偽通夜

呑戸(ドント)

偽通夜



 マスターキーで鍵を開ける。

 居間に続くまっすぐな廊下は暗く、ひっそりとしていた。部屋の持ち主が不在なのだから当然である。


 この部屋の住人、下田さんが散歩の出先で倒れたのは昨日のことだった。

 人でごった返す駅前で倒れたのだそうだ。


 下田さんは八十歳の男性、持病の心疾患が急に襲ってきて、薬を出す間もなく倒れてしまったらしい。

 都会とは言え冷たい人間ばかりではない。すぐに救急車が呼ばれ、病院に担ぎ込まれた。


 マンションの大家である私に連絡が入ったのは翌日の昼のことだ。

「大家さんに来てもらいたいのですが」

 と、看護師は下田さんからの伝言を私に告げた。

 私は病院にかけつけた。下田さんは頭にぐるぐると包帯を巻いて、足を白い掛け布団の中でやんわりと曲げていた。

 意識はあったし症状は治まっている。しかし倒れた際に頭を打っていて、膝を怪我しているという。

 念のため短期間の入院、となったが、動けないし、頼れる身寄りも友人もいないという。

 それで、


「部屋にねぇ、保険証と財布があるんですよねぇ」


 下田さんは枕の上で銀髪を揺らしながら弱々しい声で言う。


「居間に入ってすぐのね、左手の衣装ケースの上に置いてあるんですよ」


 着替えは何とかなりますし、保険証もまぁ後で出せば問題ないんですが。手元にお金がないと、どうにも落ち着かなくて。

 下田さんは言う。

 聞けば倒れた時は二千円ほどしか持っていなかったという。様々なことは後回しにできるにせよ、手元不如意なのは不安であろう。


「保険証は財布の中にありますので、管理人さんがお持ちのね、合鍵で入ってもらって、財布だけパッと取って、持ってきていただければ」


 しかしあなたのプライバシーが、と言うと、下田さんは「いやいや、構いません」と手を振った。

「事情が事情ですからね。致し方ないですよ」

 けどね──と下田さんは四人部屋の他のベッドに目をやりながら、私に囁いた。


「私の部屋の中については、他の人には話さないでもらっていいですか。それだけ、ひとつだけ、お願いします」



 はて、と私は思う。

 下田さんの部屋には何があるのだろう。



 良くないこととは言え、好奇心が疼いた。

 部屋が汚い、ということはないだろうと思う。いつも身綺麗にしているし、ゴミ出しもきちんとしている。

 確か以前は、大学の教授をしていたと、聞いている。


 八十の老人であるから、「推し活」というのだったか、部屋の壁や天井がアイドルやアニメキャラのポスター、グッズでみっしり、ということもなかろう。

 いや、今の八十歳は気持ちが若い人が多い。あるいは若い頃に惚れていた女優やタレントのポスターというのもあり得る──



 そんなことを勝手に想像しつつ私は、部屋を開けたわけである。

 時刻は夜の七時であった。


 外廊下からの明かりがうっすらと射し込んでいて、そのぶん闇が濃く感じる。

 暗い廊下に目をやりながら、「気にはなるけど、さっさと済ませちゃおう」と思いつつ玄関に足を踏み入れる。

 ごつん、と爪先に当たるものがあった。



 玄関に、大量の靴が揃えてあった。



「え」

 革靴にヒールにパンプス、すべて黒である。

 外向きに綺麗に並べられ、兵隊が整列しているみたいだった。右隅に古びたサンダルがある。これはきっと下田さんのものだろう。


 私は顔を上げた。

 廊下の奥、居間からは人の気配など微塵もない。閉ざされた居間へ続くドア、磨りガラスの向こうは暗い。

 

