舫い糸
ヲトブソラ
舫い糸
ざざ……っ、きゅ、きゅい。ごとん、ごろっ、ごと。
舟と舟がこすれあって、ぶつかる音だ。今晩、波が高くなるなんて言っていたかな。きゅ、きゅっ。舟が直接ぶつかって壊れないように取り付けている廃タイヤが擦れる音 ── これ、つける必要がないっていいと思わない? ── でも、どこかが強く、ごとん、ごとん、と打つ音がする ── やってることは同じなのに ── 舟をつなぐ縄、なんていう名前だったかな…………。
そうだ。
舫い、だ。
夢から覚めると、たまに不思議だなと思う光景が入ってくる。すーすーとやわらかい寝息を立てて眠る〝彼女〟がいるのだ。そして、わたしが夢で目覚めるのは、決まって恋人とセックスをした夜半。決まって自分が同性愛者だと気づいたのは、いつだったかと考えている。
──── コンビニに行ってきます。
そう書いてキッチンのテーブルに置き、古く重たい金属製のドアを音が鳴らないように扱った。
ばたばたと風が鳴く。暦ではまだ秋と言っても海風は冷えるから、薄手でもトレンチコートを羽織ってきてよかった。路地は暗く、細く頼りない外灯も足元が汐風で錆びて鈍色になり頼りない。
いつだったか。わたしが恋をする相手が同性だと気づいたのは。幼稚園の頃には男の子より、好みの女の子を見ていた。小学生の頃は周りの友だちに感化されてか、噂の男の子を目で追うこともあった。
気づかれまいと追うその顔も気持ちが先に走って、顔が向いているのだから気づかれていたと思う。
ただ、わたしは皆とはちがう、あさっての方向に視線を向けていた。
ひとつひとつ、皆とはちがうと知るたびに、ぷつ、ぷつ、と、糸が切れる音が聞こえ始めたのも、この頃からだ。
猫。
暗がりの路地にいるわたしを、頼りになる灯りが照らす大通りから見つめる猫がいた。海の町、ちいさくとも港町なのだから、猫がめずらしいわけではない。灯りのなかにまで歩き、猫のよこで立ち止まる。
「やあ。こんばんは」
コートに手をつっこんだまま、見下すように声をかけると、猫は暗い路地に消えていった。しまった、猫様に声を掛ける態度ではなかったのだ。猫の高貴な心に不快を抱かせぬよう接しなかったから、また糸が一本切れてしまった。
大人になって驚いたことのひとつが、街のコンビニは深夜でも「いらっしゃいませ〜」と言ってくれること。この町のコンビニでは深夜帯になると、若い男の子が無視をして迎えてくれる。疲れていたり、弱っている時には ── そんなに嫌ならいなければいいのに ── と責めてしまうほど、客が入ってきていないような無関心。ビールを一本買い「ありがとうございました」とも言われず、コンビニから出た。
コンビニに面した大通りは国道で、この辺りはこの道しかない。朝夕はひどい渋滞になるのに、この時間なら道路に寝転がれる。そんな交通量でも律儀に押しボタン式の横断歩道を渡り、煌々と暖色に照らされた長い防潮堤に沿って歩いた。
ばたばたと鳴る海風が、きゅ、きゅい、と舟の緩衝材を鳴かせる。受け止めきれなかった揺れで、ごとん、ごろっ、ごとっと舟が鳴く。流されたり、潮の流れに偏ってしまわないように舫う。
「寒いね」
声に振り返ると、寝ているはずの先輩がパジャマに不釣りあいな色のカーディガンを羽織り、その上にまた似合わない色のツイードコートを羽織っていた。
「先輩? 着合わせがめちゃくちゃですよ」
「あー……まあ。そりゃあ、ねえ?」
かきっとビールの蓋を開けて缶を傾け、横目で彼女が履いているスニーカーの紐もくちゃくちゃだったから「それもそうか」と思った。
防潮堤にぶら下がるように両腕を預けて、ちびちびと独りでビールをすする。彼女はすこし離れていて、片手だけ防潮堤のてっぺんに添え「港のなかでも波の音は聞こえるんだね」と、満ち潮でちゃぷちゃぷと鳴る音を〝波〟と表現した。
「先輩は自分自身が同性愛者だって、いつわかりました?」
「どうして、そんなこと聞くの?」
「そんなことを考えていたからです。他意はないです」
そうだなあ……と傾げる顔の骨格が綺麗、首筋も綺麗。そこにキスをしたり、甘噛みをしていたと思い返すと嗜虐心が現れる。輪郭に添えられた細い指が、わたしのなかをかき混ぜていたと思い出すと鼓動がはやくなる。
「高こ…いや、中学生かなあ……? たぶん」
「それは〝自覚〟ですか? 〝理解〟ですか?」
「えっ? えーっと待って、むずかしっ!」
わたしがしてきた恋というやつが、性行為を含む感情だとわかったとき〝世界に独りぼっち〟になってしまったと血の気が引いた。間違っているとか、いないとか、普通だとか、普通じゃないとか、おかしいとか、おかしくないとか、そういう価値観や道徳は学校で習っていた。それのに、ある日、わたしが目で追いかける女の子と〝そういうこと〟がしたいと思っていることに気づいた時、たくさんの糸が切れる音がした。
「先輩。この町、田舎でしょ?」
