常夜の森のふたり

朽葉陽々

謁見

 ひとつ風が吹いて、魔女は目を上げた。

「おや、……そうなんだね」

 彼女は古き魔女だったから、その風から過たず知らせを受け取る。

 かの常夜の森が、遂に王を頂いたのだという、その知らせを。



 そうと分かれば、さっそく出掛けなくては。かの森と長く付き合いのある古き魔女としては、森の意思の具象たる王に目通りしないわけにはいかない。

 王に謁見するにはふさわしい衣装が必要だ。魔女は久しぶりに、屋敷の奥にある特別なクローゼットを開けることにした。

 特別な、と言えど、そう大仰なものは入っていない。古き魔女は人間と関わることはあれど、人間の造る社会には関わらない。だから、人間たちが必要と決めているような礼装などは持っていない。せいぜい、いつも着ているよりも上等な布でできたマントくらいのものだ。滅多に開けないクローゼットに入れていたおかげで、いつも作る薬の匂いも染み付いていない。同じ布で作った大きな帽子もきちんと被った。

「ああ、そうだ」

 あれを忘れてはいけない。魔女はクローゼットの隅から、小さな宝石箱を取り出すと、その中から一つのブローチを摘まみ上げた。

 昼の陽射しの下にある魔女が、常夜の森への立ち入りを許された証。黄金色の陽射しの欠片に、常夜の森の木漏れの月光と、それを受けた夜露を据え付けたブローチだ。マントの胸元にそれを留めて、準備は完了だ。

 常夜の森は、この屋敷からは遠く離れた場所にある。しかしそれと同時に、何よりも近く、隣同士にあるとも言えた。どちらも人間の世界とは隔絶された、別の位相にあるということには違いないのだから。

 屋敷の扉を開けて外に出る。特製の箒は手入れを怠っていないから、魔女の言うことを聞いてどこまでも飛べる。位相や次元を飛び越えるのも、この箒と魔女であれば呼吸のように容易なことだった。

 箒はどれだけあったか分からない距離を、あっという間に飛び越える。魔女は屋敷を出た数瞬の後には、常夜の森の入口に着いていた。

 常夜の森。いついかなる時も夜空に覆われた暗き森。鬱蒼とした森に、まだ足を踏み入れてはいないのに、魔女の周りはすでに暗い。月と星の灯りだけが頼りだ。

 魔女はその暗さの中でも、迷うことなく足を進めていく。彼女はこの森より年上で、ここを何度も歩いている。暗さも静けさも、慣れ親しんだものだ。そのまま何時間か歩いて、ようやく魔女は足を止める。

 常夜の森の中心。

 月光が真上から差すそこに、一つの澄んだ泉があった。動物も精霊もいないこの森の、唯一の水源にして栄養源たるその泉は、小さな白い岩の集まる中から湧き出ている。

 その泉が、岩こそが、この森の玉座。いつか現れる王を待ち、王の証を安置していたそこに、今、見知らぬ影があった。

「……驚いたな。きみ、人間か」

 擦り切れた白いシャツ、細身のデニムパンツ。素足も手も骨ばってはいるけれど、月光で輝いて見えるほどに白い。それとは裏腹に、瞳は荒み切った黒。魔女の声に、緩慢に振り向く。

「……あんた、誰だ?」

 その少年の声は掠れてはいたけれど、まだ低くなってはいなかった。恐らく、十代の半ばにも達してはいまい。子どもであるのなら、ただ迷い込んでしまっただけかとも思ったが、彼の首から下がるペンダントを見て、魔女はそうではないと得心する。

 常夜の森に溢れている、木漏れの月光。それを受けた夜露。それらの中でも特に澄んで、特に光るものだけを、星屑の華奢な鎖で繋げたもの。それがこの森の王の証。頭上に頂く冠の代わりであり、王たるべきその魂を森に繋ぎ止めるもの。

 それを身につけ、自分にしっかりと似合わせている。その有り様はまさに、常夜の森の王の姿だった。

「わたしは魔女。この森をずぅっと知っている、古き魔女だよ」

「魔女さん、か。僕は……すまない、名前を、失くしてしまって」

 少年の言葉に、魔女は目を見開く。人間は確かに、魔女や森に比べれば無知だけれど。自分の名前を簡単に失くしてしまうほどに愚かではなかったはずだ。

(……もしや、他の記憶もないのかねぇ)

 少年は訝る魔女をよそに、ぼんやりと白い岩に座っている。その様子はいかにも呆けたように見え、魔女は少しだけ不安になった。これはもしかして、王になった経緯も理由も、そもそも自分が王になったことすらも、よく分かっていないのではなかろうか。

