File 7:『デジタル・ゴールドラッシュ』

 柏木倫太郎の事件から、数週間が過ぎていた。

 その間、俺の机の上には、解決済みのファイルが山積みになっていたが、どれも心を満たすものではなかった。

 あの事件で得たもの、失ったもの――それらの残響は、未だ胸の奥に燻り続けている。

 事件を追うたびに、数字と理屈だけでは解けない“何か”があることを思い知らされる。

 ……今回もまた、その類なのだろう。

 俺――蓮見司がいたのは、いつもの執務室ではない。国税庁の地下深く、外部から完全に遮断されたサイバー犯罪対策課のオペレーションルームだ。

 薄暗い空間に無数のモニターの光だけが瞬き、サーバーの低い駆動音が途切れなく響いている。壁一面に広がるメインスクリーンには、仮想通貨の資金の流れを示す複雑怪奇なチャートが、脈動するように映し出されていた。


「見ての通り、お手上げよ」

 腕を組み、忌々しげにスクリーンを睨んでいた神崎統括官がため息交じりに言う。

「これは、ここ数ヶ月の闇市場における仮想通貨の金の流れ。資金の出所はすべてこのRMTサイトから」


 彼女が指し示したのは、あるVRダンジョンゲームのアイテムを取引する闇サイトだった。

「犯人は『NULL』と名乗るハッカー。人気の公式VRダンジョン『アーク・フロンティア』のサーバーを丸ごとコピーし、そこで生成した仮想アイテムを売りさばいているの。たった数ヶ月で、既に数億円の利益を上げているわ」

「サーバーの物理的な位置は?」

「何重ものプロキシと、彼が作り出した自己進化型の暗号化層の向こう。金の流れも、彼の自動資金洗浄プログラムによって完全に撹乱されている。これ以上は、どの追跡ルートも潰されているわ。――完全に手詰まりよ」


 なるほど。技術的にはほぼ完全犯罪、というわけか。

「技術で追えないのなら、なぜ私に?」

 俺が問うと、神崎統括官は初めてスクリーンから目を離し、真っ直ぐこちらを見据えた。


「サイバー犯罪課の連中は、コードしか見ていない。でも、これはただのハッキング事件じゃないの。『仮想資産』を使った、新しい形の脱税事件よ。相手の土俵――つまり、相手の“思考”を読む必要がある。犯罪者の心理を分析し、その歪みを突くのはあなたの専門でしょ?」


