File 8:『潜入!偽りの聖域!信じる心を救い出せ』

 その日、俺は非番だった。

 都心から少し離れた古いジャズ喫茶。そこが俺が唯一、心の底から休息できる場所だった。壁を埋め尽くすレコードのジャケット、豆を挽く香ばしい匂い、そしてスピーカーから流れるサックスの掠れたような音色。

 俺はカウンター席の隅でハードボイルド小説を片手に静かにコーヒーを味わっていた。


「あの……蓮見司さん、でいらっしゃいますか?」

 不意に、背後から声をかけられた。

 振り向くとそこに立っていたのは、上質なスーツに身を包んだ、俺より少し年上に見える女性だった。その理知的な顔立ちには、隠しきれない不安と疲労の色が浮かんでいる。


「どちら様です?」

 俺が訝しげに尋ね返す。俺のプライベートを知る人間は、ごく少数のはずだ。

「突然、申し訳ありません。私、斎藤明日香と申します。……友人の叔父から、あなたならきっと力になってくださると、ご紹介いただきまして……」


 友人の、叔父。

 俺の脳裏に、飄々とした狸のような笑顔を浮かべる、ハゲ頭の初老の男の顔が浮かんだ。現役時代は伝説のマルサだったと噂される、俺の『師匠』だ。「困った時は、いつでも貸しを作ってやれ。その貸しが、いつかお前を助ける」が口癖の、食えない男。


(……また、あの狸爺の差し金か。厄介事の匂いしかしない)


 俺は内心で深いため息をつきながらも、彼女に空いている席を勧めた。

「……話だけは、聞きましょう」


 明日香と名乗った彼女は俺が差し出した水を一口飲むと、震える声で語り始めた。

 彼女には、大学に通う美紀という年の離れた妹がいること。その妹が、ここ数ヶ月で、『聖泉の会』という新興宗教団体にのめり込んでしまったこと。

「最初は、ただのサークルのようなものだと思っていました。でも、あの子、少しずつ変わっていって……。先日、大学の学費にまで手をつけて、全財産を寄付してしまったんです。そして『私はここで、本当の家族と、本当の救いを見つけたから、もう家には帰らない』と……」


 彼女は、ハンドバッグを固く握りしめる。

「警察にも、弁護士にも相談しました。でも、妹はもう成人です。『本人の自由意志だ』と言われて、誰も動いてくれないんです。でも、あの子は、絶対に操られています! どうか、妹を助けてください!」


 その瞳に浮かぶのは、すがるような悲痛な光。

 厄介事を押し付けられたことへの小さな苛立ちと、目の前の女性を無視できないという、相反する感情が渦巻く。 彼女への返答を考えあぐねるわずかな間、スピーカーから流れるサックスの音色がやけに遠くに聞こえた。

「……いいでしょう。師匠の紹介の方とあれば、無下にはできません」

 どうやら俺の束の間の休息は、ここでおしまいらしい。


 翌日、俺は自らの職権を使い国税庁のデータベースで『聖泉の会』の税務記録を洗い出していた。

 モニターに表示されたのは、クリーンそのものの財務諸表。収入の項目は、全て「寄付金・お布施」として非課税処理されており、支出の項目にも、不審な点は見当たらない。あまりに完璧すぎる。


「その団体なら、無駄よ」

 背後から神崎統括官の静かな声がした。彼女は俺のモニターを一瞥すると、溜息交じりに続けた。

「『聖泉の会』……公安調査庁が数年前に内偵を試みたけれど、尻尾は掴めなかった。限りなく黒に近いけれど、法的には完璧な『白』よ」


 彼女が手元のタブレットに内部資料を転送してくる。

「教祖の神代創苑は、金の流れを『非課税のお布施』として巧みに処理しているわ。聖地ダンジョンから湧くという『奇跡の水』も、あくまで無償配布の形を取っている。信者が渡す金は、自発的な『感謝の寄付』という体裁を崩さない。対価性がない以上、税法上は手が出せないの」

「……なるほど」

「それに、奴らには決定的な『盾』があるのよ。一年前に科警研が令状を取って、あの『奇跡の水』を分析した結果――シロ。ただの水、という『お墨付き』よ。それ以来、教団は『科学的にも証明された清浄さ』を振りかざして、我々の介入を完全に拒んでいる。物的証拠がない以上、どうしようもない。下手に手を出してまた空振りに終われば、今度こそ教団を追求する術がなくなるわ」