 それはよくない。魔女は少年に訊ねてみることにした。

「きみは、どうやってこの常夜の森に来たんだい?」

「……分からない。ここは、『常夜の森』というのか」

「ああ。朝の来ない森。いつだって暗くて、いつだって寂しい森。……人間のための場所じゃないから、普段は人間が入ってくることはないんだが」

「ああ、だから、『どうやって』と訊いたのか」

 記憶もなく、状況も分かっていない。けれど、彼の目には理知の光が宿っていた。ぼんやりしているように見えたのは、他の事象に対して困惑して、分析して、それに掛かりっきりになって反応できずにいたからだろう。

「……なあ、あなたは、魔女さんは、ここに詳しいんだよな?」

「そうだよ。何せ、この森がまだただの茂みでしかなかった頃からの付き合いだからね」

「そうなのか。……なあ、だったら。僕が誰なのか、……何なのか、知っていたりはしないか? この森に詳しいのなら、この森にいる僕がどうあるべきか、教えてくれはしないだろうか」

 彼の声に、初めて色が宿った。ほとほと困り果てていると、これ以上なく示す声。それを聞いて、古き魔女は深く頷く。

「――その言葉を、待っていたよ」

 魔女は笑む。この森でもっとも輝かしいものが王であるなら、もっとも華やかなものは彼女の笑みであるかのように。王たる少年はそれに目を奪われる。

「待っていた、って……」

「ああ、ずっと待っていたとも。あなたが現れることも、あなたが助けを求めることも。何せ私は古き魔女。この森を、その意思を、孤独を、ずっと見届けてきたのだからね」

 この森は常夜の森。獣も鳥も虫も人も知らない、神も魔も霊も精もいない。何もかもが寄り付かない森。澄んだ泉も、降り注ぐ月と星の光もあるけれど、それ以外は何もない寂しい森。

 森の意思は、それを酷く悲しんだ。誰に助けられることもなく、誰に頼られることもない。何を導くこともなく、何に支えられることもない。そんな自分の孤独を厭うた。

 だからこそ、常夜の森は王を求めた。自分が頼り支えられるものを、自分が助け導くものを求めたのだ。

「あなたは、この常夜の森の王。そして、この森の意思そのもの。この森がずっと求めていた、冠の座であり、きみがずっと求めていた、きみの居場所だ」

「森の、王……」

 少年は呆然と繰り返す。言葉の意味に、まだ実感が湧かないのだ。それでも彼は、懸命に思考を巡らせる。

「つまり、……つまり、この森には心がある、ってことか?」

「ああ。それはどんなものにだってそうだ。きみや私がそうであるようにね」

「……それで、その心が、寂しがっていた」

「ああ、だって、ここには誰もいないのだから。せいぜい、たまに私が来るくらいだね」

「……だから、寂しいから、王が欲しくて。それに、僕がなった、ってことか」

「ああ、その通りだ。私は古き魔女として、あなたの戴冠を言祝ごう」

 魔女がそう言って、恭しく跪いてみせる。けれど王たる少年は、それに戸惑うばかりだった。

「……その王が、何で、僕だったんだ? 魔女さんは、この森の気持ちを知っていたんだろう。なら、あなたが王になったって良かったんじゃ」

 魔女は跪いたまま、首を横に振った。

「それはできない。魔女というのは、王にはなれないものだからね」

「そういうもの、なのか?」

「そういうものだよ。魔女は神や主にはなれても、王にはなれない。なったとしても、上手くいくわけがない」

 少年には、魔女の言葉の意味が分からない。彼は決して馬鹿ではないけれど、それでも悠久を生きる魔女の知見には敵うはずもない。そもそも記憶だって失くしているのだ、彼女が当然のものとして語る知識に、実感など持てなかった。

 首を傾げて黙り込むばかりの彼を見て、魔女はほんの少し、表情を和らげた。今の話は確かに、人間には難しいだろうと認めたのだ。

「……それにこの森は、互いに助け助けられる王を求めていた。誰かを助けることはあっても、助けられることのない魔女は、それに相応しくないだろう?」

「うん、それなら、少し分かる気がする。魔女さんは、僕のことも助けてくれている。この森のことを想ってくれている。けれど僕たちには、あなたの力になる方法は思いつかないから」

 少年は、自分と森とを一緒くたにしてそう言って、けれど、と言葉を続けた。

「あなたが王にならなかった理由は、飲み込めたけど。……僕が王になった理由は、やっぱり、分からないな……」

 なぜ王になったのか。それが分からないまま、王であることはできるだろうか。少年には、それは、とても難しいことだという気がした。冠があっても、領地があっても、それを持つことのできる理由が、正当性がなければ、それはこの森という重みを負えるだけの足場がないも同然だという気がしていた。

「ふむ。もしかしたら、きみの『これまで』に、何か理由があるのかもしれないね」

過去これまで……」

 少年の中に、確かにあったはずのもの。けれど今は失くしているもの。それこそが理由だというのなら、一体どうすればいいのだろう。失くしてしまったものを、よりどころにはできない。