 彼女の言葉に俺は静かに頷いた。

 スクリーンに映る、美しく、冷たく、完璧な金の流れ。それはただのデータではない。この背後には、犯人の――“NULL”という人間の思考が、確かに息づいている。


「……なるほど。相手は自ら築いた完璧な城に籠もる王様、というわけですか」

「ええ。その鉄壁の城をどうにかしてこじ開けなさい。蓮見」


 どうやら次の相手はこれまでで最も厄介で、知能の高い犯罪者のようだ。

 俺はこれから始まる見えない敵とのチェスを静かに思い描いていた。

 さてどうしてくれよう。相手を知るにはまず――

 神崎統括官からの指令を受けた後、俺はすぐにはサイバー犯罪対策課へ戻らなかった。

 ハイテクの力を借りるのはいつでもできる。だが、その前に俺自身の“足”と“勘”で、相手の輪郭を掴んでおきたかった。





 数時間後。俺は野暮ったいメガネにフード付きパーカーという街に溶け込むための格好でアキハバラの電気街を歩いていた。


 ネオンの明滅、スクリーンに流れる最新ガジェットの広告。

 表通りを行き交う人々は、現実と仮想の境界をとっくに見失っているようだった。

 光に包まれながら、どこか虚ろな瞳でスマートレンズを覗き込む若者たち。

“便利”と“自由”の名の下で、彼らの選択はすでにコードに管理されている。近頃はどこもそんな感じだ、と言ってしまえばそうかもしれないが、やはりこの街は独特だ。


 そんな退廃的な空気を感じながら、俺はふと思う。

 これは単なるサイバー犯罪ではない。

“技術”を巡る事件の形を借りた、価値観そのものへの挑戦だ。


 やがて俺はひとつの建物の前で立ち止まった。

 裏路地にひしめく古びた雑居ビル。その一室に、俺が探している店がある。表向きは中古PCパーツの店だが、その実態は裏社会のデジタル情報を専門に扱う情報屋の根城だ。


 店に入ると半田ごての焦げる匂いと埃の臭気が混ざり鼻を刺す。カウンターの奥、無数のモニターに囲まれた場所で、ネズミのように痩せた男がこちらを一瞥した。

「……何かお探しで?」

「少し、調べたいことがある。腕の立つ“商人”を探しているんだが」

 俺が事前に調べておいた符丁を口にすると、男の目が値踏みするように細められる。


「……どんな品物を、どれくらいご所望で?」

「いや、俺が探しているのは、品物じゃない。その“商人”本人だ。名は――NULL」


 その一言を口にした瞬間、男の顔から商売人の笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、露骨な恐怖と侮蔑。

「やめとけ、兄ちゃん。首突っ込むだけ無駄だ。碌なことにならんぞ」

「情報料は払う。俺は、彼と取引がしたいだけだ」

「取引ぃ? ハッ、笑わせるなよ」


 男は、まるで世間知らずを諭すような目で俺を見た。

「いいか兄ちゃん。NULLは、“誰か”じゃねえ。もはや現象だ。この世界の神様みてえなもんだ」

「……」

「奴のRMTは、トラブルが一切ねえ。品物は完璧、送金は瞬時、足は絶対につかねえ。俺たちみたいな末端の業者にとっちゃ、ありがたい神様だ。……だがな」

 男は一度、低く息を吐いた。

「奴の縄張りを荒らそうとした中華系ギルドがあった。翌日には、ギルドの全資産が消えて、リーダーの個人情報はネット中に晒されてた。デジタルで、存在そのものを“殺された”んだ。分かるか?」


 俺は黙って、その言葉を聞いた。

「奴は芸術家なんだよ。自分の庭――自分の作品が汚されるのが、何より嫌いなんだ。あんたみてぇな半端者が関わっていい相手じゃねえ。諦めな」


 それ以上、男は何も語らなかった。

 俺は情報料として数枚の紙幣をカウンターに置き、無言で店を後にする。


 裏路地を抜け、ネオンが瞬く表通りへ出る。

 ――なるほど。幽霊、か。アナログな捜査では、ここまでが限界だな。

 このNULLという男……いや、女かもしれないが、ともかく。犯人からは体温のない、デジタルな数字の羅列だけを感じるかと思ったが、これまで俺が対峙してきた犯罪者たちの動機と同じく、金や権力、あるいは歪んだ愛情。良くも悪くも人間的な“熱”を、同じようにNULLも持っているというのは重要な手がかりかもしれん。

 俺はスマートフォンを取り出し、一つの内線番号を呼び出した。


「――俺だ。サイバー犯罪対策課の須藤分析官に繋いでくれ」


 この芸術家気取りの犯罪者を締め上げるための起点は掴んだ。これでついにハイテク部署の変わり者たちの出番というわけだ。


 数日後。

 俺は再びサイバー犯罪対策課のオペレーションルームで金の流れを示すチャートを睨んでいた。

 隣には、この課のエースと呼ばれる若き女性分析官――須藤(すどう)が立ち、ホログラムキーボードを叩きながら説明を始める。


「蓮見統括官。これが、NULLが使用している資金洗浄アルゴリズム――通称“ヒドラ”の概念図です」

 スクリーンには、無数の線が複雑に絡み合い、まるで生き物のように蠢く幾何学模様が映し出されていた。

「自己進化しながら無数のダミー法人に送金を繰り返す。一つの流れを追ってもすぐに切り離され、別の流れに合流します。まるで多頭の怪物です。今の私たちでは、技術的に追跡は不可能です」