 神崎統括官は、俺の目をじっと見据えた。

「だから、この件は、これ以上深追いしないこと。国税庁として、公式には動けない。いいわね?」

「……承知しました」

 俺がそう答えると、彼女は「分かればいいわ」とだけ言って、背を向けた。


 だが、部屋を出ていくその直前、彼女はこちらを振り返ることなく、独り言のようにつぶやいた。

「……最近、あなたは働きすぎよ、蓮見。少し、休暇でも取ったらどう?」


 その言葉の意味を俺は正確に理解した。

 休暇、か。なるほどな。

 俺は公式の調査ファイルを閉じると、代わりに私用のセキュア回線でインターネットにアクセスした。


『聖泉の会』。次回の新規入信者向けセミナーは、三日後。

 俺はその申し込みフォームに、偽名で必要事項を打ち込み始める。

 非公式の、たった一人の潜入調査が静かに始まった。



 当日。俺は、郊外にそびえ立つ『聖泉の会』の本部ビルの前にいた。聖地ダンジョンの真上に建てられた、シックな外壁のモダンな四階建てのビル。その頭には不釣り合いなほど立派な寺院風の屋根が乗っている。いかにも、信者からの潤款な寄付金で作られた、という感じだ。今日のセミナーは、このビルにある多目的ホールで行われるらしい。


 そのだだっ広いホールに、百脚以上のパイプ椅子が整然と並べられている。そのほとんどは、俺(が潜り込むために使った偽りの経歴)と同じように、何かに救いを求める人々で埋まっていた。持病に苦しむ老人、事業に失敗したのだろうか、疲れた顔の中年男性、そして心の病を抱えた若い女性。皆、一様に暗く、うつろな瞳をしていた。


 俺はパイプ椅子に深く腰掛け、静かに目を閉じる。

 ここに来る前、俺はもう一度、斎藤明日香さんに会っていた。


『――妹と、連絡が取れました』

 喫茶店のテーブルで、彼女は震える声でそう言った。

『蓮見さんのおかげです。あなたが動いてくださったおかげで、私も、もう一度だけ頑張ろうって……。それで、昔使っていたSNSのアカウントで、思い切ってメッセージを送ってみたんです』

『……返信は?』

『はい。『心配しないで。私は元気だから』と……。たった一言だけでした。でも、最後に、こうも書かれていたんです。『もし、私のセミナーに来てくれるなら、会って話せるかもしれない』って……』


 それは罠か、それとも妹からの必死のSOSか。

 俺は彼女に自らの潜入計画を明かすことはせず、ただ「妹さんを信じましょう」とだけ告げた。彼女の目にわずかな希望の光が宿ったのを、俺は今も覚えている。


 ――やがて会場の照明が落ち、スポットライトが壇上の一点を照らし出した。

 そこに現れたのは、純白の衣をまとった、神々しいまでのオーラを放つ男。神代創苑。

 穏やかだがよく通る声で始まる彼の説法は、実に巧みだった。現代社会が抱える不安、病、そして孤独。それら全てを、彼は「穢れ」と断じた。そして、その穢れを浄化し魂を救済するのが、我らが聖地ダンジョンから湧き出る「恵み」なのだと説く。


「さあ、皆さま。まずは、聖泉の恵みを、その身で感じてください」

 彼の言葉を合図に、目元だけを仮面で隠した白衣の信者たちが紙コップに注がれた透明な液体を配り始めた。

「一口で結構。さすれば、あなたの内の穢れはたちまち浄化されるでしょう」


 俺の元にも紙コップが回ってくる。俺は口元へ運び、飲むフリをしてその液体をスーツの袖に忍ばせたハンカチに染み込ませた。

 だが、周囲の変化は劇的だった。

「ああ……身体が、温かい……」

「痛みが……長年の腰の痛みが、消えていく……!」

 あちこちで多幸感に満ちた嗚咽や、歓喜の声が上がる。先ほどまでの、うつろな瞳はどこにもない。誰もが、恍惚とした表情で、教祖を崇拝の目で見つめていた。


(……間違いない。何らかの薬物成分が含まれている)

