榊原銀次と幽霊
クサフグ侍
第1話
俺の名前は榊原銀次。特異事象調整局、保護課所属だ。
まあ、こんな肩書きを口にしたところで、世間の誰も知らんだろう。表向きは環境庁の外郭団体勤務。名刺にもそう印刷してある。けど実際は、世間に存在を知られてはいけない裏稼業だ。
俺たち特調の役目は、異世界や超常の存在と、現代日本の間で起きる摩擦を調整すること。要は、両方が暴れないように宥めて、何とか折り合いをつける仕事だ。
だが、これがまあ、簡単にいくわけがない。
上層部は「国民の安全を守れ」と声高に叫ぶが、現場に丸投げするばかり。かといって現場は現場で「人手が足りない、予算が足りない」と泣きついてくる。挙げ句の果てに、異世界やら神やら精霊やら、人間の理屈が通じない相手まで相手にしなきゃならん。胃が痛くならないわけがない。
人に害が出たわけでもないのに、妙に後を引く事件ってのがある。
あのときの出来事は、俺にとってまさにそういう類だった。
……いや、正直に言えば、今も思い返すたび背筋がじわりと冷える。
事の始まりは観測課からの要請だった。
「某県の旧市街において、夜間に繰り返し不可解な現象が発生している。被害はなし。だが住民の証言が急増しているため、調査を要請」
観測データには小さな乱れが断続的に記録されており、自然現象では説明がつかないという。
「……出動か」
書類をめくりながら俺はため息をついた。危険度が低い案件ほど、現場で妙な後味を残すことが多い。
部下を連れて現地に着いたのは午後九時を回った頃だった。旧市街は戦後の区画整理から取り残されたような場所で、狭い路地と古びた木造家屋が入り組んでいた。昼間でも薄暗いというのに、夜ともなれば異様な静けさが辺りを覆う。
「銀次さん、なんか……湿っぽい匂いがしますね」
若い隊員が鼻をひくつかせる。
確かに、鼻にまとわりつくような湿気と、古紙が腐ったようなにおいがあった。空気そのものが重い。
研究課のワゴン車が路地に横付けされ、機材が次々と設置されていく。彼らは手際よくセンサーを並べながらも、口数は少なかった。現場の空気に呑まれているのだろう。
聞き込みを行うと、証言はどれも似ていた。
「夜中になると子どもの笑い声がするんです。ひとりじゃない、二人か三人……」
「窓を開けたら、誰もいないのに影だけが地面を走っていった」
「笑い声が耳元でして……振り向いたら、何もいなかった」
住民たちは恐怖に震えていたが、不思議なことに誰一人として体調を崩してはいなかった。怪我もなし。だからこそ俺たちは余計に慎重になった。
張り込みを始めたのは、夜の十一時を回った頃だ。
俺と部下、そして研究課の二人が狭い路地に身を潜める。周囲はしんと静まり返り、遠くで犬が吠える声さえ不自然に響いた。
張り込み開始から三十分ほど経った頃だった。
隊員の一人が突然、胸を押さえてしゃがみ込んだ。呼吸は正常だが、顔色が真っ青だ。
「何か……子どもが、肩に触った気がして」
青ざめた彼の肩にライトを当てると、うっすらと小さな手形のような湿りが残っていた。乾いた夜気の中で、そこだけが生々しく濡れている。
全員の視線が一点に集まり、息を呑んだ。
が、それ以上の痕跡はない。すべてが風が運んできた幻覚のように、痕跡を残さず消えていった。
そのときだった。
「……銀次さん、聞こえます?」
部下の囁きに耳を澄ませる。
かすかに、風の合間から笑い声が聞こえた。
甲高い、子どもの声。
だがその声は距離感を持たない。すぐそばで囁かれているようにも、はるか向こうから響いているようにも感じられた。
「録音開始!」
研究課が慌てて機材を操作する。
すると、街灯が一斉に点滅し始めた。古い蛍光灯がジジジと唸りを上げ、俺たちの影が路地に伸びる。だが、その影は明らかにおかしかった。
「……おい、見ろ」
部下が声を震わせる。
影がねじれていた。
俺と部下の影が絡まり合い、腕の位置が逆に曲がり、まるで別の存在が地面から這い出そうとしているように見えた。
「退避だ! 全員下がれ!」
咄嗟に声を張り上げた瞬間、背後で「クスクス」と笑う声が響いた。まるで、幼い子どもが悪戯を仕掛けて喜んでいるかのように。
振り向いたが、そこには誰もいなかった。路地は空っぽ。
次の瞬間、点滅していた街灯が一斉に消えた。闇が落ち、数秒後にぼうっと明かりが戻る。
気づけば笑い声も影の異常も消えていた。
研究課のモニターには、強烈な電磁波の乱れが記録されていたという。後日判明したのは、この場所にかつて小さな寺院があったこと。そして火災で焼け出された子どもたちが逃げ場を失い、命を落としたという記録だった。
彼らの遺物は処理されず、土に埋もれたまま残っていた。研究課は「未浄化の霊的残滓」と報告し、簡易的な祈祷と結界を施した。以降、異常は止んだ。
……結局、あの夜見たものが本当に霊だったのかどうかは、誰にも断言できない。
ただ、俺は確かに聞いた。
あの路地で、背後で、耳元で。
楽しげで、でもどこか寂しさを含んだ子どもの笑い声を。
報告書の最後に、俺は短く書き残した。
「原因不明。被害なし。しかし、確かに存在を感じた」
それは俺にとって、今も忘れられない夜のひとつだ。
あの夜の報告は、組織としては一件落着で処理された。
研究課が遺物を回収し、簡易的な祈祷と結界を張り、観測課の監視下でも異常は二度と現れなかった。
新聞沙汰にもならず、隠蔽課の手腕で騒ぎはすっかり沈静化した。
……だが俺の胸の内では、何かがまだ終わっていない。
帰京して数日後、深夜に事務所で書類を整理していたときのことだ。
ふと、蛍光灯が一瞬だけちらついた。
その刹那、あの路地の影を思い出した。ねじれ、絡まり、あり得ない方向へ曲がった影の姿。
頭では「ただの機械の不調だ」とわかっていても、背中に冷たい汗が伝った。
自宅に戻っても、余韻は消えなかった。
シャワーを浴びて布団に潜り込む。目を閉じる。
……すると、ふと耳の奥でかすかな笑い声が蘇るのだ。
あの、楽しげで、それでいて寂しげな声が。
俺は慌てて目を開き、暗闇の天井を睨む。
もちろん誰もいない。ただの思い込み、記憶の残滓だと自分に言い聞かせる。
だが、心の奥底で別の声が囁く。
「本当にそうか?」
被害がなかった事件ほど、後味は濃く残る。
人が死ぬほどの怪異なら、討伐や封印で強制的に「片」をつけることができる。
だが今回のように、ただ現れ、ただ消えた現象は、俺たちに「結末」を与えてくれない。
その曖昧さこそが、一番怖いのかもしれない。
……あの笑い声は、寂しさを訴えていたのか。
それとも、ただの悪戯心だったのか。
結局のところ、答えは出ない。
けれど一つだけ、確かに感じていることがある。
もし再びあの子どもたちの声が響いたなら……
今度こそ、きちんと向き合わねばならない。
そうでなければ、あの夜の影は、俺の足元から離れてくれない気がするのだ。
榊原銀次と幽霊 クサフグ侍 @kakurega
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