File 9:『翠緑の聖域、あるいは美しき牢獄』
聖泉の会事件から、季節が一つ巡っていた。
俺、蓮見司は数ヶ月ぶりに国税庁の自席に戻っていた。長かったリハビリはようやく終わりを告げ、形式上は現場への復帰が許可された状態だ。
だが、俺の身体は完全には元に戻らなかった。
左手には意識しなければ気づかない程度の、ごく微かな震えが残っている。それはあの爆発の際に神経系に受けた損傷の後遺症だった。日常生活には支障ないものの、精密な動作や極限状態での身体制御には明確なリミッターがかかってしまった。医者は順調に回復していると言うが、以前のような戦闘機動が金輪際不可能かもしれないと考えると、気分が晴れることはなかった。
「おかえりなさい、蓮見」
声の主は、神崎統括官だった。彼女は俺のデスクの前に立つと、一枚のデータディスクを置いた。その表情は普段の冷静さに加え、わずかな気遣いの色を滲ませている。
「復帰早々で悪いけれど、早速、仕事よ」
俺がディスクを端末に挿入するとモニターには鬱蒼とした森林の写真と、行方不明者の情報が表示された。
「国土交通省のダンジョン環境調査員が、奥多摩山系の『原生林ダンジョン』で消息を絶ったわ。一週間前のことよ」
「……原生林ダンジョン? 確か、あそこは……」
「ええ。二十年前に確認された、極めて珍しい『環境変異型』ダンジョンの一つ。特定の入り口があるわけではなく、広大な森林地帯そのものが異界化しているタイプよ。それ故に、外部世界との『境界』の特定も、内部調査も非常に困難だった」
神崎統括官は行方不明の調査員の顔写真を拡大する。人の良さそうな、研究者然とした男性だ。
「先行した調査員も、あなたと同じダンジョン適合者だったわ。ただし、戦闘能力は皆無の、純粋な研究者タイプ。……そして、彼は帰ってこなかった」
「……状況は?」
「送られてくる彼のバイタルは確認できている。特に怪我をしているというわけではないわ」
神崎統括官は一旦そこで話を区切り、じっと俺の目を見る。
「そもそも彼に行ってもらったのは環境変異型で森林という特性ゆえに、正規の入り口も不安定で以前の記録がアテにならないから……つまり、通常の救助隊では内部に進入できないのよ。今回の件、適合者であり、且つ戦闘能力を持つあなただけが内部の調査と調査員の救助ができる、ということね」
彼女は、俺の左手に一瞬だけ視線を落とした。その視線に含まれる意味を俺は正確に読み取る。
「ただし、無茶は禁物よ。今のあなたに、以前のような無理は許されない。あくまで、調査員の安否確認と救出が最優先。……分かっているわね?」
「承知しました。……ちなみに、そのダンジョンが発生している土地の所有権と納税状況は?」
俺の問いに、神崎統括官は少しだけ顔をしかめて答えた。
「……所有者は、『アーク・イノベーション』の子会社の一つになっているわ」
その名前を聞いて、俺も僅かに眉間に皺を寄せた。
「アーク・イノベーション……代表者は、天堂義彰。ただ、担当の税理士曰く、『管理はしておらず、ただ納税業務を委託されているだけ』と臆面もなく言っていたそうよ」
キメラ事件の時に壬生隼人の会社に出資していたベンチャーキャピタル。そして、あのマッドサイエンティスト、冬月晋一郎が潜んでいた廃工場の、過去の登記情報。それらに関わっていたのは、そのアーク・イノベーションだ。事件の後に天堂義彰という男も洗うべきだと俺は主張したものの、上層部の判断で調査は見送られたが……。
(……嫌な予感がするな)
俺は、内心のざわめきを押し殺し、静かに頷いた。
「分かりました。現地へ向かいます」
後遺症(ハンデ)を負っての、最初の任務。それが、これまでのどの事件とも違う未知のダンジョンに、あの男の影までちらつくとは。
復帰戦はもう少し手加減してほしいものだが、適任が他にいないのなら仕方がない。ろくな事件じゃないことを祈るだけだ。
翌日、俺は指定された奥多摩山系の山中深くに立っていた。
目の前には、鬱蒼とした原生林が広がっている。だが、その一歩先から空気が奇妙に歪んでいた。まるで陽炎のように揺らめく、不可視の壁。ダンジョンと外部世界を隔てる『境界』だ。一般的なダンジョンが広がる空間に横穴を掘ったとしても、同じようにこの『境界』があり、侵入はできない。
だが――。
俺はゆっくりと右手を差し出す。指先が境界に触れた瞬間、パチパチ、と静電気のような微かな抵抗を感じた。しかし、それだけだ。通常の人間であれば、弾き飛ばされるか、あるいは強い衝撃を受けるはずの魔力障壁が、俺の指先が触れた部分だけ、水面のように僅かに波紋を描き、受け入れるようにその抵抗を弱めていく。