「ああ……まあ。でも海が近いし、空気がきれい」
「わたしは海が嫌いです。実家のほうが空気は綺麗です」
「でも、私はこの町が好きよ」
わたしは海がきらい。どうしようもなく潮騒が怖い。畏怖というやつだ。ちゃぷちゃぷと鳴る音も、わたしのもとに海が集まってきているようで、こわい。空気だって、ここから車で2時間ちかく離れた実家のほうがきれいだ。それなのに自立を決めたとき街まで出ず、実家から2時間の海の町に家を借りた。
「今日、いや昨日か。先輩がドラッグストアでゴムを見て ──────── 」
──────── やってることは同じなのに、これを着けないっていいね。
「わたしとのセックスって、そんなに軽いものですか?」
「え? いや、そういう意味で言ったんじゃ……」
「わかりますよ。直接擦りあわせたり、指使いで跳ねる体を抑えつけたり」
「ははは……。まあ、うん。軽率な発言だったかも」
「わたしはそんなに軽くセックスのことを考えていないです」
わたしには、わたしの好きな人と子どもをつくる身体機能が備わっていない。だからといって、避妊具がいらないからいいなんて、軽く楽しむような性行為はしたくない。今まで関係を持った恋人とは、子どもを孕ませるつもりで付き合ってきた。
「どうして、子どもができないんでしょうかね」
「いや……それは、まあ…………女同士だし?」
糸は細く短い繊維を撚り、紡いでできていく。一本の糸には何本もの関係が束なっている。わたしが生きるには多くの舫が必要なのも知っている。でも、同性愛者だというだけで、わたしの愛というものが歪に見られるのが、ひどくつらい。
わたしを繫ぎ留める舫は、一本いっぽんが糸だ。同性愛者だということだけで、すぐに切れてしまうこともある。港のなかで他の舟とちがい、すぐに揺られて傾き、近しい舟とぶつかってきた。
「ねえ? もしかして実家に近いってさ」
「わたしは勘当されてますよ」
「じゃあ、海にちかい町に住んでいるのって」
「怖くて、心がいたい程度がいいんです」
「遠くの街に引っ越すとあなたを知っている人がいないからでしょ」
「そうですよ。それが一番こわいに決まってるじゃないですか」
わたしが一番怖いのは子どもの頃に馬鹿にされたり、距離を置かれたりした同級生や幼馴染が「おーっ、元気にしてるー?」や「仕事どう? ちゃんと休めてんの?」と声をかけてくれない街に行くことと、勘当されたはずの親から送られてくるみかんが住所不明で届かなくなることだ。
舫が糸であっても、わたしが流されないように繫ぎ留めてくれている糸は切りたくない。
「先輩にとって、わたしは生涯をともにするパートナー探しの一人かもしれない。でも、わたしは先輩でないといやです」
缶に残るビールは手から伝わる熱でぬるくなっていた。口に含んだときに知ったけれど、そのまま飲み干す。わたしの舫はひどく頼りない。
「ねえ?」
「なんです? 幼稚なわたしに愛想がつきましたか?」
「相変わらず、幼稚で捻くれたところが可愛いなあ、と」
「なんですか、それ」
わたしがいないことに急いで探しに来てくれたから、コーディネートがめちゃくちゃな先輩の首元に顔埋めて甘えて泣く。わたしを支える舫は糸のように細いものばかりだ。それは太くしようと人間としての真摯な付き合いをしてこなかった結果でもある。糸の細さでも、わたしと繋がっていてくれる人たちがいる。
「どんなかたちであれさ、もっと恋人を自慢できる世の中になればいいね」
「……っふ。うぐ。そのまえに先輩は、着合わせに気をつかってください」
「ははは。そこかあ。まあ、そーね。このカーディガンはひどい」
「足元からぜんぶでずっ。ぐす」
世界に独りぼっちだと血の気が引いた日からわかったことは、舫が糸であれ、繋がっていれば独りぼっちではないということ。同性のことを好きであるわたしだけが、わたしの全部ではないと教えてくれた友人がいたこと。
「そんなに不安なら会社でも『付き合ってます!』って言っちゃおうか?」
「ずずっ、ううっ先輩のいじわる。そんなの怖いじゃないですか」
「えぇー……。名案だと思ったのになあ……」
「寒いです。家帰りたい。コンビニでおでん買いたい。買って」
「えぇー……。ツンツンしてたのに甘えん坊ーっ?」
涙と嗚咽と鼻水が止まらないわたしは、先輩に手を繋がれコンビニのおでんが入った袋を持って、防潮堤沿いを歩いた。満ち潮が舟を動かし、きゅ、きゅい。ごとん、ごろっ、ごと、と、擦れ、ぶつかる音を立てる。人も同じ。だから舟の横に廃タイヤを付けて隣の舟を守り、大きく揺れないように舫で繋ぐ。
まだ恋人のことを自慢できない港にいる。でも、決して世界に独りぼっちではなく、舫いで繋がっているのだ。
おわり。
舫い糸 ヲトブソラ @sola_wotv
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