第13話 半步の先
篠原は、今朝も御影がいつものようにダイニングテーブルで朝食を待っていると思っていた。
しかし、リビングはがらんとしていて、彼の上着さえ見当たらなかった。
窓辺に歩み寄り、下の通りを見下ろす。玄関前には警察車両がまだ止まっていた。
準備を終えて下へ降りると、警官がすぐに声をかけてきた。
「御影さんは今朝、先に署へ戻られました。課長からの指示で、私はここで篠原先生の安全を確保するようにと。」
一瞬の間を置いて、篠原は静かに頷いた。
彼はすぐに署へ向かわず、まず昨日持ち帰った人事ファイルを美術館へ返却することにした。
午前中の美術館は人の出入りもまばらで、廊下には足音が静かに響いていた。
職員たちが彼とすれ違うたびに、いつも通りの挨拶を交わしたが、篠原の背筋にはひやりとしたものが走る。
—— この件は——思ってる以上に近い
課長の言葉が頭の中で何度も繰り返された。
もし犯人が本当に館内の人間だったら? もし、毎日顔を合わせている誰かだったら——?
借用展示エリアに足を踏み入れると、彼の歩みはいつもよりも遅くなった。
展示室の照明は冷たい白で、巨匠たちの作品が整然と並んでいた。
篠原は一枚一枚の額縁、ラベル、封印を丁寧に確認しながら歩いた。
——こうした習慣があったからこそ、《双生の夢》がすり替えられたことにすぐ気づけた。
だが今は、胸の奥に重く圧し掛かるものがあり、息苦しささえ感じる。
気づけば展示室を一周していた。肩も首もまるで石のようにこわばっていた。
深く息を吐いたとき、シャツの背中が汗で濡れているのに気づいた。
午後、美術館での作業を終えて文化財課に戻ると、指揮室の空気は相変わらず張り詰めていた。
だが、御影の姿はなかった。
いつも彼がしゃがんでいる壁際の場所がぽっかり空いていて、妙に目についた。
その静けさが逆に不安を煽る。
篠原は展示品のチェック結果を報告した後、昨晩の仮画計画について切り出した。
「模写で犯人を誘き出したいと思っています。ただ、御影はまだ協力に同意していません。警察側からの手配も遅れる可能性が——」
課長は少し驚いたような顔をした。
「え? でも、彼、昨日うちに道具の貸し出しを申請してきたよ?」
「……御影が?」
課長は軽く頷き、おかしそうに笑った。
「そうそう。今朝も来て、羽田が残した古いカンバスや絵の具を取りに来た。さらに機材もいくつかリストアップしてね。君らの間で話はついてると思ってたけど? 彼のアイディアじゃなくて、そっちが提案したのか?」
篠原は目を伏せ、言葉を詰まらせた。
御影がすでに動いていたこと、それも自分より一歩早く、用意まで整えていたことに、胸の内に複雑な感情が広がった。
課長はその表情を見て、笑い声を上げた。
「最初はお前ら、顔を合わせるだけで火花散ってたから心配したけど、同居したら息もぴったりじゃないか。」
白板をポンと叩き、声の調子を切り替える。
「よし、じゃあ我々も動こう。黒幕を釣るには、君らのコンビが要だ。」
「……そうですか。」
篠原はそう答えたが、筆先は紙の上で一点を深く突いていた。
静まり返った指揮室に、御影の気の抜けた笑い声が脳裏で響き、思わずペンを握る手に力が入った。
課長は隣の警官に目配せした。
「それと、あれも持ってきて。」
警官が机から一つの封筒を取り出し、手渡した。
「御影さん、道具を借りるだけじゃなくて、これも調べておいてくれって言ってたんだ。」
課長は封筒を篠原の前に置き、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「君が必要になるだろうってさ。」
一瞬、篠原の指が止まり、その感触に胸が僅かに鳴った。
御影はすでに計画に乗っていただけでなく、自分の代わりに資料や必要なものまで揃えていた——
その「一歩先を行かれた」事実に、なぜか少し安心しながらも、胸の奥にずっしりと重たいものが沈んでいった。
課長が軽く肩を叩く。
「今回は、賭けてみる価値がありそうだな。」
篠原は紙封の上から手を強く握りしめた。
その厚みの中に、もう一人の存在が確かに感じられた。
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