(……適合者であれば、『境界』を中和して抜けることができる)
もっとも、適合者といっても大した存在ではない。俺自身、その仕組みを理解しているわけでもなく、ダンジョン内のほうがなぜか地上より呼吸しやすい――せいぜいその程度の違いを感じられるだけだ。ただ、それでもダンジョンにより近い人間の能力として、こういった事ができる。
俺はそのままゆっくりと空気の歪みに身体をめり込ませ、内部へと滑り込んだ。
境界を抜けると、濃密な空気に思わず顔をしかめる。高い湿度に、土と、苔と、そして未知の花々の甘い香りが混じり合い、肺を満たす。
そこは息を呑むほど美しい、手つかずの自然が広がっていた。
陽光は木々の葉を透過し、エメラルドグリーンの光のカーテンとなって降り注ぐ。足元には、水晶のように透明な小川が流れ、見たこともない色彩の小鳥たちが、警戒心もなく俺のすぐそばを飛び交っていた。木々の間からは、小型の鹿に似た、柔和な顔立ちのモンスターが、好奇心に満ちた瞳でこちらを見ている。
日本の森林とは思えない楽園のような風景が、ここは既にダンジョンであることを強烈に主張していた。
俺は調査員のバイタルが発信された大まかな地点を目指し、森の奥へと進んでいく。
だが、数分も歩かないうちに、俺は眉をひそめた。
道の脇、巧妙に木の葉で隠された落とし穴。木の枝に結びつけられた、振り子の罠。足元の蔓に擬態した、拘束用の結界。
至る所に、侵入者を排除するため……というにはあまりにも凶悪な罠が仕掛けられている。当然ながら犯罪だが、どれも専門家の仕事ではない。ただ、素人による手作り故に型にはまらず、実に巧妙に自然の中に溶け込んでいた。
(……なるほど。罠で捕らえられたか。さすがにただの調査員には突破は難しいだろうな)
俺はこれらの罠を慎重に避けながら、さらに奥へと進む。やがて、小さな開けた場所に出た。そこには、丸太で作られた簡素な小屋が建っていた。調査員が捕まり、そして生きているのであればこの中で間違いないだろう。
さて、どうするか。俺は逡巡する。
罠の数と巧妙さを見る限り、この小屋の主は相当に用心深く、そして外部からの接触を極端に嫌っている。下手に近づけば、調査員を人質に取られる可能性もある。それに、今の俺の身体は万全ではない。不必要な戦闘は避けたい。
俺は少しの間思案した末、一つの結論に達した。
(……一度、捕まってみるか)
相手の懐に入り込み、状況を探る。それが現状では最も確実で、安全な方法だろう。
俺はわざとらしく周囲を見回すフリをして、小屋に最も近い、分かりやすい蔓の罠へと自ら足を踏み入れた。
瞬間、足首に絡みつく強靭な蔓。逆さまに吊り上げられる視界。
俺は情けない悲鳴を上げながら、宙吊りになった。
ややあって小屋の扉が開き、一人の老人が姿を現す。山仕事に使うような丈夫な服に身を包み、その顔には深い皺が刻まれている。ただ瞳だけが、森の奥深くのように静かで、底知れない光を宿していた。
(……なんだ、この感覚は)
老人と目が合った瞬間、俺の身体の奥深くで何かが微かに共鳴するような、奇妙な感覚があった。説明はできない。だが、この男は、ただの人間ではない。俺と同じ……いや、それ以上に、このダンジョンの魔力と深く結びついている。
老人は罠にかかった俺を一瞥しても驚くでもなく、まるで旧知の友人に再会したかのように語りだした。
「君のような『響き』を持つ者が来るのを、ずっと待っていたのだよ」
老人の言葉は奇妙ではあった。だが、その場にふわりと立ちのぼった説明のつかない気配が、俺の胸の奥に微かに共鳴した。――彼の言う『響き』とやらを、俺自身が確かに感じ取ってしまったのだ。だからこそ、老人をただの狂人と切り捨てることができなかった。
老人は俺を小屋の中へと招き入れた。内部は、書斎と研究室を兼ねているようだった。壁にはこの森の生態系を示す詳細な地図や、見たこともないモンスターの標本が飾られている。
そして部屋の隅。簡易ベッドの上には国土交通省の調査員であろう青年が横になっていた。顔色も良く、穏やかな寝息を立てている。外傷はなさそうだ。
「驚かせてすまなかったね。彼も君も、悪意を持ってここへ来たわけではないと分かっている」
老人は鏑木と名乗った。彼は調査員に毛布をかけ直すと、俺に向き直る。 「君が、ここへ入れたということは、君もまた、この森に……いや、ダンジョンそのものに『選ばれた』人間だということだ」
