第14話 影をなぞる光

 夜も更けた頃、篠原がアパートに戻ると、ちょうどスリッパに履き替えたところで、玄関の鍵が「カチャ」と音を立てた。


 御影がドアを開けて入ってくる。肩には大きな画材ケースを担ぎ、上着の袖口にはまだ灰が付いていた。前髪も風に乱れたままだ。


「お前――」


 篠原が眉をひそめて声をかけかけたが、御影は荷物を玄関にドンと置き、長く息を吐いた。


「ちょっと手伝って。これ、置く場所がいるんだ。」


 篠原の視線が画材に落ち、顔つきが険しくなる。

「課長から借りたって、まさかこれのことか?」


 御影は悪びれもせず、当然のように笑った。

「課長にもう聞いたの? 羽田も了承済み。署に置いといても埃かぶるだけでしょ。使った方がマシ。」


「使うって……?」

 篠原の声に不信の色が混じる。


 御影は前髪をかき上げ、部屋の空白の壁を見渡していた。

「決めた。《Moonlight and Light》を模写するよ。」


「……何だと?」

 篠原はその場に固まり、まるで意味が理解できていないようだった。


 御影は振り返り、いつになく鋭い眼差しで言った。

「模写を頼んだのは君でしょ? だったら、相手がその絵を狙ってくるくらいの出来じゃないと、釣れない。」


 篠原の指先がわずかに震え、喉に何かが引っかかったように声が詰まった。

「……気が狂ったのか。君自身が、あの絵は模写が難しいって――」


「そう。」

 御影の笑みは淡く、どこか投げやりなほど静かだった。指先で鉛筆の軸を転がしながら、低く言う。


「だから、君が必要なんだ。」

 その目は、どこか危ういほどに強く光っていた。


「スピリアールトの作品は模写したことがない。未知だからこそ、面白い。」

 御影の声は低く、興奮すら滲んでいた。


 室内がひどく静かになる。


 篠原は彼をじっと見つめたまま、ゆっくりと指をほどくように手を緩めた。

 ――もう後には引けない。共にこの局を仕上げるしかない。



 二人は並んで床にしゃがみ、ビニールシートを敷き、四隅をテープで固定する。

 御影がテープを伸ばそうとしたとき、指先が篠原の手の甲をかすめた。


 薄く粘着の感触が残る。


「集中しろ。」

 篠原は顔をしかめ、手を引いた。


 御影はくすっと笑いながら言う。

「そんなに緊張してどうするの? ここがなんだから。」


 篠原は何も言わず、画架をまっすぐに立てる。


 御影はその背中を見つめ、ふと真面目な声に戻る。

「本気で言ってるんだ、篠原。君がいなければ、この模写で誰も騙せない。」


 彼は空のキャンバスを慎重にはめ込み、どこか神聖な儀式のように動いた。


 篠原はその白い画布をじっと見つめ、ようやく資料を手に取り口を開いた。

「始めよう。」


 御影は袖をまくり、テーブルに座る。

 口元にうっすらと笑みを浮かべた。


「いいね。これで俺ら、本当に共犯だ。」


 リビングにはランプの灯りが広がり、テーブルの上には画集、資料、カラーチャートが散らばっている。


「原作はパステル画だけど、下地に油彩が入ってるみたいだ。たぶん層を安定させるため。」

 篠原は拡大図をなぞりながら言う。


 御影は紙をめくりながら軽く鼻を鳴らす。

「だから速乾剤が必要なんだよ。亜麻仁油だけじゃ乾くのが遅くて、色が潰れる。」


 そして視線を篠原に向け、ニヤリと笑う。

「でも、鑑定出すわけじゃないでしょ? 手抜き、バレなきゃセーフ。」


「その手抜きが見抜かれたら終わりだ。」

 篠原の声は冷たい。カラーチャートを取り、再現画像と照らし合わせる。

「この銀灰……月光の下地に近い。鉛白でいこう。」


 御影は目を細め、口角を上げる。

「選色のうるささ、俺以上じゃない?」


 彼はパステルを指に取り、スケッチ用紙に色を重ねる。

 銀灰、冷白、淡い赭が一層一層重なり、月光のグラデーションが浮かび上がる。


 篠原はその緻密な色調に見入っていた。


 御影の視線は紙面に向いたまま。呼吸まで筆に合わせているようだった。

「スピリアールトの月光は、透明感が命だ。」


 彼の声は独り言のように静かで、パステルのこすれる音が夜に響いた。

「焦ったら終わり。にじんで、潰れる。」


 指先でパステルをそっとのばすと、霧のようなグレーが広がり、月の縁が浮かび上がる。


 篠原は手を伸ばし、別の紙にそっとタッチした。

「ここ、もう少し冷たい灰の方がいい。」


 御影は目を上げ、ニッと笑う。

「我慢できなくなった? ほら、ここ座って。」


 少しだけ横にずれてスペースを空けた。篠原はしばらく黙ったまま、やがて隣に腰を下ろした。


 二人の肩がかすかに触れる。


「絵はもう描かないって言ってたのに。」

 御影はパステルを渡しながら言う。


 篠原はそれを受け取り、ぎこちない手つきで紙に数筆。

 御影が目を細める。


「悪くない。光がちゃんと残ってる。」


 机の上には試色紙が次々に積まれていった。

 どれほど時間が過ぎたのか。気づけば肩がじんわりと重い。


 御影がパステルを置き、深く息を吐いた。

「今日はここまで。明日下地塗って、明後日一層目だ。」


 そして篠原の方を見て、口元に笑みを浮かべた。


「その時、寝落ちすんなよ?」


 篠原は資料をまとめながら、低く返す。

「監視してる。」


 御影はじっと彼を見つめた。

 その瞳には、ふだんと違う、柔らかい何かが宿っていた。


「……うん。信じてる。」


 その言葉に、篠原の指がわずかに震えた。

 心に、何か熱いものが触れたような感覚。


 御影はそのままバスルームへ向かい、ドアを閉めた。


 残されたリビングには、再び静けさが落ちた。


 篠原は一枚の試色紙に触れる。

 灰にかすかに溶ける月の光。


 その指先が、ふと止まる。


 初めて――

 御影が本気になった瞬間を見た気がした。

 そして、あの一言が耳に残る。


「信じてる。」


 それは夜の中に焼きついた、消えない印だった。

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