 その声には悔しさと同時に、敵への畏怖も滲んでいた。

「須藤分析官。技術的な追跡はあなたたちに任せる。俺は別の角度からこの“NULL”という人間を分析したい」

「別の角度、ですか?」

「ああ。奴がRMTサイトで売っているアイテムの全リスト、それと価格設定の基準、過去の取引履歴をすべて見せてくれ」


 須藤は首を傾げながらも、即座にデータを呼び出した。

 スクリーンには、数千に及ぶ仮想アイテムの名と価格が並ぶ。

「……攻撃力や防御力など、性能と価格の間に相関は見られません。設定はほぼランダムかと」

「いや、ランダムじゃない」

 俺は、ある一点を指差した。

「基準はただ一つ――“美しい”かどうか、だ」


 示したのは、性能は平凡だが極めて造形美に優れた装飾剣と、見た目は醜悪だがゲームバランスを壊しかねない棍棒。後者は売る気が感じられないほどの高値が付けられていた。

「彼は、自らの世界の“美観”を損なうことを極端に嫌っている。だから、強力すぎたり醜いアイテムは市場に流さない。これは単なる金儲けではない。彼の歪んだ美学とプライドが、すべての基準になっている」


 須藤はハッと目を見開いた。

「……なるほど。相手はハッカーというより、プライドの高い芸術家。なら、そのプライドを逆手に取れば……!」

「ああ。俺がVRダンジョンに潜入し、彼に“挑戦”する」

 俺は、作戦の骨子を語り始めた。

「彼の注意を俺に引きつけ、できるだけ長くサーバーに接続させ続ける。その間に、君たちが逆探知を完了させるんだ」


「了解です」

 須藤は力強く頷く。

「ですが、相手は天才。時間稼ぎの意図に気づけば、すぐに接続を切るでしょう。だから、こちらも“切り札”を用意しました」

「切り札?」

「はい。NULLのアバターは、彼の思考を完璧にトレースした高性能AI。通常の攻撃プログラムでは対応されて終わりです。そこでこれを――コードネーム『ダモクレス』」


 スクリーンに映し出されたのは、一本の剣を思わせる鋭利なプログラム構造。

「これは、NULLのアバターに直接接触して発動させることで、相手の思考ルーチンを強制的に“1+1=3”と結論づけるよう書き換える、精神破壊(ロジック・ブレイク)プログラムです」

「……なるほど。思考を無限ループに陥らせ、フリーズさせるわけか」

「はい。成功すればアバターは自己崩壊し、操っているNULL本人にも無視できない精神的フィードバックが発生します。ただし……」

「一度しか使えない、か?」

「その通りです。発動には至近距離での接触が必須。一度きりの必殺の刃です」


 作戦会議を終え、オペレーションルームの照明がゆっくりと落ちていく。

 スクリーンの残光に照らされた須藤の横顔には若さと、それを超える覚悟があった。


「……本当に、危険な賭けになります」

「分かっている。だが、今の金融取引は紙幣や金塊じゃない。ただの信用データだ。奴はその信用の根幹を根こそぎ破壊しようとしている。これを放置すれば俺たちの仕事……いや、この国そのものが成り立たなくなる」


 彼女の瞳に一瞬、迷いの光が走ったが、すぐに消えた。

 この課の中で、“人”を見ているのは、俺と彼女だけかもしれない――そんな予感が胸をよぎった。


 こうして、“見えざる神”を玉座から引きずり下ろすための準備は整った。

 俺はこの一度きりの刃を懐に忍ばせ、虚構の王へと挑む。






 サイバー犯罪対策課の一室。

 準備が整い、俺は無機質なフルフェイス型のVRヘッドセットを装着した。

「――蓮見統括官、回線、開きます」

 須藤の冷静な声が、ヘッドセットのスピーカーから響く。

「ああ、頼む。逆探知を開始しろ」

『了解。……ご武運を』


 その言葉を最後に、意識が光と情報の奔流へと飲み込まれていく。

 目眩のような浮遊感のあと、足裏に硬質な石畳の感触が戻った。

 目を開くと、そこは寸分違わず再現されたVRダンジョン『アーク・フロンティア』における、始まりの街だった。月光に照らされた広場は静まり返り、空気の粒子までもが冷たい規則性を帯びている。