選ばれた、という言葉に少しだけ違和感を持つ。正規の入口さえわかれば、別に適合者でなくとも環境変異型のダンジョンに入ることはできる。
それに適合者といっても一万人に一人程度の確率で、そこまで特異というわけでもない。
俺の内心の疑問を見透かしたかのように、鏑木は静かに微笑んだ。
「世間では『適合者』など、ただ運が良いだけの人間、あるいはダンジョン内で少しだけ身体が丈夫になる程度の、曖昧な体質のように扱われているようだがね。……だが、本当は違う。我々は、ダンジョンの声を聴き、響き合う存在なのだ」
「ダンジョンに意思があるとでも?」
「そうだ。そして君の持つ『響き』は、あまりに強く、そして澄んでいる。……かつての私と同じだ」
鏑木は一度言葉を区切り、鏑木は懐かしむように目を細め、壁に飾られた一枚のスケッチを見上げた。そこには、細胞同士が奇妙に絡み合い、融合している図が描かれている。
「――私の過去を話そう。かつては大学で生命の進化を研究していたしがない学者だ」
「……」
「私は、二十年前にこの世界にダンジョンが現れた際、最初にその内部へ足を踏み入れた調査隊の一員だった。……いくつかのダンジョンを調べる中で目を引いたのが、この森の生物たちが持つ異常なまでの『融合耐性』だ」
「融合耐性……ですか」
「うむ。通常、異なる種の細胞を混ぜ合わせれば、激しい拒絶反応が起きる。だが、この森の生物は違った。彼らはダンジョンの濃密な魔力環境下で、異質なものを受け入れ、取り込み、自らの力に変える特異な性質を持っていたのだ」
鏑木の言葉に、熱が帯び始める。
「私は、その発見に震えた。もし、この『融合耐性』を人間が獲得できればどうなる? 脆弱な肉体を持つ我々もまた、ダンジョンという過酷な環境に適応し、新たなステージへと進化できるのではないか、と」
「……それが、キメラ研究の始まりだったと?」
「そうだ。私は大学を離れ、ある民間研究所でその研究に没頭した。……だが、それは過ちだった」
彼の表情が、一瞬にして深い悔恨に曇る。
「私の理想は歪められ、技術は兵器として悪用された。適合率の低い素体に、無理やり因子を埋め込み、自我を破壊して従順な怪物を作り出す……そんなおぞましい実験が繰り返されたのだ。そして、制御不能になった怪物が、多くの命を奪った……」
鏑木は、ぎゅっと杖を握りしめる。
「私は、全てを捨てて逃げた。そして、この森に舞い戻ってきたのだ。この場所こそが、あの忌まわしき研究の発端となった『融合耐性』を持つ生物たちの故郷。……私は、ここで番人として生きることを決めた。二度と、外部の欲望に、この聖域を汚させはしない、と」
なるほど。あの芸術的なキメラをどうやって作ったのか未だ謎だったが、それは冬月博士の類まれな才能ではなく素材の方にあった、というわけか。
となれば、そんな貴重な素材を生み出すこのダンジョンの登記上の持ち主――天堂は、やはりクロだな。
「鏑木博士。あなたの過去については理解しました。ですが、俺は『選ばれた』とか『共鳴』といった考えには同意しかねます」
「ほう?」
鏑木は、興味深そうに俺を見る。
「適合者とは、稀な体質ではありますが、あくまで生物学的な特異点に過ぎない。ダンジョンと『響き合う』というのも、恐らくは特定の魔力波長に対する生体的な共鳴現象でしょう。そこに、何らかの『意志』が介在するとは考えにくい」
俺の言葉に、鏑木は寂しそうに微笑んだ。
「君は、まだ『聞こえ』ないのだな。ダンジョンの声を」
「声、ですか」
「そうだ。ダンジョンは、ただの異空間ではない。傷ついたこの世界を修復しようとする、地球そのものの免疫機能のようなものだ。そして、我々適合者は、その『意志』に選ばれた媒介なのだよ。この世界と、あの世界の境を保つために存在する」
彼の言葉は、もはや科学者のそれではなく、預言者の響きを帯びていた。
未だダンジョンが何故存在するのか、に明確な答えを出せていない現在、世界免疫説などはまあ、ある程度主流に近いものではあるが――俺にはどうにも、この老人の思想にはついていけないようだ。
この俺が選ばれたなどと師匠が聞いたら、腹を抱えて笑うだろう。俺のこの力は、あの地獄のようなシゴきと、血反吐を吐くような鍛錬で掴み取ったものだ。ダンジョン適合者としてのメリットなど、ほとんど感じたことはない。
俺は、内心の反発を抑え、あくまで冷静に続けた。
「博士の理論は興味深いですが、俺は観測された事実とデータしか信じません。ダンジョンは、時に人を襲い、社会に混乱をもたらす危険な存在でもある。だからこそ、法の下で適切に管理する必要があるのです」