 しかし科警研の分析で何も検出されなかったのは不思議だ。その成分が極めて不安定で採取後、短時間で揮発してしまう性質を持っていたとしても、以前の分析はそれを見越してその場で行ったはずだが。


 セミナーの最後、神代は壁際で待機していた複数の白衣たちに合図をした。

「――これより、希望者の方を、我らが聖地ダンジョンへとご案内いたします。ただし、聖地は神聖な場所。俗世の穢れを持ち込むことは許されません」

 神代はそこで一旦区切ると神妙な顔を崩し、悪戯っぽく微笑んで続けた。

「……というのは、まあ建前でして。本当の理由は、安全のためです」


 白衣の信者たちが金属探知機と回収ボックスを持って回ってくる。

「ライター、マッチ、その他、火気類は、一時的にお預かりします。ダンジョンの最奥は、高濃度の可燃性ガスに満ちており、非常に危険なのです。もちろん、今回は皆様をそのような危険な場所へお連れすることはありませんが、危機管理の一環として、ご協力ください」


 セミナー参加者たちは何の疑いもなく自らの所持品を箱に入れていく。

 俺はただ静かにその光景を見つめていた。タバコを吸わない俺には、預けるものは何もない。

 だが俺の頭の中には一つの情報が、はっきりと刻み込まれていた。

 ――可燃性ガス、か。



 ◇



 白衣の信者に導かれ、俺たち希望者は列をなし、セミナー会場の奥にある厳重な扉の向こう、聖地ダンジョンへと足を踏み入れていく。前方からは、「おお……」「なんて美しい……」といった、抑えきれない感嘆の声が次々と聞こえてきた。

 俺は最後尾でその流れに従い、ゆっくりと扉をくぐる。 そして、その先に広がる光景に、思わず息を呑んだ。


 そこはこれまで潜ってきたどのダンジョンとも全く違う世界だった。

 壁も、床も、天井も、全てが美しい瑪瑙(めのう)――それも、淡い空色に純白の縞模様が幾重にも重なった、ブルーレースアゲートで形成されていたのだ。天井の光苔の淡い光が、その半透明の青い石の内部で乱反射し、空間全体を、まるで天上のような、穏やかで神々しい光で満たしている。

(……なるほど。これは、確かに神聖さを感じるな)

 これほどの光景を見せられれば、誰もがここを聖地だと信じて疑わないだろう。


 やがて俺たちはダンジョンの中心部らしき、巨大な空間にたどり着いた。

 そこには崖の上から下を覗き込むように鉄製の足場が組まれており、その数メートル下には底が見えないほどたっぷりと、清らかな水を湛えた地底湖が広がっていた。

 若干感じる肌寒さと、たっぷりと水分を含んだ清涼な空気が心地よい。深呼吸しなくとも、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐる。この泉の匂いだろうか?

「ここが、我らが『奇跡の水』の源泉、『聖なる泉』です。さあ、皆様。しばしここで、心ゆくまで泉の成分が溶け込んだ『聖なる息吹』を吸い込み、その身の内から浄化なさいませ」

 セミナー参加者たちが恍惚とした表情で瞑想を始める。俺は、その隙を狙った。

「あの、すみません。少し、お手洗いに……」

 近くにいた白衣の男にそう告げると、彼は「あちらの通路の奥に」と、あっさりと許可を出した。内偵には、絶好の機会だ。


 俺は瞑想する信者たちの列を離れ、一人、薄暗い通路へと入る。

 神々しい光に満ちていた先ほどの広間とは一転、ここは天井の光苔もまばらで、少し温い空気で澱んでいた。壁の瑪瑙は、光の届かない場所ではまるで濡れた生き物の内壁のように、ぬめりとした光を放っている。信者たちの唱和が、壁の向こうから地鳴りのように低く響いてくるのが不気味さを際立たせている。


 ――絵に描いたようなカルトの巣窟だな。

 俺は警戒レベルを一段階引き上げ、慎重に奥へと進む。その先に人の気配を感じて俺は、咄嗟に近くの岩陰へと身を隠して様子を伺う。

 通路の先の物陰に、白い人影が立っているのが見えた。


 人影は誰かを待っているかのように落ち着きなく周囲を見回していた。その横顔が、月光苔の淡い光に照らされる。

(……斎藤美紀か)

 明日香さんから見せられた写真の少女だった。こんな場所で、一人で何をしている?


