呪術の手

をはち

呪術の手

切谷益男の人生は、呪いのように始まった。


幼い頃、新居への引っ越し前夜、家族が新しい未来を夢見たその家は、まるで嘲笑うかのように炎に呑まれた。


父は火事で片腕を失い、「すべてを失った」と繰り返した。


その言葉は、幼い益男の心に冷たく突き刺さった。


母と兄弟は、旧居での最後の夜を「お泊まり会」と称して過ごしていたため難を逃れたが、父の絶望は家族を蝕み始めた。


父は晩年、奇妙な妄想に囚われた。


「片腕を見つけた」と呟き、夜な夜な虚空を掴む仕草を繰り返した。


そして、益男が物心つく前に、父は忽然と姿を消した。


母もまた、子供たちを養うために身を粉にしたが、ある日、まるで霧のように消え去った。


残された益男と兄弟は親戚の間をたらい回しにされ、愛も希望もすり減らした。


いつしか益男は、空き巣という闇の道に足を踏み入れていた。


ある冬の夜、益男は高級住宅街の豪邸に忍び込んだ。


凍える空気の中、窓の錠をこじ開け、静寂に包まれた屋敷に滑り込む。


金目の物を漁るのが目的だったが、なぜかその夜、益男の心は奇妙な予感にざわついていた。


書斎の奥、薄暗い部屋の棚に、異様な存在感を放つ木箱を見つけた。


黒檀でできたその箱は、複雑な彫刻に覆われ、表面に「呪術の手」と金文字で刻まれていた。


益男の手が震えた。


箱を開けると、そこには干からびた人間の腕が横たわっていた。


皮膚は蝋のように黄ばみ、指は不自然に長く、爪は黒く変色していた。


吐き気を催しながらも、益男は確信した。


これは父の腕だ。


幼い頃に見た、火傷の痕が残るあの腕だった。


なぜここに? どうしてこんな形で? 混乱と恐怖が益男の頭を支配した。


だが、好奇心と何か得体の知れない衝動が彼を突き動かし、箱を抱えて屋敷の主の寝室へと足を進めた。


寝室の扉を開けると、老人がベッドに横たわっていた。


白髪の男は、侵入者に驚く様子もなく、ただ静かに益男を見据えた。


「その箱を手にしているな」と、老人は低く呟いた。


「知りたいか? 呪術の手の秘密を」


益男は声を絞り出した。


「これは何だ? なぜ父の腕がここに?」


老人は薄く笑い、まるで古い物語を語るように話し始めた。


「その腕は、願いを叶える。だが、代償を伴う。一つの願いにつき、指が一本落ちる。


願いの大きさに応じて、必要な指の数は変わる。簡単な願いなら一本、困難な願いなら二本、三本…。


だが、欲深な願いや叶わぬ願いを口にすれば、指は落ち、腕そのものが奪われる。そして、その持ち主の腕が新たな『呪術の手』となるのだ」


益男の背筋が凍った。


「父は…この腕に願いを望んだのか?」


老人は目を細めた。


「お前の父は、欲に溺れた。叶わぬ願いを口にし、腕を奪われた。おそらく、その後も彼は呪いに縛られ、彷徨ったのだろう」


益男の心は恐怖と怒りで煮えたぎった。


父を奪ったこの腕を、呪いを、壊してやりたいと思った。


だが、同時に別の声が頭の中で囁いた。


願いを叶えられるなら…。


貧困、孤独、不遇な人生。


すべてを変えられるかもしれない。


「試してみるか?」老人が囁いた。


「ただし、慎重に選べ。欲が呪いを呼び込む」


益男は箱を握りしめ、震える声で願った。


「金持ちになりたい。贅沢な暮らしがしたい」


部屋に重い沈黙が落ちた。


すると、箱の中の腕が微かに動き、親指がポトリと落ちた。


益男は息を呑んだ。


翌朝、屋敷を出た彼のポケットには、なぜか分厚い札束が詰まっていた。


だが、喜びは長く続かなかった。金は確かにあったが、益男の周囲には不穏な影が忍び寄った。


夜な夜な、足音が聞こえる。


誰もいない部屋で、誰かの視線を感じる。


鏡に映る自分の背後には、常に何か黒い影が揺らめいていた。


数週間後、さらなる欲に駆られた益男は再び箱を開けた。


「もっとだ。権力を。誰も逆らえない力をくれ」


腕が再び動き、人差し指と中指が同時に落ちた。


次の日、益男は地元の有力者から突然のビジネス提案を受け、瞬く間に街の有力者として名を馳せた。


だが、影は濃さを増した。


夜、寝室の窓に無数の手形が浮かび、朝には消える。


益男の夢には、父の顔が現れ、片腕を振りながら「お前もだ」と囁いた。


恐怖と欲望の狭間で、益男は最後の願いを口にした。


「この呪いから逃れたい。普通の人生をくれ」


箱の中の腕が震え、残りの薬指と小指が落ちた。


だが、願いは叶わなかった。


代わりに、益男の左腕に激痛が走った。


見ると、肘から下が消え、血も流れず、ただ切り口が滑らかに閉じていた。


箱の中には、益男の腕が新たに加わり、父の腕と並んでいた。


老人の言葉が耳に蘇る。


「叶わぬ願いは、腕を奪う」


益男は叫び声を上げ、箱を投げ捨てた。


だが、箱はまるで生きているかのように彼の足元に戻ってきた。


屋敷の外では、無数の手形が窓を叩き、ドアを揺らし、益男を追い詰めた。


翌朝、屋敷は静寂に包まれていた。


書斎の床には、黒檀の箱だけが残されていた。


蓋が開き、中には二本の腕が収まっていた。


どちらが父のものか、益男のものか、もう判別することはできなかった。


箱の表面には、新たな文字が刻まれていた。


「呪術の手 - その所有権は、他者に奪われ、使われた場合にのみ移る」と――

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呪術の手 をはち @kaginoo8

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