の人生初デートである。どうやら、彼女にとってもそうらしい。会話が途切れがちになるのも、仕方なかった。

 美術館は、悲しくなるほどに無人だった。足音が、やけに広々と反響する。

 打ちっぱなしの空間には、数メートル間隔で絵が掛かっていた。題名はあって、しかし、作者の名前はない、名刺サイズのキャプションが、その下に貼り付いている。

 マグリット、という人物の、作品をまとめた特別展である。彼女は美術好きであったが故に、二人は初デートの場所をここと定めた。だが僕自身は、そういったものへの含蓄など持ち合わせてはいないので、その名前もただの文字の羅列だった。

 この絵、と、彼女はそのうちの一枚に駆け寄った。本来なら、慎むべき動きかもしれないが、それを咎める者は誰もいなかった。

 凄いよね。彼女は、それだけを言った。それ以上の細やかな説明は無粋だ、と、彼女は知っていた。

 背広が立っていた。白いシャツと、橙色のネクタイをしていた。

 背広には首がなかった。顔のあるべき辺りには、大きな緑色の林檎一つだけがあった。

 荒唐無稽な冗談である。しかし、この絵を見る者にとっては、その冗談こそが真であった。

 凄いね、と、僕は鸚鵡返しに答えた。綺麗だね、でも、上手いね、でもなく、凄いね、と。この絵の持つ力には、その言葉が最も似合うような気がした。

 私たちは、黙々と絵画に沈んだ。彼女が、あまりにも幸せそうに絵を眺めるので、言葉を差し挟む余地がなかったのだ。そうして、彼女に倣って絵を眺めていると、確かに心躍るものがあった。

 どれほどゆっくりと巡っても、この美術館で潰せる時間は、数時間が精一杯だった。これがルーヴル美術館だったりしたら、一日二日は遊べただろうが、ここはそうまで大きくはないのだ。

 僕たちが外に出たのは、正午を少し回ったぐらいの時間だった。それぐらいになっても、街を行き交う人々の影は、微塵も増えてはいなかった。

 両者共に、そう希望があるわけでもなかったので、僕たちは偶々目についた、イタリア国旗を掲げる店に入った。

 店内には、驚くべきことに、客が三々五々座っていて、空席は僅かだった。外はあれだけ閑散としていたのに、と、彼女と顔を見合わせる。それだけ、美味しい店なのかもね、と彼女は声を弾ませた。

 僕たちは、窓際の二人席に通された。彼女は、僕に向き合うように、かたりと椅子に寄りかかった。頭が、少し僕から遠ざかる。それは仕方のないことであった。

 楽しかった? と、彼女が問う。自分の趣味にのめり込み過ぎた、と罪悪感に駆られているのか。彼女は、左内側の遊環を、から、と回した。

 こんなに楽しかったのは初めてだ、と答えると、彼女はまだ不安そうに、少しその体を傾けさせた。遊環の回転はもう止まっていた。

 凄かったね。マグリット、だなんて初耳だったけど、もうファンになりそうだ。と、付け加える。偽りならざる本心だった。

 本当⁉︎ と、彼女は声を弾ませた。あまりに可愛らしくて、僕は思わず彼女の枝を撫でた。しっとりとした温かみが、掌に心地よい。生きているのだ。それが、何だか奇跡のように思えた。

 ぴくり、と遊環を動かしたが、彼女は結局されるがままになった。少し機嫌を良くしたようで、そんな仕草も、猫のようで実に可愛らしかった。

 水を置きにきた店員を呼び止め、注文をする。僕はトマトパスタ、彼女はカルボナーラだ。値段は千五百円前後、相場通りといった感じだ。僕の薄給でも、二人分は払えそうだった。

 窓の外には、無数に欅の葉が揺れていた。公園なのである。陽射しが、もうすっかり春の色をしていた。

 パンをつまみながら、十分ばかり感想を言い合っていると、思ったよりも早く料理が到着した。

 いただきます、と、二人で唱える。それなりに混ぜ合わせた後、パスタをフォークに巻きつけ、口に運ぶ。豊潤な酸味と、麺の硬さのバランスが丁度良かった。

 フェットチーネを輪部に吸い込んでしまって、美味しい、と、彼女も思わず口にした。自分の舌を、優れたものと思い上がっているわけではないが、僕も全く同じ事を思っていた。

 いいお店だね。彼女は、店内を見渡す。厨房は陰になっていて見えなかった。

 美味しいね、と、彼女に微笑む。また、一口。一欠片のベーコンを噛み締めると、律儀な豚肉の味わいが口腔中に広がった。

 何やらこちらを覗いてくるので、いる? と聞くと、彼女は、はにかみながらも首肯いた。

 自分の皿から、一口分のパスタを巻き取ると、彼女も、それに倣った。そうせずにはいられないのか、善性が滲み出ている。

 そう揶揄うと、彼女は、摂取カロリーを調節しているだけ、と顔を背けた。僕には、彼女がそういったものを気にする必要があるとは思えなかった。細すぎて怖いぐらいだよ、と言うと、あまり気障なセリフは似合わないわよ、と返された。