 俺はこれが罠である可能性も視野に入れつつ、ゆっくりと姿を現し、彼女へと近づいた。

「あの、すみません」

 俺が声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねた。その瞳には、教団の信者が浮かべる多幸感ではなく、怯えと猜疑の色が浮かんでいる。


「何か、お探しですか。俺も、お手洗いの場所が分からなくなってしまって」

 俺が人の良さそうな笑顔でそう言うと、彼女はさらに警戒を強めた。仕方ない。俺は、早々に最後のカードを切ることにした。

「斎藤明日香さんの、ご関係の方ですよね?」


 その名が出た瞬間、彼女の瞳が見開かれた。

 次の瞬間、彼女は信じられないほどの力で俺の腕を掴むと、近くの岩の裂け目へと、強引に引きずり込んだ。

「!」

 俺が反応するより早く、彼女は俺を壁に強く押し付け、その小さな手で、俺の口を荒々しく塞いだ。

「静かに!」


 耳元で、鋭い囁き声が響く。

 それと同時に、俺たちが先ほどまでいた通路を複数の教団幹部らしき男たちが、足音も立てずに通り過ぎていった。まるで、獲物を探す亡霊のように。


 足音が完全に遠ざかったのを確認すると、彼女は、はあ、と安堵の息を吐いて、俺から身を離した。

「ごめんなさい。でも、どうしてここへ……! 姉に頼まれたんですね!?」

「……」

「ここは危険です! 私はお姉ちゃんを巻き込みたくなかったんです。様子を見て、私自身でなんとかしますから、お願い、帰ってください!」

 彼女は、必死の形相で俺に訴えかける。だが、俺は静かに首を横に振った。

「いや、帰れない。このダンジョンで行われていることを見たからには、もう見過ごすわけにはいかない」


 俺の固い意志を悟ったのか、彼女は一瞬、絶望したように顔を歪めた。だが、すぐに何かを決意したように、俺の手に、何かを固く握らせた。銀紙に包まれた、小さな飴玉のようなものだった。


「……分かりました。でも、約束してください。絶対に、無茶はしないって」

 彼女は、声を潜めて説明する。

「これは、教団の幹部だけが持っている『中和剤』です。万が一、奇跡の水に含まれる麻薬成分を過剰に摂取してしまった時、その効果を打ち消すためのものだって……。私が、幹部の部屋から盗んできました」

「……」

「これを舐めておけば、もし薬を盛られたとしても、問題ないはずです。だから、お願い。これを使って、絶対に生きて帰ってください。そして、お姉ちゃんに、もう心配いらないって……」


 その瞳は、真剣そのものだった。

 俺は黙ってその小さな飴玉を強く握りしめた。



 彼女は俺に全てを託すと再び信者の仮面を被って本部の奥へと消えていった。

 俺は彼女から手渡された、小さな銀紙の包みを固く握りしめる。


 ひとまず目的のひとつを達成したので本部への潜入を一旦諦め、再び『聖なる泉』のある広間へと戻ることとなった。


(……なんだ、これは。俺が席を外した、このわずかな時間で、一体何が……?)


 ほんの数分、席を外しただけだというのに、あれほど静かに瞑想していた信者たちの様子が一変していた。

 虚ろな目で天井を見つめ、突然甲高い声で笑い出す老婆。床に突っ伏し、神に祈りを捧げながら嗚咽を漏らす男。その誰もが、尋常ではない多幸感に包まれているようだった。


 広間の中は先ほどよりも空気の湿り気が増し、あの甘い『聖なる息吹』が、より濃密に充満している。この空気中に含まれる泉の成分に、何か秘密があることは確かだ。

 しかし、この地底湖の水自体が強力な麻薬成分を持つのであれば、十分に呼吸をした俺自身にも、何らかの影響が出ていておかしくない。だが、俺の身体には、一切の変化はなかった。


 科警研は、以前この教団を調査した際に令状を持ってこのダンジョン内へと押し入り、『聖なる泉』を直に汲んでその場で分析したはずだ。麻薬成分がダンジョン外で急速に揮発する可能性も考えてのかなり大胆な行動だったが――結果は、シロ。令状を取ってまで挑んだのだ。少しでも怪しい部分があれば粘ってそれを追求したはずだが、それもない。


 俺は、万が一のために、先ほど美紀さんから受け取った飴玉を、そっと口の中に放り込んだ。


(……待てよ)

 俺は、思考を巡らせる。

(俺と、彼らの違いは、一体……?)


