第16話 最後の真跡
数日後。
文化財課の仮設指揮室には、緊張感が張り詰めていた。
課長が最新の監視写真をテーブルに叩きつける。
「模写はすでに売買された。ターゲットは美術館の内部関係者で確定だ。今夜、現場に侵入し、すり替えを行う予定。」
篠原の目が写真に釘付けになる。
その顔を見間違えるはずがない――副館長、高瀬雅臣。
かつては展覧会の企画に最も積極的だった男が、いまや贋作すり替えの容疑者だ。
御影が口笛を吹き、皮肉混じりに笑う。
「やっぱり身内か。スリル満点だね。」
篠原は眉をひそめ、低く言った。
「……出動時には、俺も呼んでくれ。」
深夜、美術館の展示室は非常灯だけが灯り、影が長く伸びていた。
篠原は監視車の中で、モニターを睨んでいた。
イヤホンからは、現場班の緊張した声が聞こえてくる。
御影は腕を組み、椅子にもたれかかりながら言う。
「緊張してる? 知り合いが捕まるの、初めて?」
篠原は答えず、ただ画面を見つめ続ける。
「ターゲット、展示室に侵入……展示台に接近……手袋装着。」
その声に、篠原の指先が白くなるほど握り締められた。
「行動開始!」
直後、イヤホン越しに響く制圧音と足音。
篠原は警察とともに展示室に駆け込んだ。
御影はのんびりと後を追ってくる。
スポットライトの下――
高瀬が床に押さえつけられていた。
傍らには本物のフレームと、御影が描いた模写。並べて置かれ、素人には区別がつかないほど精巧だ。
「……なぜ……」
篠原の声はかすれ、喉を絞られたようだった。
高瀬は顔を上げ、苦笑を浮かべる。
その声はしゃがれていたが、どこか解放されたように軽やかだった。
「絵を一枚売れば、一生食っていける。
お前たちには分からないだろ? 俺にとって絵なんて、ただの金に換えられる物なんだ。
ずっと壁に飾られてるより、価値があると思わないか?」
突然、彼の目が鋭くなり、篠原を睨みつける。
「それにさ、お前たち鑑定士とやらも結局は同じだろ。
『本物です』って一言言えば、それだけで金が転がり込む。
芸術を守ってるつもりかもしれないが――実際は、金持ちのための洗浄屋じゃないか。
正義ヅラしてても、中身は同じだよ。
篠原……お前の顔なんて、最初から気に食わなかった。
すり替えが成功してたら、フランスにどう説明するつもりだった?
俺はな、その時、お前が学会から追い出される姿を――この目で見届けてやるつもりだったんだ。」
展示室には、彼の荒い息遣いだけが響いていた。
篠原は言葉を失い、その場に立ち尽くす。
御影が指を鳴らし、気だるげに言う。
「ねぇ、録音してた?」
一人の警官が答える。
「正式な証拠には、署で調書を取らないと。」
御影が眉を上げて鼻で笑う。
「なんでも書類主義だな、まったく。」
高瀬が連行され、展示室は再び静まり返る。
篠原はその場から動けなかった。
目は床を見つめたまま、指先はまだ震えていた。
御影が静かに歩み寄り、低く囁く。
「……あいつの言葉、気にしてる?」
篠原はゆっくりと顔を上げた。
その視線は御影を越え、どこか遥か遠くを見ていた。
「……もし本当に、真贋の区別がつかない日が来たら――
俺という存在に、意味はあるのか?」
御影は彼をじっと見つめ、微笑を浮かべる。
その声は軽く、けれど不思議なほど真っ直ぐだった。
「少なくとも、俺には分かる。
――それで、十分でしょ?」
そして、彼はさらに一歩近づく。
囁くように、耳元で。
「ずっと君を見てたよ。」
篠原の胸が一瞬詰まり、呼吸さえも止まりそうになった。
スポットライトの光が、二人の影を切り裂くように照らす。
緊張が張り詰め、何かが弾けそうな空気だけが残された。
事件が収束した後、警察は約束通り、御影にかけられていた容疑を正式に取り下げた。
だが彼は――
何の言葉も残さず、連絡一つ寄越さずに消えた。
課長が給湯室でぼそっと言った。
「釈放された途端、自分で航空券取って、ニューヨークに飛んだらしいよ。
なんか、『 気になる絵がある』って。」
軽い口調だった。まるで、どうでもいい出来事のように。
篠原は「……そうですか」と短く返すだけ。
だが、紙コップを握る指先には、力がこもっていた。
しばらくの沈黙のあと、課長がふと資料をめくりながら続ける。
「高瀬の帳簿にあったMは、あいつだったよ。