「……残念ながら、もし本当にそうだとしたら、私はその部分をどうにかすることはできない。忘れているだけならともかく、失くしてしまったものを取り戻すことはできない。けれど」

 表情を曇らせる少年に、けれど魔女は変わらずに微笑みかけている。

「失くした過去があったことさえ忘れるくらい、あなたがこの森を、自分のものであり、寄る辺であると真に思えるようになるまで、あなたを支え続けることはできるよ。あなたはこの森の王であり、この森の意思そのものでもある。それは揺るぎない事実なのだからね」

「……支え、続ける……」

「ああ、そうだとも。私はあなたという王を、永遠に支え、助け続ける。古き魔女の矜持に懸けて、そう誓うよ」

 魔女は胸を張って言う。けれどその声は力強い自身よりも、温かく柔らかな優しさと祈りに満ちていた。それを見て、聴いて、その意味を理解して、

「……何で?」

 少年は、思わず首を傾げる。

「何であなたは、そんなことが言えるんだ。僕は、あなたに返せるものなんて何もないのに……」

「返されるものなんていらないよ。だって、もう充分に貰っている」

「何も、渡したつもりはないよ。僕も、森も」

「貰っているさ。きみがこの世界に生まれた、その瞬間に」

「……一体、何を?」

 魔女の目は、心底から愛おしいものを見つめている。その視線の理由が分からないから、少年はいたたまれずに身を縮ませてしまう。それを見てさらに瞳を柔らかく潤ませながら、魔女は問いに答えた。

「きみが王になったという事実。きみが、王になり得るものとして生まれてきてくれたという、事実そのものさ」

 魔女は、王の存在を、王となる少年の命そのものを喜んでいた。寄る辺なさで自信を失っている彼の全てを認めていた。この祝福が、彼の心に灯ることを願っていた。

「この森はずっと孤独だった。私はそれを知り、ずっと見届けてきたけれど、それを救うことはできなかった。けれど、きみはそれを成し遂げた」

「……そんなの。きっと、僕自身の力じゃない……」

「力ではなくとも、きみはそういう存在としてここに現れてくれた。ずっと孤独で、ずっと王を求めていたこの森が、遂に王を戴いた。それはとても喜ばしいことなんだ」

 魔女は微笑みかける。少年に、この森全てに。

「生まれてきてくれて、ありがとう。王になってくれて、ありがとう。きみの存在そのものが、私にはとても嬉しい。だから、きみが困ったり、悩んだり、苦しんだりするのなら力になりたいんだ」

 少年は目を瞠る。魔女の言葉は、それがまるで瞭然の事実であるかのように響いていた。彼が信じることのできないでいる、彼という王の正当性を、その命ごと肯定していた。けれど、真に驚いたのはその言葉に対してだけではなく。

 魔女の言葉が、微笑みが、温かな意思が、少年にとって、あまりに嬉しいものであると感じられたことだった。自分が王となる理由が分からない不安を、丸ごと抱きしめられたから、というだけでなく。それは、まるで、

(ああ、……何でだろう。僕は、ずっと)

 ――それを、ずっと、求めていたような。

 その喜びは、失くしてしまった過去に因るものなのか、この森が抱えていた孤独に因るものなのか。彼には判然としなかったけれど、それでも。

(……ならば、僕は。僕たちは、応えなくちゃ)

 祝福を、貰ったのだから。この少年の命こそ王であると、信じ、認めてくれたのだから。ならば、その信頼に応えなければ。

 まだ自信はない。王として何をすべきかも分かっていない。きっとしばらくは、古き魔女に頼りっぱなしになってしまうだろう。でも。

「……ありがとう、魔女さん。それじゃあ、改めてお願いするよ」

 少年は立ち上がる。泉から流れ出た澄んだ水が、白い素足を濡らした。胸に下がった月露と星屑が煌めく。星と月の灯りが降って、少年の頭上で王冠を模った。

「常夜の森の王の名において、古き魔女に要請する。の傍で、を助けてくれ。そして、僕が王の責務を一人で負えるようになるまで、見守ってくれ」

 背筋を伸ばし、薄く笑んで告げる。ぎこちなくも、確かな重みを持って告げられた要請に、古き魔女は深々と頭を垂れた。

「古き魔女の名において、常夜の森の王に誓いましょう。あなたが王として胸を張れるその日まで、あなたを支え、見守り続けることを」

 魔女の言葉に、王たる少年は小さく頷く。

 そして二人は連れ立つと、森の中を見回り始めた。



 常夜の森。いつだって暗くて、いつだって寂しい場所。

 けれど同時に、その森はいつだって平和であった。

 少年の姿をした王と、彼を助ける古き魔女の手によって、いつまでも、いつまでも。

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