 ――最初に配られた、あの水。

 そうだ。俺も、科警研も、この泉の水だけが問題だと思い込んでいた。そこが、まず勘違いだったのだ。


 最初に配られた紙コップの水には、泉の水とは別の『主剤』となる薬物が含まれていた。そして、この空気中に水蒸気としてたっぷりと含まれる『聖なる息吹』が、彼らの体内に取り込まれた主剤と反応し、効果を爆発的に増幅させる『触媒』として作用していると考えればどうだ。


 では、その主剤となる麻薬は、どこから来た?

 麻薬の密輸は、国税庁と警察が常に目を光らせている。これほどの規模で使うとなれば必ず金の流れに異常が出るはずだが、神代の金の流れは完璧だった。

 秘密裏の栽培か? 麻や芥子を秘密裏に栽培するには、膨大な光熱費……つまり、電力や魔力エネルギーを消費する。だが、このダンジョンのエネルギー消費量に、不審な点はない。


 ならば、答えは一つだ。

 その『主剤』の原料もまた、このダンジョン内部で産出されている。

 そしてそれを精製し、『奇跡の水』に混ぜるための……隠されたラボが、この奥に必ずある。


 俺は恍惚の表情を浮かべるセミナー参加者たちを横目に、再びあの薄暗い通路へと一人、足を踏み入れた。

 今度の目的はただの内偵ではない。奴らの犯罪の心臓部、「隠されたラボ」を暴き出すことだ。


 先ほど美紀と隠れた岩の裂け目を通り過ぎ、さらに奥へ。時折、角から現れる白衣の巡回職員の気配を察知しては、物陰に身を潜める。幸い、瑪瑙の壁が生み出す複雑な光の屈折が俺の姿を闇に溶け込ませてくれた。


 数人の信者、または教団関係者をやり過ごした俺は、ひとつの通路を進んでいた。

 ぱっと見では誰も気に留めないような、ありふれた通路だ。だが、あえて目立たせまいとした意図がかえって不自然さを生み出し、逆に目印になっていた。やがて、その歪みが一番強く現れる場所──行き止まりの壁に突き当たる。俺の目はごまかせない。壁の一部だけ、空気の流れが違う。朝霧の屋敷で見たものと同じ、幻影魔法による偽装。俺がその壁に手を触れると、まるで水面のように、その向こう側へと吸い込まれた。


 だが、その先は近代的なラボなどではなく荒々しい掘削跡が残る洞窟だった。足を踏み入れた瞬間、ツン、と鼻を突く薬品の匂いと軽いめまいが俺を襲い、思わず壁に手をついた。

(――ガスか!)

 俺は咄嗟にセミナーの最後に言われた可燃性ガスの危険性を思い出し、呼吸を浅くする。極少量だが、ガスを吸い込んでしまったからか。頭に霞がかかるような気分の悪さを覚えてはいたが、ここまで来て引き下がることはできない。俺は警戒しつつ、その洞窟をさらに下っていく。


 通路を抜けた先は、広大な地下空洞だった。

 そこでは数人の信者が壁から掘削したであろう黒い鉱物を採集していた。別の場所では、その鉱石を巨大な蒸留装置にかけ、何かを精製している。間違いない、ここが奴らのアジトだ。

 そして空洞の奥には掘削跡であろう巨大な窪地が口を開けていた。そこには空気より重いガスが、青白い澱となってガス溜まりを形成していた。


 全ての証拠を掴んだ。その光景をスマートフォンに収めようと、胸元に手を差し入れた——その刹那。

 背後から、空気を裂くような轟音が響いた。

 振り返る間もなく、俺が入ってきた通路の入口が分厚い鋼鉄の扉で叩きつけられるように閉ざされる。

 すぅ、と胸の奥が冷たくなる。

 ……罠、か。


「――ようこそ、蓮見統括官。我が教団最大の機密へ。お待ちしておりましたよ」

 声は頭上から聞こえた。見上げれば空洞の天井近くに設けられた足場に神代創苑が、護衛たちを従えて立っていた。その顔にはもはや聖人の笑みはなく、全てを見通していたかのような冷酷な支配者の表情が浮かんでいる。


