第15話 月光の罠
翌日からの二日間、日中は文化財対策課で通常通りに捜査の進捗を整理し、夜になるとアパートのリビングに微かに松脂の匂いが漂っていた。
下地と第一層の着色まで、予定通り進んだ。
構図に入る夜、御影が第一筆を下ろした瞬間、部屋の空気が一気に張り詰める。
銀灰色のパステルが、まるで霧のようにキャンバスに薄く延ばされる。筆跡はほとんど見えない。
篠原は思わずその動きに見入っていた。
御影の手首は驚くほど安定していて、一筆一筆に込められた力加減が完璧だっ
た。透明に近い薄さで、層が静かに重ねられていく。
「スピリアールトのグレーズは、再現が難しいって言ってたよね?」
御影は振り返らずに問いかける。
「……ああ。」
篠原が小さく答えると、御影の口元に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、よく見てて。」
指先で月光の縁をそっとぼかしていく。まるで角度まで計算されたかのような動作。
浮かび上がる光の輪郭は、完璧に近かった。
篠原はその描かれる光に息を合わせるように、無意識に呼吸をゆっくりとしていた。
「瞬きしないで。」
御影は囁くように言った。
「やり直しはきかない。修正すれば台無しだ。」
筆が止まった瞬間、リビングには二人の呼吸音だけが残った。
御影は手首を軽く振って、長く息を吐く。
「今日はここまで。今夜は乾かす。さもないと、グレーズが剥がれるから。」
彼の目はまだ興奮の余韻を残して輝いていた。
その姿を見て、篠原は一瞬、自分が目の前にしているのが「容疑者」ではなく「芸術家」なのだと、あらためて思った。
キャンバスには、月の光が淡く浮かび始めていた。まだ下層なのに、すでに本物の空気感を持っていた。
「……思ってたより、筆跡がずっと綺麗だ。」
そう口にすると、御影は軽く眉を上げて得意げに笑う。
「当たり前。これが俺の食い扶持だよ。」
額の汗を拭きながら、画架を壁際に移動させる。
「明日は第二層、あさってで仕上げだ。」
「……五日で完成? 普通なら、どんなに急いでも十日はかかるだろう?」
篠原は驚いたように言った。
御影はテーブルに座り、水を注ぎながら軽く笑う。
「そりゃね。」
彼は視線を上げて、少し皮肉っぽく続けた。
「君がいるし。調査の時間も省けた。羽田の古いキャンバスと絵具もある。速乾剤も使う。」
そして、人差し指を一本立てた。
「それに……俺がいる。これだけ揃えば、数日で『掛けられる絵』になる。」
「その効率の良さ、裏の人間は予想もしてないだろうね。」
篠原は沈黙しながら、完成途上の月光に目を向けた。
そこには、既に真作のような深さがあった。
御影は椅子にもたれながら、緩く笑う。
「これが餌ってもんさ。リスクを冒すには、十分な本物が必要だから。」
不思議と、生活にリズムができてきた。
時には、篠原が疲れたままソファで寝落ちしてしまい、御影が無言で毛布をかけることもあった。
夜のランプに照らされた彼の顔は、眉間の皺もなく、昼間より穏やかだった。
御影はその姿を静かに見つめたまま、笑みを浮かべ、しかし視線をそらさなかった。
ある夜、篠原は画布の前で長く立ち止まり、ぽつりと呟く。
「月のグレーズ、もう少し薄く。真作の冷たい色は、もっと澄んでる。」
御影はちらりと彼を見て、興味深そうに笑った。
「本当にうるさいね、君は。」
そう言いつつ、彼は指示通りに筆を修正した。
またある時、篠原は簡単な夜食をテーブルに置いた。
「何か食べてから描け。」
御影は箸を咥えながら、気怠げに笑う。
「味に文句はないさ。」
篠原はふと彼を見て言う。
「君、いつ休んでるんだ?」
御影は肩をすくめる。
「たまに居眠りはするさ。」
空になった器を置き、画布を眺めながら、ふっと笑う。
「そんなに見つめて……心配してくれてるの?」
篠原はわずかに表情を引き締め、しかし否定はしない。
「集中しろ。」
御影はくすりと笑って、低く囁く。
「じゃあ、事件が解決したら――俺にヌードモデル、やってよ。」
篠原は一瞬、鋭く睨みつける。
「……考えとく。」
御影は声を上げて笑い、また筆を取った。
「じゃあ、もっと頑張らなきゃな。」
五日目の深夜、ついに模写が完成した。
最後のレイヤーは思った以上に完璧で、月光と灯りがまるで本当にそこに浮かんでいるようだった。
篠原は長くその絵を見つめ、ようやく口を開く。
「前に聞いたな。君が初めて会った時、『自分の絵を取り返しに行った』って……」
御影はパステルを片付けながら、顔を向けずに答える。
「ん?」
「その絵の名前……《青のたそがれ》だったんじゃないか?」
その問いに、御影の手が一瞬止まる。
次の瞬間、口元に緩やかな笑みが浮かぶ。
だがその目には、警戒心が走るような鋭さが一瞬だけ見えた。
「さて……どうだろうね。」
御影はゆっくりと振り向き、視線を篠原に留める。
「でも、今は別のことで頭がいっぱいさ。」
彼の指がふわりと動く。篠原には、それが画布を示しているのか、それとも灯りに照らされた自分の輪郭なのか、判断できなかった。
胸の奥が、ふと締めつけられる。
息が止まりそうになり、視線を逸らすこともできず、ただ彼の背を見ていた。
「寝よう。」
御影の声は、何事もなかったように軽やかだった。
「後は、あの黒幕が食いつくのを待つだけ。」
篠原は目を伏せ、指先を小さく握り込む。
再び顔を上げた時、そこにいたのは――
いたずら好きな笑顔ではない。
若さの仮面が剥がれたような、静かな背中だった。
――もしかして、最初から俺は彼を見誤っていたのかもしれない。
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