ライター
神田或人
音だけが愛だった
カナルは二十歳になったばかりの青年だった。
二十も年の離れた男──ジョーと暮らしていた。
ふたりは愛し合ってはいなかった。
愛の代わりに、カナルは、僅かだが小遣いを受け取り、ジョーは若い肉体を得ていた。
ジョーは貧しかった。
財布はいつも軽く、
部屋のカーテンは色褪せ、
安物のマットレスには古いシミが残っていた。
オイルを補充する余裕もなく、
ジッポはいつだって乾いていた。
けれど、彼は文学的なひとだった。
ふとした瞬間に、ヘンテコな物語を語り出す。
「なあ、カナル。金魚はなぜ水のなかでしか生きられないと思う?」
「……わからない」
「水のなかが、一番きれいに見えるからさ」
あるときは鳥のことを話した。
「鳥はどうして空を飛ぶと思う?」
「羽があるから」
「ちがう。地面のほうが、ずっと寂しいからさ」
唐突で、理屈にもならない。
けれど、その言葉はなぜか耳に残った。
ノートの切れ端に書き殴られた言葉たちは、
詩でも小説でもなく、
ただ彼自身の息づかいのように散らばっていた。
酒に酔った夜、ジョーは小さな声で告げた。
──ほんとうは、小説家になりたかったんだ。
誰も聞いていないのに。
いや、もしかしたら、
聞いてほしかったのはカナルひとりだったのかもしれない。
それでも、カナルが密かに愛していたのは、
ジョーの言葉ではなく、音だった。
銀色のジッポを擦る、乾いた響き。
二度、必ず。火がつかないから。
カチッ、カチッ──
夜を裂く音は、同時に子守歌でもあった。
音があれば眠れた。
音がなければ眠れなかった。
ジッポの音は、カナルにとって
心臓の拍動であり、
夜の闇を照らす詩だった。
※
ある日、約束のホテルで、ジョーは死んでいた。
扉を開けた瞬間、冷気が胸を突き刺す。
エアコンの音だけが、かすかに響いていた。
カーテンは閉じられ、
部屋の奥は昼だというのに夜のように暗かった。
薄明かりのなかで、天井から垂れたロープが揺れている。
そこに結ばれていたのは、
カナルが恋人と呼んできた男だった。
彼の足は床に届かず、
影だけが壁に長く伸びていた。
目が開いているのか閉じているのか、
確かめる勇気はなかった。
部屋には、ジョーの痕跡が散らばっていた。
ベッド脇の灰皿には吸い殻が山のように積もり、安酒の瓶が床に転がっている。
机の上にはノートが一冊。
ページの隅に、殴り書きされた物語の断片。
──「眠らなければ、物語は終わらない」
──「水のなかが、一番きれいに見えるからさ」
あの夜語っていた言葉が、
そこに書き留められているように思えた。
カナルはページをめくることができなかった。
視界が滲み、足が震え、
息を吸うことさえ忘れそうだった。
ただ、ひとつだけ、手に取った。
銀色のジッポ。
オイルが足りなくて、いつも二度擦らなければ火がつかないライター。
それだけが、ジョーの生きていた証のように思えた。
※
部屋を飛び出した足音は、
誰もいない廊下に大きく響いた。
カナルは息を切らしながら夜の街に駆け出した。
その夜、震える指でジッポを擦った。
カチッ、カチッ。
──火はつかない。
けれど音は、確かにそこにあった。
ジョーはなぜ死んだのだろう。
ただの絶望ではなく、
どこかに詩のような理由が潜んでいる気がした。
彼がいつも聖書のように抱えていた一冊の本——《catcher in the ray》。
ページを開いても、意味はわからなかった。
ただ、金色の麦畑に立っている幻だけが、
カナルの目の前にひろがっていった。
それから彼は、タバコを覚えた。
煙は空へと昇り、
消えていくたびに、
失われた声を追うように胸を締めつけた。
※
それからカナルは眠れなくなった。
ベッドに横たわっても、まぶたの裏に揺れるロープが浮かび、
息をひそめるように夜が重なった。
眠れぬ夜、彼は街を歩いた。
足が勝手に動き出し、
夢遊病者のように薄闇をさまよった。
コンビニの白い光。
深夜の交差点で鳴り響く電子音。
タクシーのヘッドライトが雨上がりの路面に滲み、ガラス瓶が割れる音が、路地裏から転がってくる。
そのすべてが、ジッポの「カチッ、カチッ」を真似しているように思えた。
けれどどれも、本物ではなかった。
ジョーが火を灯そうとして失敗する、
あの不器用な律動には届かなかった。
──「眠らなければ、物語は終わらない」
──「鳥は、地面の寂しさから逃げているだけなんだ」
ジョーの声が幻聴のように、
街のざわめきに混じって聞こえた。
振り返れば誰もいない。
それでも、確かに声はついてくる。
ある晩、ネオンの下で声をかけられた。
「休んでいかないか」
疲れた瞳の男だった。
気づけば、カナルはまたホテルのベッドにいた。
見知らぬ男の手が肌をなぞり、
終わりのあと、ライターの火が灯された。
金色に光る、高級そうなジッポ。
一度で、火はついた。
──カチッ。
ただの一度。
それはあまりにも、あっけなかった。
煙が天井へ昇っていく。
その瞬間、カナルは悟った。
自分はジョーを愛していたのだ、と。
愛していると気づいたのは、
その人がもういなくなってからだった。
※
夏の午後だった。
灼けつく陽射しが、空気そのものを震わせている。
カナルは金色の麦畑に立っていた。
どこまでも続く麦の海。
ひと粒ひと粒が光を抱き、
風に揺れては、液体のように波をつくる。
黄金色の波は果てしなく、
その真ん中にぽつりと、自分ひとりが取り残されていた。
耳を澄ますと、ざわめきが音に変わる。
カチッ、カチッ──
無数の麦穂が擦れ合うたびに、
あの夜のジッポの響きが甦る。
「金魚はなぜ水のなかでしか生きられないと思う?」
──水のなかが、一番きれいに見えるからさ。
風に混じる声。
かつてジョーが笑いながら語った言葉が、
幻のように麦畑を満たす。
目の奥が熱くなる。
光は強すぎて、
世界の輪郭を白く溶かしていく。
空と大地が一続きになり、
現実と幻が重なっていく。
麦の向こうから、影が近づいてくる気がした。
けれど、その姿は最後まで輪郭を結ばない。
ジョーなのか、
それとも《catcher in the ray》の登場人物なのか。
あるいは、ただの“迎え”なのか。
カナルの掌には、重たいジッポ。
火はつかなくてもいい。
音があれば眠れる。
音があれば、生きていける。
カチッ、カチッ。
律動は心臓の鼓動に重なり、
金色の波が、その音を優しく包みこんだ。
──誰かがきっと、迎えに来る。
それだけを信じて、
カナルは黄金の海に身を沈めていった。
《了》
ライター 神田或人 @kandaxalto
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