「管理だと? 愚かな。人間ごときが、自然の摂理を管理できるとでも?」
「……失敬。今の言葉は、俺の奢りでしたね」
俺は老人の鋭い眼光を正面から受け止め、静かに言葉を選び直す。
「訂正しましょう。一方的な管理ではなく、法の下での『共存』です。ですが、互いに干渉し合う以上、破滅を避けるためのルールは必要だ。そのためには、まず正確な情報が不可欠なのです」
俺は一歩踏み出し、真摯な眼差しを向ける。
「博士、あなたが保護している調査員を解放してください。彼の持つデータは、このダンジョンを正しく理解し、この森を守るためにも必要なはずです」
俺の説得に、しかし、鏑木は意外な反応を見せた。
彼は眠っている青年を慈しむような目で見つめ、静かに首を横に振る。
「……勘違いしないでくれたまえ。私は彼を無理に閉じ込めているわけではないのだよ」
「どういうことですか?」
「彼は、私の話を聞き、この森の在り方に深く共感してくれたのだ」
鏑木は、穏やかな声で続けた。
「ダンジョン適合者として思うところがあったのだろう。この特異な生態系が、企業の利益のために無遠慮に踏み荒らされればどうなるかを。……彼は自ら望んで、私からこの森の生態系と、それを守るための術を学ぼうとしていたのだよ」
「……鏑木博士。まさか、彼を巻き込むつもりですか」
「巻き込む? 人聞きが悪いな」
「事実でしょう。彼は一般人です。貴方のやっていることは、彼にとってリスクでしかない」
「勘違いしないでほしいが、私は彼に何かをやらせるつもりはない。手を汚させる気も、危険な橋を渡らせる気もない。ただの理解者であってくれさえすれば、な……」
老人の言葉には、嘘偽りのない響きがあった。
なるほど、バイタルが安定していたのも、彼自身に危機感がなかったからか。
俺はため息をついた。状況は想定よりも少しだけ複雑だが、少なくとも敵対的な監禁ではないことは分かった。だが、だからといって「話し合えば解決する」類のものでもないことは、痛いほど理解できてしまった。
俺が次の言葉を探して考え込んでいる、その時だった。
ピピッ、ピピッ。
書斎の隅にある古ぼけたモニターから、電子音が短く鳴った。
鏑木が眉をひそめ、億劫そうに腰を上げる。
「……やれやれ。また小蠅が迷い込んだか」
「侵入者ですか?」
「ああ。時折いるのだよ。金に目が眩んだ愚か者がな。大抵は『境界』を抜けられる適合者を金で雇い、数匹のモンスターを掠めていくコソ泥だ」
鏑木は、慣れた手つきで杖を手に取ると、軽く肩をすくめた。
「放っておいても森の罠にかかるだろうが、君たちに迷惑をかけるつもりはない。少し脅して追い返してくる。君は、ここで待っていなさい」
「手伝いましょうか?」
「無用だ。私の庭で迷子になった子供を叱る程度のこと。すぐに戻る」
彼はそう言うと足取りも軽く小屋の外へと出ていった。その背中には微塵の緊張も感じられない。
俺は老人の気配が完全に去るのを待ち、素早く彼の書斎の調査にかかった。壁一面の標本や地図は、どれも貴重なものだろうが、俺が探しているのはそこではない。
部屋の中を俯瞰し、俺の目は、机の上に無造作に開かれたままになっている一冊の古い研究ノートに向けられた。
そっとページをめくる。そこには、俺の知識を遥かに超える、高度な生体工学の数式と、「融合耐性因子」に関する詳細なデータが、びっしりと書き込まれていた。
続くページには、キメラ研究に関する、懺悔とも取れる記述が並んでいた。 『過ちだった。我々は、神の領域に踏み入るべきではなかった』
だが、俺の目を引いたのは、その次のページ。最近書かれたものらしい、インクの跡も生々しい記述だった。『――だが、ダンジョンの『意志』は、何を求めている?』『適合者の共鳴率の高低は、何によって決まるのか?』 『魔力波形の意図的な調律。それは、我々適合者に残された、唯一の対話の手段かもしれん……』
(……この男、キメラ研究から手を引いた後も、何か別の研究を続けていたのか)
神秘主義に傾倒した隠遁者。それが、俺の彼に対する第一印象だった。だが、このノートは、彼が今もなお、冷徹な科学者の目と、適合者としての類稀な才能を使い、ダンジョンのさらに深い真理へと迫ろうとしていることを示していた。
俺はノートを元の場所に戻し、何事もなかったかのように元の位置へと移動した。
そろそろ戻ってくる頃か。数人の密猟者程度なら、あの老人の罠と知識があれば造作もないはずだ。
だが、その時。
ズズズズズ……!