どうやら数人の画家に同時に模写を描かせて、その中から最高の一枚を選んですり替えたらしい。」
「その画家も、佐伯の画塾出身で……御影と何か因縁があったようだな。
だから、ついでに彼に罪をなすりつけようとしたんだろう。」
篠原の表情がわずかに揺れた。課長はそれを見て、苦笑する。
「《双子の夢》のすり替え……お前が気づくのが早すぎたんだ。
真作をすぐには売れなくなって、もう一度やるしかなくなった。」
紙コップのコーヒーを一口啜り、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「今度はフランスからの借展に手を出して、お前を巻き込めば――
一発で潰せると思ったんだろうさ。」
沈黙のあと、課長は肩をすくめて話を締めた。
「ナイフも車も、高瀬の仕込み。告訴するかは、君次第だよ。」
それだけ言い残し、課長は資料を抱えて指揮室へ戻っていった。
給湯室には篠原だけが残された。
手元のコーヒーは、すっかり冷めきっていた。
紙コップをゴミ箱に捨てながら、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような虚無が残る。
――まるで、長い追跡劇が終わった途端、舞台から誰かが音もなく姿を消してしまったような感覚だった。
その後数週間、美術館は高瀬の事件によって世間の批判にさらされ、展示室は一時閉鎖、メディアの取材も相次いだ。
『双子の夢』の真作は無事に戻ったものの、篠原は毎日のように報告会と外部対応に追われ、フランス側への報告書も自ら作成することとなった。
ある日、彼は朝刊を広げた。
一面に大きく踊る見出し――
《国際美術館、信頼崩壊か 貸出展に影響も》
だが、それを読んだ市民の反応は意外なものだった。
「話題のあの絵が見たい」と、連日美術館には見学希望者が殺到。
さらにはネット上で「フランス側は今後も貸出を継続する意向」とする別の報道も出始め、情報は錯綜していた。
新聞の文字だけを見れば、「真実」はそこに書かれているはずだった。
だが――
篠原の脳裏に浮かんだのは、画架に置かれた、あの一枚の絵だった。
御影が残した、あの模写。
いや、それは模写と呼ぶには、あまりに本物だった。
その一枚のほうが、どんな報道よりも「真実」に見えた。
ようやくすべての書類作業を終えたある晩、篠原は客間の片付けを始めた。
部屋には、まだ微かに松脂の匂いが残っていた。
彼は布団を、普段物を置いている部屋にしまった。
中央の画架にかけられた白い布が、少しずれていた。
彼は無意識にその布に手を伸ばす――
指先がキャンバスに触れた瞬間、動きが止まる。
布の下の線が、記憶にある自画像と違っていた。
ゆっくりと布をめくると、そこに現れたのは――
彼自身の肖像画だった。
だが、それは鏡に映る姿よりも、遥かに深かった。
御影の筆致は、模写のときのように正確で抑制されたものではなかった。
どこか奔放で、感情が溢れ出すような線だった。
粉彩の線は少し乱れていたが、篠原の表情の奥底までをも、見事に描き出していた。
眉間のわずかな皺すら、丁寧に拾われている。
色調は現実よりも暗く、背景は月光に包まれた部屋のようだった。
周囲は霧に飲まれ、彼だけがスポットライトに晒されていた。
それは写実ではなく、感情の記録だった。
御影が、深夜の静けさのなかで、ひと筆ずつ刻んだもの。
外見だけでなく、篠原の中にある深い孤独までもが、そこには描かれていた。
その瞳を見つめたとき――
篠原の胸が、静かに締めつけられた。
絵の中の彼は、無防備で、すべてを見透かされたようだった。
彼の脳裏に、御影のあの言葉が蘇る。
『もしさ。……俺が、初めて自分の絵を描いたら――
あんた、見抜ける?』
長い沈黙の末、篠原はそっと呟いた。
「……これこそが、唯一の真跡かもしれない。」
彼は絵に布をかけ直し、ゆっくりとデスクへ戻った。
パソコンを開く。冷たい白光が、その鋭く引き締まった目に映る。
画面に航空会社のページを開き、迷いなく目的地を打ち込む。
New York
指先が「予約確認」のボタンの上で一瞬止まり――
そして、力強く押された。
- 全話終 -
《真作と呼ばないで》 雪沢 凛 @Yukisawa
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