「し、失礼、します」

 私は念のため声をかけてから、靴を脱いでそろり、と上がった。

 背筋がぞわぞわするのを感じながら廊下を進み、ドアの取っ手に手をかけた。

「あ、開けますよ。失礼しますよ」

 言いながらドアを、ゆっくりと開けた。


「ひ──」

 声が出てしまった。


 居間には十人ほどの喪服の人が座っていた。

 男も女もいて、皆洋服で、子供もひとりいた。


 全員が正座し、力なくグニャリと首を垂れている。

 奥には布団が伸べてあり、人間がひとり横たわっている膨らみがあった。

 紫色の掛け布団から突き出ている顔には、白い布が乗せられていた。

 ベランダへ続くカーテンはぴったり閉められている。



「あ、あの」

 声をかけたが反応はない。

 幽霊か幻覚か、とも思ったものの、どうにもそうとは感じられない。

 そこに、目の前に、確実にいる。

 けれど「人」とも思えなかった。身動みじろぎ、息遣い、そういったものがまるでないのだ。


 一歩だけ部屋に入る。横の壁にはライトのスイッチがある。

 ぱちり、と押すと部屋が一気に明るくなった。眩しさにわずかに目がくらむ。

 それでも室内にいる人間たちは動くことも、声を発することもなかった。


 私は、すぐそばに座って項垂れている洋服の喪服の女性、彼女の首の後ろ──襟足のあたりに、強い違和感を覚えた。

 確かに肉色をしているのだけれど、皮膚ではないような感じがする。

 そうっと膝を、カーペットの敷かれた床に下ろして、女性の横顔を覗き込んだ。


 それは人ではなかった。


 人形、シリコンだかゴムで出来た、等身大の愛玩人形ラブドールらしかった。

 最近のドールはほとんど本物の人間に見える──いつだか、ネットの記事で見かけて知っていた。

 口もちゃんと開くし、舌や歯まで揃っている、と写真が掲載されていたのも記憶している。

 さらに、値段が三十万円、四十万円と書いてあって、「そりゃあリアルだが、そんな金額を払ってまで人形を買うのか」と呆れたので、よく覚えていたのだ。


 私は四つん這いの状態で、参列者の隙間を移動しながら顔を確かめていく。


 男も女も子供も、すべてがそういったドールだった。人形たちは目を開けたまま、頭を下げて、高級そうな厚手の座布団に正座している。

 彼らの間を抜けて、布団の前までたどり着いた。

 枕元には蝋燭立て、線香立て、小さなお盆に乗った茶碗が並んでいる。

 少し離れた場所に薄っぺらな座布団が一枚あり、その脇には蛇腹に折り畳まれた紙が置いてあった。

 ふた折り分くらいが開かれていて、



 皆々様、本日は、愛する妻の通夜に

 ご参加いただき、誠にありがとうご



 筆文字で書かれた冒頭を読んでしまい、私は思わず視線をそらした。

 下田さんはずっと独身だったはずである。


 布団に横たわる、顔に白い布がかかったモノに、嫌でも目が向いてしまう。

 これが、「妻」なのだろう。

 黒々とした長い髪が頭部から伸びて肩へ、布団の中へと入っている。

 肩と胸元を見るに、白帷子を着ているようだった。左前だ。死人の着る着物である。


「妻」の枕元まで行く。

 見たくないけれど、見なければきっと後悔する。いつまでも頭の隅にこびりついたままになるだろう。そう思った。

 私は両手を伸ばして、白い布の右上と左上をつまみ、ゆっくりと、ゆっくりと、めくった。



「妻」は、真っ平らな木の顔をしていた。

 目も鼻も口もない。

 それらしい凹凸や曲線すらない。

 円柱の形をした頭部に艶っぽい黒髪が綺麗に埋め込まれているのだった。


 無性に怖くなって布を戻した。

 すると。



「ふうぅーっ」



 顔の口にあたる位置から吐き出された呼気で、確かに布が浮き上がったのを、私は見た。


 立ち上がって力なく座る人形たちの間を抜けて、部屋のドアそばにある衣装ケースの上にあった財布を掴んで部屋から出た。

 音はできるだけ立てないようにしたし、靴を履く時も他の黒い靴を動かさないように注意した。


 乱してしまうと、この部屋の均衡のようなものが崩れてしまう気がしたからである。




 下田さんに財布を渡した時も、その後も、私たちの間で意味深なやりとりや、無言の会話のようなものは交わされなかった。

 ふたりともに、何もなかったかのように振る舞い続けた。


 ほどなくして下田さんは無事に退院し、マンションの自室に戻って、以前と一切変わりない様子で暮らし続けている。


 近所の迷惑になることをしているでもない。

 危険な行為をしているわけでもない。

 犯罪や非倫理的行為ですらない。

 こちらとしては何か働きかけたり、何か言ったりすることはできない。



 今回たまたま偶然が重なって、私は人の家の中の異様なものを目撃したわけだが──


 そもそも、近隣の住民や隣人が、家の中で何をしているかなんてことは一切、我々の知るところではないのである。

 

 

 

 

 

 

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偽通夜 呑戸(ドント) @dontbetrue-kkym

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