遠雷のような重低音が響き、小屋の床が微かに振動した。
続いて、先程の電子音とは比較にならない、けたたましい連続アラーム音が小屋中に鳴り響く。
「……なんだ?」
ただの罠の作動音じゃない。何かが、森そのものを踏み荒らしているような音だ。
俺が様子を見に行こうと腰を浮かせた瞬間だった。
「くそっ……話が違うぞ!」
勢いよく扉が開き、鏑木が転がり込むように戻ってきた。
その顔からは、先程の余裕は消え失せ、代わりに信じられないものを見たという驚愕と焦燥が張り付いている。
「あれはコソ泥などというレベルではない!」
鏑木がモニターに駆け寄り、キーを叩く。
次々と切り替わる監視カメラの映像。そこに映し出されていたのは、数人の密猟者などではなかった。
装甲車に近い大型のオフロード車両。武装した数十人規模の部隊。彼らは、チェーンソーや大型重機を使い、木々をなぎ倒しながら進軍していた。
「……正規の入り口から入ってきたのか」
俺の呟きに、鏑木が脂汗を浮かべて頷く。
「そうだ……! 適合者に裏道案内をさせるような、いつもの手口じゃない。奴らは、所有者しか知らないはずの『正面玄関』をこじ開け、真正面から土足で踏み込んできおった!」
モニターの中で、部隊は組織的な動きで森を制圧していく。麻酔弾の嵐が降り注ぎ、逃げ惑うモンスターたちが次々と網にかかっていく。
「この規模……それに、この手際の良さ……」
鏑木の指が震える。
「奴ら、数匹を掠めに来たのではない。この森の生態系そのものを、根こそぎ奪っていく気だ……!」
鏑木の頬に一筋の汗が流れる。
俺はモニターを再度見た。鏑木の言う通り、彼らは適合者ではあるまい。おそらく、この森の所有者――天堂から教えられた正規の入口から入ってきたのだろう。
モニターの中で、密猟者たちは麻酔銃で小型のモンスターを次々と捕獲していた。彼らの目的は明らかに、鏑木が言っていた「融合耐性因子」を持つ希少な個体だ。
リーダー格の男が、通信機に向かって得意げに報告しているのが、マイク越しに聞こえてきた。
「――こちらアルファ。ターゲットの捕獲、順調だ。『素材』は、すぐにでもクライアントへ送れるぞ」
クライアント――アーク・イノベーション、天堂。 間違いない。キメラ研究、そして、このダンジョン。全ての裏で、あの男が糸を引いている。
モニターを見ていた鏑木が、わなわなと拳を震わせ、怒りに顔を歪めた。 「……許さん。あいつらは、また、あの過ちを繰り返すつもりか……! この森を、あの忌まわしき研究のために……!」
鏑木は小屋の壁にかけてあった猟銃を手に取ると、外へ飛び出そうとする。
「待ってください、博士。危険だ」
「分かっている! だが、ここで奴らを止めねば、危険なのはこの森だけではないぞ!」
キメラ研究への負い目があるのだろう。老人からは強い覚悟が見て取れる。だが、あの武装した連中相手に彼一人では無謀すぎる。
俺は静かに立ち上がると戦闘に備えて軽く肩を回した。左手に微弱な疼痛と震えが走るが、無視する。
「……博士。あなたは、調査員と、この小屋の防衛を」
俺は鏑木の肩に手を置き、静かに言った。
「奴らは、俺が引き受けます」
俺は老人が何かを言う前に小屋を飛び出し、森を疾駆した。派手な音をさせている方向へと進めば、すぐに密猟者たちの元へとたどり着いた。
「あ? なんだテメェ」
リーダー格の男が、唾棄するように言った。彼らは、俺を鏑木の仲間か、あるいは、ただ迷い込んだだけの一般人だと思ったのだろう。その目には完全な侮蔑の色が浮かんでいる。
「悪いが、ここで引き返してもらう。この森の生物は、あんたたちの所有物じゃない」
「ハッ、寝言は寝て言えや! こちとらちゃんと所有者からお墨付きを貰ってんだよ! 小屋の中のジジイの方が不法占拠してる犯罪者だぜ!」
「ほう。その重装備も、所有者とやらから許可を得ていると?」
俺はわざとらしく彼らの持つアサルトライフルに視線をやった。
「この国の法律では、私有地だろうがなんだろうが、そのような自動小銃の所持も使用も認められていない。所有者の許可があれば何でも許されると思っているなら、随分と平和な頭をしているな」
俺の指摘に、リーダー格の男が顔を真っ赤にして言葉に詰まる。