「美紀の演技は、お気に召しましたかな? あの子は、この会で最も純粋な信者の一人。姉を想う、その純粋な心を利用させてもらっただけですよ」


 その言葉が、俺の最後の疑念を確信へと変えた。

 ――美紀は、俺を騙した。あの飴は、中和剤などではない。


「もう理解されてるでしょうが、あなたが舐めてしまった飴玉こそが、鉱石から精製した麻薬の主剤ですよ。そして『聖なる泉』や、その水分がたっぷりと含まれた『聖なる息吹』が、その効果を最大限に引き出す触媒なのです」


 神代はまるで舞台役者のように両腕を広げた。

「ここが、我らが『聖域』の、最も神聖な場所……そして、『救済』の場所でもあります」

  彼は、足元の巨大な窪地――ガス溜まりを指し示す。

「時折、いらっしゃるのですよ。信仰心が揺らいでしまったり、あるいは、我々の活動に疑念を抱いてしまったりする、哀れな子羊が」


 彼は芝居がかった悲しみの表情を浮かべて続けた。

「そのような方を、我々はこの『聖なる泉』のほとりへとお連れします。そして、ここを満たす『聖なる息吹』に身を委ね、心を浄化していただくのです」


 ――もちろん、その前に、彼らには主剤入りの『奇跡の水』をたっぷりと飲ませておくのだろう。


「すると、どうでしょう。あまりの多幸感と神聖な体験に、足元がおぼつかなくなり――」

 彼は、まるで不慮の事故が起きたかのように、肩をすくめてみせた。

「――誤って、この泉へと身を投じてしまわれるのです。嗚呼、なんと痛ましい『事故』でしょう」


 神代は俺を見下ろし、その冷酷な本性を露わにする。

「もちろん、検死の頃にはあなたの体内の薬も、肺に残ったこの『聖なる息吹』も綺麗に消え失せている。残るのはただの『不幸な事故死』という記録だけ。ガスが溜まっている場所はここ以外にもありますからね。死体を移動させてしまえば誰も真実には届かない。我ながら完璧だと思いませんか?」


 神代の言葉を合図に複数人の護衛たちが、じりじりと俺を取り囲む。

 まずい。身体が、鉛のように重い。思考が、定まらない。普段であれば手刀を繰り出す必要すらないような素人の護衛も、今の俺にとっては致命的な脅威だった。


 俺は人生で初めて本当の苦戦を強いられた。

 超人的な反射神経は鈍り、判断力は常人レベルにまで著しく低下している。普段なら一撃も貰わず無力化できるはずの攻撃を、まともに腕で受けてしまう。じりじりと、俺は追い詰められていった。


 そしてついに俺は壁際に叩きつけられる。その衝撃で壁の瑪瑙が砕け、鋭利な破片が床に散らばった。

 護衛の一人が放った強烈な蹴りを腹に受け、俺の身体は大きく吹き飛ぶ。受け身も取れず、背中から床に叩きつけられ、そのまま数メートル滑って、ようやく止まった。


 目の前には、巨大な窪地――ガス溜まりの淵があった。あと50㎝滑っていたら地獄の亡者となっていただろう。

 神代が勝利を確信した足取りで倒れ伏す俺の元へと歩み寄ってきた。

「さあ、あとほんの一歩であなたも『救済』されますよ……蓮見統括官」


 朦朧とする意識の中、俺の目に瑪瑙の破片が映った。掘削により破壊された、鋭利な石英の結晶群の鉱物。


(……可燃性ガス!)