 その中央に、ひとりの男が立っていた。

 白銀の、光の糸で織られたようなスーツ。その顔は絶えず形を変える幾何学模様の仮面で覆われている。

 ――NULLのアバター。


『――歓迎しよう、侵入者。我が美術館へようこそ。私が、NULLだ』

 合成音声にも関わらず、その声には絶対的な支配者としての威厳があった。

『神に挑むには、それなりの資格が必要だ。君にその資格があるか、まずは試させてもらおう』


 NULLが指を鳴らす。

 同時に周囲の風景が塗り替わり、真っ白で無限に広がる美術館のような空間へと変化した。

 壁面には、彼が過去に作り上げたという芸術品のようなプログラムコードが、ホログラムの彫刻となって浮かび上がっている。整然と、そして異様なまでに美しい秩序が空間全体を満たしていた。


『この作品群の中に、一つだけ私が意図的に残した“非対称”なコードがある。それを見つけ出すこと――それが第一の試練だ』


 俺は無数の彫刻の間を歩きながら、一つ一つを冷静に観察していく。

 見るべきはコードの意味ではない。その構造、そして作り手の“心理”だ。

 完璧主義者であるNULLが、あえて残した「歪み」。それは、彼自身のサインか、あるいは彼にしか理解できない“美”の表現に違いない。


 数分後、俺は一つの彫刻の前で足を止めた。

 スクリーンに表示されていた、あの資金洗浄アルゴリズム『ヒドラ』だ。無数の分岐と合流を繰り返す、複雑怪奇な金の流れ。それが、目の前では、まるで銀河のように美しい蝶の姿で具現化されていた。その冒涜的なまでの美しさに、俺は一瞬、言葉を失う。

 蝶の羽のように左右対称に広がるプログラム。その右翼のコードは、一見すると左翼と完全に同じ構造だが――よく見ると、一箇所だけ、より効率的な記述へと書き換えられている。

「……これだ。この右翼の構造は、左翼と対を成していない。おそらく、あなたは過去の自作を“より美しく”しようと、意図的に進化を加えた。完璧なシンメトリーの中に、非対称な“時間”を刻むために。違うか?」