ダンジョンの中でのみ扱える武器というものはあるが、それらはガチガチに法律で固められており好き勝手してもいい、などということは決してない。ましてや、彼らの装備はどう見ても非合法の横流し品だ。
正規の業務委託を騙るなら、装備の言い訳はできない。
「う、うるせえ! 御託はいいんだよ!」
痛いところを突かれたリーダーが、誤魔化すように怒号を上げる。
「お前ら、ジジイと一緒にこの優男もやっちまえ!! この森で始末しちまえば、事故も事件も関係ねえ!」
交渉決裂か。まあ、最初からこうなるとは思っていたが。
リーダーの指示と同時に、二人の男がナイフを抜き放ち、俺へと襲いかかってきた。
だが――遅い。
俺は深く息を吸い、冷静に相手の動きを見据える。
彼らは多少動けるようだが、所詮はゴロツキだ。万全でない今の俺でも、準備運動にもならない。
俺は腰をかがめて一気にダッシュする。驚愕する男がナイフを振るう、その前に背後に回り込み、寸分の狂いもなく肝臓――右脇腹へ掌底を打ち込む。いわゆるレバーブローだ。強烈な痛みに男は声も出すことが出来ず、苦悶の表情のまま崩れ落ちた。
すぐさま、次の標的へ。相手が銃口を向けるものの、あまりにもスローだ。その射線から正中線を逸らしつつ懐に潜り込み、恐怖に顔を引きつらせる男の肘関節を逆に取り、無力化する。
残る八名ほどの動きが止まった。
瞬く間に二人を沈められた彼らは、実力差に戦慄し、ナイフを捨てて懐の銃へ手を伸ばす。だが、それは致命的な判断ミスだ。味方が入り乱れるこの至近距離で引き金を引けば、仲間への誤射のリスクが跳ね上がる。
俺はその躊躇いを冷静に見下ろしながら、狼狽する集団の中へ躍り込んだ。
照準を定める暇など与えない。手首を捻り上げて銃を奪い、顎を砕き、あるいは喉仏を指突で貫く。発砲音の代わりに骨の砕ける音とくぐもった悲鳴だけが響き、男たちは糸の切れた人形のように次々と沈んでいった。
ものの十数秒。
立っているのは、俺とリーダー格の男だけになった。
「な、な……」
仲間たちが瞬く間に制圧されていく様に、リーダーの男は恐慌をきたし、ライフルをデタラメに向けた。
「化け物が……ッ! 近寄るんじゃねえ!!」
乾いた銃声が森に響く。だが、恐怖で強張った指が引く引き金に、命中精度など期待できるはずもない。
俺は弾丸の射線を最小限の動きで見切り、木の幹を盾にする必要すらなく、正面から距離を詰めた。左手の震えなど関係ない。そもそも、この程度の相手に繊細な身体制御など必要ないのだ。
「ひっ……!」
目の前に現れた俺を見て、男が腰を抜かす。
俺はライフルの銃身を片手で掴んで強引に銃口を逸らすと、がら空きになった男の鳩尾へ、容赦のない膝蹴りを叩き込んだ。
「が、ふ……ッ!」
男が胃の中身を吐き出しそうになりながら、地面に転がる。
俺はすかさずその腕をねじ上げ、自身の体重を乗せて地面に押さえつけた。
これで終わりだ。拍子抜けするほど呆気ない。
「離せ! 離せェッ!」
拘束され、もがきながらもリーダー格の男が俺を睨みつけて叫んだ。
「な、何なんだ、テメェは一体……!」
俺は男の前に立つと、静かにかけていた野暮ったいメガネを外し、懐にしまう。
そして前髪を片手で一気にかき上げ、寸分の乱れもないオールバックにした。
「国税庁ダンジョン課税 特別捜査官、蓮見司」
俺は冷たくそう名乗り、内ポケットから取り出した黒革の手帳、その表紙に刻まれた金色の菊花紋章を男の眼前に突きつけた。
「こ、国税……? 国税庁だと……? なんで国税がこんなところに……」 男は、混乱と恐怖に顔を引きつらせている。
「質問に答えろ。あんたたちの雇い主は誰だ?」
「……し、知るかよ! 俺たちは、ただ依頼された『素材』を運ぶだけで……」
男は視線を泳がせ、頑なに口を割ろうとしない。
だが、状況証拠は揃っている。俺は先程の「所有者」という言葉から、彼がひた隠しにする事実を突きつけることにした。
「白を切るつもりか。お前はさっき言ったな。『所有者の許可を得ている』と」
俺は男の顔を覗き込みながら、冷ややかに続ける。
「この森の登記上の所有者は『アーク・イノベーション』……あの天堂義彰が率いる巨大企業グループの子会社だ。つまり、お前の言うクライアントは天堂だな?」
俺の指摘に、男の顔色がサッと変わる。図星か。
