侵食

鋏池穏美


 数年付き合った彼、誠一せいいちとの結婚が決まった。

 嬉しいのは嬉しい。けれど胸の奥にある小さなしこりが、私の息を浅くする。

 誠一は医者の家系。お父さんもお母さんも医者で、もちろん誠一も。弟の誠人まさとくんは医学部だ。

 対して私はどこにでもいる平凡な事務。取り柄は特にないし、まあしいて言えば愛嬌くらいだろうか。仕事は真面目にやっているつもりだけど、替えが利くタイプであることは間違いない。だからこそ、本当に私でいいのだろうかと考えてしまう。もちろん悩みはそれだけではないのだが。


 彼と出会ったのは行きつけのBAR。カウンターがL字になっていて、角に並んで座った。たまたま同じタイミングで「すみません」とマスターを呼んだのが始まり。顔を見合わせ、少し笑ったのが懐かしい。

 それからBARで何度か鉢合わせ、帰り道が同じとか、いつもハイボールだねとか、そんな話が続いた。誠一は聞き上手で、私のつまらない話にも相づちを打ってくれた。

 ある日の閉店間際、「今度ちゃんとご飯行きませんか」と言われ、そこから一気に。あれから五年かと、時の流れを実感する。


 誠一の実家には何度もお邪魔している。広いけれど、気取らない家。お父さんは気さくで、すぐに釣りの話をする。「いつか一緒に釣りをしよう」と笑う目尻の皺が、誠一に似ていてかわいい人。

 お母さんは料理が上手。テレビで見たものをすぐに自分流に変える。オリジナルの料理も多く、「これは内緒ね」と言って、私だけにこっそり食べさせてくれることもあった。「誠一と結婚したら、レシピ教えてあげる」と、関係は良好に築けているように思う。

 問題は弟の誠人くん。正直苦手だし、分かり合える気がしない。誠人くんは虫が……、虫が好きなのだ。対して私は虫が大の苦手。画面の中のものでもダメだし、なんなら「虫」という字面だけで鳥肌が立つ。とくに蜘蛛類が苦手で、同じ地球上の生物だとはとても思えない。ときおりテレビに映る巨大な蜘蛛に、叫び声を上げたことは今まで何度もあった。だめだ。思い出しただけでも鳥肌が立って足がすくむ。耳元でかさかさと這いずり、ぎちぎちと蠢いているような錯覚。いつか私を捕食しに来るのではないかと、有り得ない妄想までしてしまう。

 それだけではない。誠人くんの部屋には、たくさんの虫の標本が飾ってある。色も形も、見たことのないものが並んでいた。綺麗だと言う人もいるのだろうけど、私には理解できない。そのうえ誠一から、タランチュラやルブロンオオツチグモという、手のひらサイズの蜘蛛を飼っているとも聞いた。

 同居するわけではないのに、気にしすぎかもしれない。けれど、それでも誠人くんが怖い。それにもう一つ、絶対に受け入れられないものを誠人くんの部屋で目撃してしまった。乱雑に積まれていたBluRayディスク。そのタイトルに書かれた「蟲姦」という文字。調べて絶句した。「ちゅうかん」と読み、AVやアダルトな漫画やアニメのジャンルなのだと。虫と人が交わるなんて、想像しただけで吐きそうだ。調べた際に見てしまった画像では、無数の蜘蛛が裸の女性の上を這っていた。

 ひとまず誠一にお願いして、私が虫嫌いだとご両親や誠人くんには伝えてもらったが──。

 その話をした日、お父さんが「実は私も虫が苦手なんだ。蜘蛛はとくにな」と打ち明けてくれた。そうして「蜘蛛嫌い同盟だ」と言って笑ってくれ、お母さんも「私もだから安心して」と。誠一に関しては「俺も苦手だけど個人の趣味だからなぁ」と、一定の理解を示している様子。