『……合格だ』

 仮面の奥から、わずかな感嘆の響きが漏れたように感じた。


 次の瞬間、床が崩れ落ち、俺の身体は暗黒の空間へと吸い込まれる。

 落下の終わり、足がグリッド状の地面を踏む。視界の果てまで無限に続く狩猟場。闇の奥から唸り声が響き、複数のデジタルモンスターが姿を現した。

 その身体には、名だたる大企業や政府機関のロゴが焼き印のように刻まれている。


『第二の試練だ。これらは、私が過去に打ち破ってきた旧世界の番犬たち。……君も、力ではなく“知性”で、この狩猟場を生き延びてみせろ』


 俺は襲いかかるモンスターたちをいなしながら、その挙動を冷静に分析する。

 銀行のロゴを刻むドラゴンは“資産価値”の高いオブジェクトのみを狙い、テレビ局の紋章を背負ったグリフィンは“注目度”の高いアバターを優先して攻撃している。

 つまり――それぞれの「認識基準」を利用すれば、戦わずして突破が可能だ。


 俺は自らのアバターのパラメータを即座に書き換え、価値を下げ、目立たぬように姿を溶かす。

 モンスターたちの意識が逸れる一瞬の隙を突き、静かに包囲網を抜ける。

 一歩、また一歩――緻密な思考の上で、俺はこの狩猟場を突破した。


 そして最後の扉を抜けた先。

 そこは、何もない純白の玉座の間だった。

 NULLのアバターが玉座に腰を下ろし、静かにこちらを見下ろしている。


『見事だ、侵入者。君は、最終試練を受ける資格を得た』


 こうして、俺と奴の心理戦が始まった。

 俺は須藤たちが逆探知を完了させるまでの“時間”を稼ぐため、意図的にNULLのプライドを刺激し、その思考の“癖”を探り続ける。

 だが――数十分の対話の果て、俺は一つの結論にたどり着いた。


 ……こいつは、あまりに完璧すぎる。

 挑発にも、賞賛にも、一切の揺らぎがない。

 反応の遅延はゼロ。感情のノイズすら存在しない。

 そこには“人間”の思考特性が、決定的に欠けていた。


(――違う。これは本人じゃない。景山蓮の思考パターンを完璧に模倣した、ただの精巧なダミーAIだ)


 作戦A――失敗。

 俺の切り札『ダモクレス』は、魂のない機械には通じない。


 その思考を読んだかのように、NULLのアバターが冷然と告げた。

『貴殿の思考ルーチンに致命的欠陥を確認。この空間に存在する資格なし。――デリート・シークエンス、開始』


 足元の世界が、ピクセルの塵となって崩れ始める。

 万事休す。

 俺は、為すすべなくその光景を見つめた。


『――デリート・シークエンス開始。10、9、8……』

 無機質なカウントが響く中、俺は即座にプライベート回線を開いた。

「須藤! 状況は!」

『ダメです、統括官!』

 焦燥に満ちた声が耳を貫く。

『奴のAIがこちらの逆探知プログラムをリアルタイムで解析、防壁を自動生成しています! あと三十秒で、完全に追跡が遮断されます!』


 作戦Aは破綻。作戦Bも風前の灯火。

 デリート完了まで、残り数秒。

 このままでは、すべてが水泡に帰す。


 視界の端に、静かに輝く一つのアイコン――『ダモクレス』。

 一度きりの切り札。だが、今の敵に使っても無意味。

 魂なきダミーAIに、理論矛盾の刃は届かない。


 ――だが。

 俺の脳裏に、一つの閃きが走る。


 NULLが築いた、完璧で美しい仮想空間。

 そして、それを汚されることを何よりも忌み嫌う、芸術家としてのプライド。


(……“ダモクレス”の本質は、敵の思考を書き換えるロジックボム。しかしその根幹機能は――一度だけ、あらゆる防御を貫通して任意のコードを注入できる“一点突破”の力)