 鼻を刺す臭いに、霞がかっていた思考が急速にクリアになる。

 押さえつける男たちの腕を振りほどきながら、残った最後の力を振り絞って腕を振り上げる。狙いは、床に転がる瑪瑙の破片。モース硬度はおよそ7。


「無駄なことを!」

 神代が嘲笑する。


 だが、その声が耳に届くのと俺の腕時計のバックル、鋼鉄製のそれを瑪瑙の角へ渾身の力で叩きつけるのはほぼ同時だった。神代の笑いが一瞬で引き攣る。


 火打ち石の要領で鋼と瑪瑙から閃光のような火花が散り、窪地の底に溜まっていた高濃度のガスに引火したのだ。


「なっ……!?」


 反射的に口を開け、頭を覆う。

 その行動が間に合ったかどうか確かめる暇もなく、凄まじい大爆発が、俺を、神代や護衛たちも含めてすべてを飲み込んだ。



 ◇



 俺が次に目を覚ました時、目に映ったのは見慣れた自室の天井ではなく、真っ白な病院の天井だった 。


「……目が覚めたようね」

 声の主は、ベッドの隣に座っていた神崎統括官だった 。

「爆発の衝撃波とダンジョン内での魔力異常――その反応を追って救助部隊が動いたのよ。四名の重傷者が出たけれど、死者はいなかったわ。本当に、あなたたちが生きてたのは奇跡……いえ、あるいは『聖地』の御加護、かしらね」

 あのダンジョンに加護なんかあって堪るか、と反論したかったが、まだだるい意識のままでは、彼女の皮肉に苦笑いで返すしかない。

「神代も、教団の幹部たちも捕まった。……これで、本当に終わったの」


 淡々と語る彼女の横で、医師が重い口を開いた。

「蓮見さん、率直に申し上げます。爆発の影響で高濃度の魔力ガスが体内に残留し、熱による化学変化を起こしたと考えられます。その結果、神経系の一部に深刻な損傷が確認されました」


 医師の言葉のあと、モニターの電子音だけが規則正しく室内に響く。

「……命に別状はありません。ですが、損傷は広範囲に及んでおり、全快までにはかなりの時間とリハビリが必要になるでしょう。それまでは、残念ながら、以前のような身体能力を発揮することは制限されます」


 短い沈黙が落ちた。神崎統括官は何か言いかけて、結局、言葉を飲み込んだ。

 そのまま医師と目を合わせ、わずかにうなずくと、二人は静かに病室を後にした。


 病室には重い静寂だけが残された。

 俺は一人、ベッドの上でゆっくりと身を起こす。 喉がカラカラに乾いていた。 ベッドサイドの棚に置かれたプラスチックのポットと重ねられた紙コップ。 ごく当たり前の動作として左手がコップを取り、右手でポットを持ち上げる。


「っ……!」


 ポットを掴んだはずの右手が意思に反して、微かに震えた。一瞬狙いが逸れ、 紙コップの縁に注ごうとした水がテーブルの上にこぼれ落ちる。

「……」

 俺は動きを止め、オーバーテーブルの上の水たまりと自らの左手を交互に見つめた。

 医師の言葉が、現実の光景となって目の前に突きつけられたのだ。

 オーガの骨を砕き、キメラの突進を受け止め、あらゆる精密な動作を寸分の狂いもなく実行してきた、俺の身体。

 その右手は今、水をコップに注ぐというただそれだけの日常的な動作すら拒絶していた。



 ◇



 数日後、面会謝絶が解けた俺のもとに、斎藤明日香さんが訪れた。

 以前より少しやつれたように見える。


「妹は……美紀は、専門の医療施設に入りました。長い時間がかかるそうですが、少しずつ、元の自分を取り戻すための治療を受けています」


 その表情には、妹の未来を案じる深い悲しみが滲んでいた。

 すでに深い洗脳状態にあった美紀を救う術などなかった。

 それでも、あまりにも儚げな明日香さんを前に、俺は何ひとつ言葉をかけることができなかった。


「……蓮見さん。本当に、ありがとうございました」

 彼女は深く、深く頭を下げた。


「妹の心は、まだ……。でも、蓮見さんがいなければ、妹は、あのおぞましい場所から戻ってくることすらできませんでした。……本当に、ありがとうございました」


 明日香さんが帰っていく。

 その小さな背中を見送りながら、俺はどうしようもない無力感を噛み締めていた。


 あの規模の爆発で、一人の死者も出さずに事件を終えられた。

 それでも――俺は一人の女性の心を救うことはできなかったのだ。


 そして、俺もまた同じだ。

 再び、自らの右手を見つめる。


 そこには、ごく微かな、決して消えることのない震えが残っていた。

 そのどうしようもない現実が、俺の胸に初めての「傷跡」として刻まれ、

 夕日に照らされた病室の中で静かに揺らめいていた。






(第八話 了)

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