 ……とまあ色々と不安は残るけれど、結婚へ向けての段取りは進む。当面の不安は、医者の家系に場違いな自分が混ざっていいのかという漠然としたものと、誠人くんへ抱いてしまった嫌悪感。誠人くんと話す際、うまく笑えているか自信がない。もちろん誠人くんが無理やり虫の趣味を押し付けてくることはないが……。本当にこのまま結婚して大丈夫なのだろうか。最近では悩みすぎて、夢にまで蜘蛛が出てくるようになってしまった。夢の中の私は身動きできず、ゆっくりと蜘蛛に咀嚼され──。


 そんな話を聞いてもらおうと思い、今日は早苗と食事。大学時代からの友達で、自分の意見をはっきり言う性格だ。そのうえ好奇心が強く、なんにでもぐいぐい行く。一時期は「昆虫食流行ってるから」と、色々と食べていた。だからこそ相談しやすい。普通の友達には「婚約者の弟の部屋に、蟲姦のBluRayディスクがあって怖い」、なんて相談できない。


 店は前から早苗が行きたいと言っていた、異国情緒溢れるアジアン居酒屋。辛いものやアジア料理が得意な早苗の好みだ。少し遅れて到着した私に、早苗が「こっちー!」と手を振っていた。すでにテーブルにはいくつかの料理。丸い皿がいくつも並び、湯気が上がっている。早苗が店員を呼び、「すいませーん! 生二つ!」と、よく通る声で注文。早苗の頬は赤く、目がとろんとしていた。

「もしかしてここ来る前にも飲んでた?」

「少ぉしね」

 昼飲みでベロベロになるのは早苗の常だ。今日は呂律が回っているので、むしろいいほうだろう。私が「結婚について相談したい」と言ったので、少し抑えてくれたのかもしれない。

 そうこうしているうちにビールが到着。乾杯してごくごくと喉に流し込んだ。

「適当に頼んどいたから好きなの食べなぁ」

 早苗に促され、おそらく空芯菜? の炒めを口に運ぶ。しゃきしゃきとして、がつんとにんにくの香り。これはお酒が止まらないやつだ。ついでカシューナッツと鶏肉の唐辛子炒めを口に運ぶ。辛味と旨みが口いっぱいに広がり、じわじわと汗をかく。

 その次はコロッケ。箸で割った瞬間、湯気とともに独特の香りが立った。アジアっぽい香りが食欲をそそる。口に運ぶとサクサクで香ばしく、トロッとした蟹のような旨みが口の中に。舌に残る濃厚な味。

 けれどどこかで食べた気がする。それはどこでだったか──と思っていると、目を見開いた早苗と目が合う。

「……ごめん、それ、タランチュラのコロッケ……。頼んだの忘れてた……」

 私は思わず吐き出した。

 よりにもよってタランチュラ。食べるやつがあるのを動画で見たことがある。海外の屋台で、素揚げにして客が齧っていた。あの足の多い、毛の生えた──。最近では昆虫食に親しんでもらえるように、見た目ではそれと分からないものも増えたと聞く。

 けれど私がタランチュラなんて食べるはずがない。見た目で分からないからといって、食べるわけがない。

 なのに、なのに、たしかに食べたことがある。どこで、どこで、私は──


 ふと、油に混じる甘い匂いが、鼻に残る記憶を刺激した。


 ……誠一のお母さんの、コロッケだ。


 そんな、そんなわけ、ない。

 お母さんも私が虫が嫌いだと認識している。とくに蜘蛛が苦手だと伝えてある。

 じゃあなん、で……?

 なんで食べさせたの……?

 もしかして、もしかして──


 ──ブー、ブー。


 スマホが振動し、届いたメッセージ。

 差出人は誠一のお母さん。

 そこには「新しいオリジナル料理考案したの。食べにこない?」と。


 虫が嫌いだと言っている相手に、ひそかに虫を食べさせる行為。


 ──これは内緒ね。


 あの時、そう言って微笑んだ誠一のお母さんの顔が、記憶の底で歪む。

 趣味で完結する誠人くんとは違う。

 これは──


 気付いてしまった悪意が、じわじわと私の心を侵していく。

 まるで夢の中で私を捕食する蜘蛛のように、それが蠢いている気がした。



 ──侵食(了)

 


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侵食 鋏池穏美 @tukaike

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