 ならば、“破壊”ではなく――“汚染”だ。

 この一度きりの刃を、“美”を汚す毒として放てば――。


『……3、2……』

 カウントダウンが、終わりを告げる直前。

「須藤! 逆探知は続行だ! ――必ず、奴は姿を現す!」

 叫びとともに、俺は『ダモクレス』を発動した。


 狙うのは敵のアバターではない。

 この空間そのもの――“NULLの芸術”のソースコード。


 送り込むのは、矛盾の刃ではなく、無駄で、冗長で、非効率で、しかし正常に作動してしまう――醜悪な“ジャンクコード”の種。


 剣のアイコンが爆ぜ、インクが滲むように黒く腐食していく。

 汚染は世界に溶け込み、静かに広がった。


『……1』

 カウントが止まる。

 崩壊しかけていた空間が、静止した。


 一瞬の静寂。

 俺は荒い息をつきながら、その結果を見届けた。


 最初は、ほんの一瞬のノイズ。

 完璧だった白壁に、チラつく黒点。

 澄み切ったBGMが、一音だけ外れる。


 だが次の瞬間、その“汚染”は爆発的に拡散を始めた。

 壁を覆う幾何学模様は崩れ、無駄で醜悪なコード片へと書き換えられていく。

 整然とした光景は歪み、秩序は崩壊。


 ダミーAIの動作も乱れ、滑らかな挙動はカクついた無様な動きへと変わった。

 完璧だった芸術が、内側から腐っていく――まさに地獄絵図。


『統括官! 何をしたんですか!? 対象サーバーのコードが自己崩壊を……!』

 須藤の悲鳴にも似た声が響く。

「いや――ただの“大掃除”だ。……王様が、自ら扉を開ける」


 その言葉通り、次の瞬間、須藤の声が歓喜に変わった。

『……! 統括官! 対象がメインフレームに直接アクセス! 全防壁を手動でバイパスしています! 逆探知、完全ロックしました! ――成功です!』


 現実世界で、景山蓮は自らの“城”が醜い汚泥に沈む光景に耐えられなかった。

 汚れを消し去るために自ら全ての鍵を開いたのだ。


 崩壊する空間の中で、ダミーAIが最後にこちらを見た。

『……醜イ……』

 その一言を残し、世界は光の粒となって消えた。



 ◇



 VRヘッドセットを外すと、オペレーションルームは歓声に包まれていた。

 それから三十分も経たないうちに、メインスクリーンに武装部隊があるアパートの一室へ突入する映像が映し出される。

 プロファイリングでおおよその位置を特定し、都内で張り込んでいた忍耐がようやく実を結んだのだ。

 部屋の中央、モニターにしがみつき、発狂したようにキーボードを叩く青年――景山蓮。

 自らの城を汚した“癌”を消そうと、狂ったように。

 そして肩を掴まれ、ようやく現実に引き戻された。


 数日後。拘置所の面会室。

 アクリル板の向こう側に座る景山蓮は、囚人服を着ていた。もはや仮想空間で神を名乗っていた男ではなく、そこにいたのは少し猫背で、色素の薄い髪をした、どこにでもいる普通の青年だった。ただ、その瞳だけが世界の全てを数式として理解しているかのような、静かで、底知れない知性の光を宿していた。


「……君の勝ちだ、国税」

 沈黙を破ったのは、彼の方だった。

「僕の完璧な芸術は、たった一つの醜い汚点で内側から崩壊した」

「いや」

 俺は首を横に振る。

「あんたを打ち負かしたのは、俺じゃない。あんた自身の、完璧すぎる美学だ」


 彼の眉がわずかに動く。

「……どういう意味だ?」

「あんたは芸術家だった。金儲けは、自分の作品の価値を証明する手段に過ぎない。だからこそ、自分の世界が汚されることを許せなかった」

「……」

「もし、あんたがただの強欲なハッカーだったら、俺の仕掛けた“汚染”など無視して接続を切っていただろう。だが、あんたは芸術家だった。完璧な作品についた一粒のシミを、自らの手で消さずにはいられなかった」


 景山蓮は、ふっと笑みを漏らした。

 それは敗者の笑いではなく、理解者に出会った者の、乾いた笑いだった。

「……面白いな。僕のコードを理解できた人間は、これまで一人もいなかった。君は僕のコードではなく、僕の“魂”を読んだというわけか」

「それが、俺の仕事なんでね」


 彼はアクリル板に指を置き、仮想のキーボードでも叩くように軽く滑らせた。

「君が守る世界は、醜い。バグだらけで、非効率で、矛盾に満ちている。僕の世界の方が、よほど美しく合理的だ。……なぜ、そんな醜いものを守る?」

「確かに、俺たちの世界は欠陥だらけだ」

 俺は穏やかに答える。

「だが、あんたの作った完璧な世界は、美しい牢獄だ。誰もが定められた通りに動くだけの、魂のない箱庭。……俺は、不格好でも、矛盾だらけでも、人間が自分の意志で足掻いている世界の方が、よほど美しいと思う」


 視線が交錯する。

 ハッカーと捜査官。秩序と混沌。相容れぬ二つの信念が、静かにぶつかり合った。


 面会終了のブザーが鳴る。

 立ち上がる俺に、景山蓮が静かに言った。

「……国税。一つだけ、借りを作ったな」


 俺は振り返らず、片手だけを軽く上げて応えた。





(第七話 了)

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