「そ、そんな大物が、俺たちみたいなのと直接関わるわけが……」
「ああ、そうだな。だが、天堂の許可なくこれだけの騒ぎを起こしたなら、あんたらの命は警察に捕まるより先に、天堂の私兵に消されることになるが……それでいいのか?」
俺の脅しに、男の目が泳ぐ。
巨大企業の報復。その恐怖は、目の前の俺よりも現実的な死のイメージを彼に植え付けたようだ。男は自らの安全と正当性を主張するように、唾を飛ばして喚き立てた。
「ち、違げえ! 俺たちが消されるわけねえだろうが! 俺たちは勝手にやったんじゃねえ、正規の業務委託を受けてんだよ!」
男は勝ち誇ったように、決定的な言葉を口にする。
「この土地のオーナー……天堂会長の直々の命令でな!」
――天堂会長。
その言葉が出た瞬間、俺の中で全てのピースが嵌った音がした。
やはり、この男たちの背後にいるのは天堂義彰。キメラ事件の黒幕は、未だにあの悪夢のような研究を続けていたのだ。
「……あ」
俺の冷ややかな視線に、男は自分の失言を悟ったのか、青ざめて口を押さえる。だが、もう遅い。
「言質は取ったぞ。クライアントは天堂義彰だな」
「そ、そうじゃない! 今のは……!」
「だが、解せないな」
俺は男の狼狽を無視し、さらに問い詰める。
「天堂ほどの男が、なぜこれほど強引で粗雑な手段を取る? 以前の彼なら、もっと隠密に、質の高い研究を行わせていたはずだ。これほど大量の『素材』を、なりふり構わずかき集める理由はなんだ?」
俺が男の胸ぐらを締め上げると、恐怖に耐えきれなくなったのか、男は自棄になったように叫んだ。
「し、知らねえよ! 俺たちはただ、『質が落ちた分は量でカバーしろ』って言われただけだ!」
「質が落ちた……?」
――なるほど、そういうことか。
冬月という天才を失った天堂は技術的な精巧さを諦め、大量の素材を投与することで無理やり安定させた、粗製濫造のキメラ軍団を作ろうとしているのだろう。
それも、「すぐにでも」必要とする何らかの理由のために。
「……何をする気だ、天堂」
俺の手から、男がずるずると地面に崩れ落ちる。
単なる戦力増強ではない。この焦りよう、近い将来に何か大きな「事」を起こすつもりだ。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。天堂は、この大量の粗製キメラを使って、取り返しのつかない最悪のシナリオを描いているのではないか――。
どさり、と。思考に没頭していた俺の背後で、重いものが地に落ちる音がした。振り返ると、そこにはいつの間にか様子を見にきていたのか、鏑木老人の姿があった。
だが、彼は立ってはいなかった。今の俺たちのやり取りを聞き、その事実に打ちのめされたのか、力なく地面に膝をついていたのだ。
「……なん、だと……」
顔面は蒼白で、わなわなと唇が震えている。
「天堂……天堂義彰……? あいつが、まだ、あの研究を……? それも、こんな、最悪の形で……!」
博士の声は震えていた。
かつての共同研究者が自分の守ってきた聖域を蹂躙し、再び命を冒涜しようとしている事実に打ちのめされているようだ。
「博士。あなたは、この森の所有者が天堂の会社であることを知っていたはずだ。なぜ、彼が関わっていると気づかなかったのです?」
俺の問いに、鏑木は力なく首を振った。
「……持ち主であることは知っていた。だが、この二十年、彼らはこの森に一切干渉してこなかったのだ。正規の調査団すら派遣せず、ただ放置していた」
鏑木は、悔しげに唇を噛む。
「私は、それをいいことに、ここが彼らにとって価値のない『死に地』なのだと思い込んでいた。……だが、違ったのだな。彼らは知っていたのだ。この森が、自然の『培養槽』であることを。そして、機が熟し、必要になった時だけ、収穫に来ればいいと……私は、番人のつもりで、彼らの財産を管理させられていただけだったのか」
老人の絶望は深かった。
彼は「逃亡者」として身を隠していたつもりが、実は巨大な掌の上で、貴重な素材を守るための「都合のいい管理人」として利用されていただけだったのだ。
「……利用されていたとしても、あなたがこの森を守ってきた事実に変わりはありません」
俺は努めて冷静に告げた。