 彼女がフォークを差し出してきたので、僕も同じようにした。輪部へ麺を差し出しながら、僕は彼女のフォークを口に入れた。

 まさか、僕がこんな、冷静さを砕いて海に撒いてしまったかのような、浮かれた行為に踏み切るとは思っていなかった。せっかくもらった一口分のカルボナーラは、初恋の味に掻き消されながら存在感を消した。

 恥ずかしいね。と、彼女。ちょっと、そうだね。と、僕。

 残りのパスタは、黙々と口に運んだ。

 胃の容量は、僕の方が大きくて、それでもパンを食べた量の差で、二人とも同じぐらいの満腹感だった。

 特に行くあてもなかったが、それでは解散、ともしたくなかった。僕たちは、漠然とした何かに導かれるかのように、公園に足を踏み入れた。

 あの料理店の窓から見えていた公園である。延々と、ごく常識的な遊歩道が広がっているだけで、聞こえてくるものと言ったら、路面を切りつけて走る車の音や、気まぐれに飛び交う、鳩や雀の無駄話ぐらいのものであった。

 岩でも浮かんでやしないか、と、僕は思わず空を見上げた。もちろん、空に浮かんでいるのは、ずるずると流れてゆく積雲だけだった。

 小さい頃、僕はこういった、日比谷公園のような公園を嫌っていた。家の周りにあった、砂とブランコと滑り台、という風な子供の溜まり場ではなく、ただ林の匂いがするだけであり、その上、同じように公園を名乗っているからである。だが今、僕の好むのはむしろ、そういった何もない公園であった。

 もう、じきに春だね。何とはなしに、その言葉が口をつく。

 桜は、新学期に間に合うかしら。彼女は、天に身を投げようとする梢を見上げた。八日あたりに満開を迎えたら、大学までの道はどれほど綺麗でしょうね、と。

 いずれにしても、桜が咲けば宴会だよ。と言うと、お酒が呑めないから、宴会なんてうざったいだけよ、と彼女は愚痴を漏らす。

 じゃあ、今年はうちで、二人だけで花見をしようか、と言うと、彼女は嬉しそうに遊環を鳴らした。その思いつきは、彼女を喜ばせたようだった。

 その公園には、池が一つあった。池とは言っても、何やら土気色に濁っている、巨大な水溜りといった風情だ。名前も分からぬ。これでは、どうしようもなかった。

 一羽、水鳥が泳いでいた。

 それを見た途端に、鴛鴦の契という言葉が、僕の脳裏に強く想起された。

 言うまでもなく、それは時期尚早であった。つい先日、想いを確認しあったばかりの相手だ。それを、結婚などとは。

 僕の愚かしい胸の裡など露ほども知らず、彼女は石突を地面に下ろし、体をメトロノームのように左右に揺らしていた。真赤なカバーが土に汚れてしまうが、彼女は気にも留めていないようだった。

 カフェチェーンの看板を見つける。優雅な昼下がり、というイメージは魅力的だった。彼女の方も、少し喉が渇いたというので、僕たちは二人して店に入った。

 ラッシュアワーを過ぎたのか、カウンターに並ぶ人は誰もいなかった。彼女が、何やら怪しげな呪文を唱えている間に、僕はアイスコーヒーを一杯注文する。その他のメニューは、僕に親しげな顔をしてくれなかった。

 シンプルなドーナツを幾つか買って、二人で分けて食べる。見た目に違わぬ、シンプルな味がした。

 もきゅもきゅと生地を頬張る姿が愛らしくて、僕は思わずカメラを向けた。彼女はこちらを見たが、咎めることはしなかった。写真を撮る。これはアルバムの一部となるのだ。

 将来――いつの将来?――この写真を見返す時に幸せであれば、その隣に、変わらず彼女がいればいいと、僕は密かに願った。だがもちろん、それも口にはしなかった。

 店を出ると、楽しかったわ、と彼女はこちらに振り返った。僕も、と答える。お互いに、それ以上の答えを求めるには、経験が足りなかった。それは、仄暗い仕合わせだった。

 桜が咲いたら、楽しみにしているわ。彼女は嫣然と微笑んだ。その前にも遊ぼう、と言うと、ええ、と彼女も返す。

 家まで送っていくよ、と言うと、彼女は無言で体を寄せた。五十センチくらいの距離が、今の二人には丁度良かった。

 彼女の家はすぐ近くにあった。白塗りの壁と、緑青の色をした屋根の、ごく当たり前の一軒家だった。

 じゃあね、と、彼女は体を揺らす。じゃあね、と、彼女の姿が扉の向こうに消えるまで、僕は手を振っていた。

 どうにも締まらない初デートだった。最後の方などは、ただ散歩をしただけで終わってしまった。

 しかし、彼女は楽しそうで、それだけは及第点だったはずだ。次からは、もっとしっかりしなければ。

 今夜は眠れないだろう、という確信が、胸郭のどこかしらに反響していた。

 彼女の背中の影は、雑踏の中にもうすっかり小さくなっていた。それでもなお、僕にはそれが輝いて見えた。

 あんなにもいい人――いい錫杖、というべきか――が、よく僕などを好いてくれたものだ。

 真っ直ぐ、空間の幕が切れたような彼女のシルエットを見つめ、僕はやはり実感の持てないままでいた。

 もう、じきに春である。僕は、着慣れないシャツの首を少し緩めて、鳥の形をしていない空を見上げた。

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