「奴らの誤算は、あなたがただの管理人ではなく、俺という『異物』を招き入れたことです」
数時間後。神崎統括官が手配した後続部隊が、密猟者たちから聞き出したダンジョンの入口を抜けて現地に到着した。密猟者たちの身柄は速やかに拘束され、眠っていた調査員も無事に保護された。
騒々しい現場から少し離れた場所で、俺は鏑木博士と二人、向かい合っていた。
「博士。あなたの行為は、法に触れます。調査員の監禁、危険な罠の設置、そして、このダンジョンから産出される薬草などの無申告販売。本来なら、あなたも連行しなければならない」
鏑木は何も答えず、ただ静かに森を見つめている。手には、手錠代わりの簡易拘束バンドが巻かれていた。
だが、と俺は続けた。懐から、先ほど書斎で見たあの一冊のノートを取り出し、彼に見せる。
「この森を、そしてこのノートに記されたあなたの知識を、ただの証拠品として倉庫に眠らせるのは、あまりに惜しい」
鏑木が、驚いたように目を見開く。
「博士。このノートには、『融合耐性因子』の詳細と、それが生物兵器に転用可能であることが記されている。……俺はこれを、『極めて危険な未登録技術の証拠』として国に提出します」
「……何を、するつもりだ?」
「この森は現在、アーク・イノベーションの所有地です。ですが、その地で所有者主導による違法な生物兵器開発が行われていた事実が証明されれば、話は変わる。国税庁と環境省は、このダンジョンを『危険物製造拠点』および『保全対象』として認定し、強制的な差し押さえを行います」
俺は淡々と、しかし力強く告げた。
「天堂から、この森を取り上げる。奴が二度と手出しできないよう、この土地ごと国有化し、『環境保全特別区』として国の厳重な管理下に置く」
それは法の抜け穴を突いた、国税庁ならではの強引な「地上げ」だった。違法行為の温床となっている資産を、納税義務違反や保安上の理由をつけて凍結・没収するのは、俺たちの得意技だ。
「……無茶苦茶だ。相手はあの天堂だぞ。黙って従うはずがない」
「従わせます。このノートと、捕らえた密猟者たちの証言があれば、奴も表立っては抵抗できない。……ただし、問題が一つある」
俺は、視線を森の奥へと向けた。
「この特殊な環境変異型ダンジョンを正しく管理し、維持できる専門家が、国にはいないということです」
俺は鏑木に向き直り、一つの提案――いや、宣告をした。
「鏑木博士。あなたには、司法取引に応じていただきます。本来の実刑の代わりに、この『環境保全特別区』の初代『特別管理人』として、ここで刑期を全うしてもらう」
「……なんだと?」
「もちろん、自由はありません。二十四時間の監視体制と、GPSによる行動制限がつきます。あなたの仕事は、二度とこの森を悪用させないよう監視し、その知識を、今度は合法的な形で国の為に使うこと。……いわば、この森そのものが、あなたの牢獄です」
それは、彼にとっての罰であり、同時に救済でもあった。
鏑木は、しばらく呆気にとられたように俺を見ていたが、やがてその瞳に、微かだが力強い光が戻るのを見た。
「……牢獄、か。ふふ、悪くない。どうせ私は、一生ここから出るつもりはなかったのだ」
「契約成立ですね」
「……君は、どこまでも食えない男だ。現実主義者で、冷徹で……だが、正しい」
鏑木は、拘束された両手を不自由そうに動かしながら、俺に深く頭を下げた。 「感謝する。君のおかげで、私は、最期の時までこの『聖域』を守り抜くという、贖罪の道を選べるようだ」
俺は無言で頷き、踵を返した。
キメラ事件の黒幕である天堂。今回の事件で、奴の手足の一つをもぎ取り、重要な資産を奪うことができた。これは、奴への宣戦布告だ。
だが、左手に残る、無視できない微かな震え。今回のような雑魚であれば問題ないが、また、あのタロスのようなキメラが相手では――。
俺は自らの身体に残る「弱点」を握りしめながら、次なる激戦の予感を背に、森を後にした。
(第九話 了)
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国税庁ダンジョン課税 特別捜査官 蓮見司 惡を斬る! 亞酩仙介 @CaTiSiO5
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